幸田露伴を展開する 13 「白芥子句考」

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 師匠や仲間に迷惑をかけることを恐れたのか、保美に蟄居していた杜国にはほとんど句は残っていないが、杜国という号を捨て、野人として俳席に参加したこともあった。『笈の小文』にある芭蕉の一句「いざゝらば雪見にころぶところまで」を発句とする歌仙がある。

 

  いざゝらば雪見にころぶところまで

     硯の水のこほる朝起     左見

  同じ茶の焙じ足らぬは気香もなし  努風

     三十余年もとの貌なり    野人

  あの山のあかりは月の御出やら   支考

     蚊帳つる世話もやめた此頃  故江

 

 あるいは、師匠である芭蕉が杜国の家僕の手紙にさえ杜甫を引用するくらいだから、杜国という号自体も杜甫から来たものかもしれないし、唐の天宝三年、杜甫李白に送った詩の一節、

  野人対腥羶 蔬食常不飽

で、杜甫が自分を野人とたとえたことにならって、杜国は野人という号を用いたのかもしれない。

 

 この歌仙は『一葉集』に載っているもので、『一葉集』は正確には『俳諧一葉集』といって、文政十年に、古学庵仏兮・幻窓湖中が編集して刊行された、前編五冊、後編四冊からなる発句、紀行文、書簡までを合わせた最初の芭蕉全集ともいうべきものである。明治25年にはじめて活字化され、したがって、この文章の冒頭に引用した坪内逍遙宛ての書簡にあった地獄谷に露伴が携えていった『一葉集』は、江戸時代に刊行されたものであった。

 

 典拠が明らかではないものなども含まれており、この連句も実際に集まってなされたものか、書簡などのやりとりによって交わされたものなのか、明らかではないが、いずれにしろ、『笈の小文』の「いざゝらば雪見にころぶところまで」の句は、その前後の句の場所からすると、名古屋の熱田あたりでの句であったと推察される。

 

 その後、芭蕉は保美から出てきた杜国を伴って、伊賀、伊勢、大和、紀伊、攝津を旅する。芭蕉の紀行文で、同行しているのは杜国、越人、曽良で、いずれも「偽り」のない人物だった。一方、同じく名古屋の荷兮や、支考は師匠の芭蕉を都合よく利用した人物として露伴に容赦なく責められている。杜国の死の年に送られた書簡を引用して、露伴は、『奥の細道』の紀行では杜国を伴うつもりで、保美から誘いだそうとしていたのではないかと推察している。

 

 いずれにしろ、同年、杜国は我々には知るすべのない原因によって死んでしまった。露伴は全集版において65ページに及ぶ考証を次のように締めくくっている。

 

 杜国句あり、曰く

  馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ

と。人生禍福の相、種々無量なり。諦観の一句、既に閑葛藤を画化し詩化するに似たり。善い哉。

 

 

 そして、何事にも懶い老いのなかにある自分にとっては、これ以上調べることにも倦んでしまったなどといいながら、「追記」と「追加」が更に付け加わっており、杜国が保美にあったのが、藩の命令によるのか、それとも罪を恐れて杜国自ら保美に身を隠したのかが、気になって仕方がないらしく、保美が天和元年から元禄三年までは土井周防守の領地であったことを確かめ、尾州領ではないことから、杜国が自ら身を隠したことは間違いないことをいい、古来の伝承や伝説の多くは「虚妄」であり、そのまま受け入れることはできないと戒めている。