ブラッドリー『仮象と実在』 63

     (過去、未来、同一性に関する難点。)

 

 過去と未来の出来事について明らかな問題点が生じる。もしそれらと、それらと現在との関わりが実在ではなく、しかもそれらがなんらかの意味で存在しているなら、そこには私が入りこむ気のない難点が生じる。しかし、過去と未来(あるいはそのうちのどちらか)がなんらかの意味で実在だとすると、第一に、この系列の統一は不可解なものとなろう。第二に、現前もしておらず、与えられてもいない(過去といえど与えられていないことは確かである)実在に現象主義は直面するわけである。ここにも不整合がある。

 

 同一性の問題についても考えてみよう。同一性とは多数性の実在における統合なので、現象主義はそれを否定しなければならない。しかし、変化は、明らかに、なにかが生じるときにそこになければならないものであるので、否定されない。もし変化があるなら、その帰結として変化するなにものかが存在する。しかし、もしそれが変化するなら、それは多様性を通じて同一だということになる。別の言葉で言えば、実在する統合体で、具体的な普遍である。例えば、運動をとってみよう。明らかにそこではなにかが場所を変えている。それゆえ、それがなにを意味するのであれ、場所の多様性--いずれにしろある多様性--がなにかについて言われなければならない。もしそうなら、我々は一度に一と多とをもつことになり、それがなければ我々の理論はが一般的事実を扱えない。

 

 端的に言って、この教義が排除した同一性は存在に本質的なものである。それはどこにまで及ぶのだろうか。異なった現象の系列は一つの系列だろうか。違うなら、なぜそうであるかのように扱うのだろうか。一つなら、そこには我々をためらわせる統一があることになる。諸要素は永続的で、ある時間同一であり続けるのだろうか。しかし、同一であれそうでないのであれ、諸事実はどのように説明されるだろうか。第一に、変化と多様性の戯れのなか同一であり続ける要素があると仮定しよう。そこには形而上学的実在があるが、それはこれまで論じてきた古くからの難点を生じる。しかし、恐らく、諸法則以外真に永続的なものはない。変化の問題はあきらめ、移ろっていく諸要素の継起のうちに存しあらわれる法則に頼ることにしよう。もしそうなら、現象はその時々の法則のあらわれということになろう。

原理にまで還元しがたい頑固な事実

 「原理にまで還元しがたい頑固な事実」という言葉は、ウィリアム・ジェイムズが、簡略版でない大部な方の『心理学』を書き終わるに当って、弟の小説家ヘンリー・ジェイムズへの書簡で書いた言葉である。そうした事実にもひるまず、一つ一つの文章を練り上げていかなければならない、と手紙は続き、不規則で、いまここでしか存在し得ない事実を、ねじ伏せる様にして学問にしていく姿が垣間見られる。しかし、この言葉をもっとも魅力的に使ったのはホワイトヘッドであって、我々をとらえる直接の喜びを示したとしてあげられているジョット-、チョウサ-、ワーズワースホイットマン、ロバート・フロストの系譜に自らも身を連ねている。つまり、「原理にまで還元しがたい頑固な事実」は、科学、哲学、芸術が出発し、環帰する回帰点なのである。

ブラッドリー『仮象と実在』 62

      (その要素は理解不可能である。)

 

 第一に、この教義がその要素と関係について述べていることは理解することのできないものである。現実的な事実があるところでは、そうした区別は明らかで、必然的であるとさえ思える。少なくとも、私はどうしてそれを免れることができるのかわからない。しかし、そうであるとしたら、ここには統一された多数があることになる。恐らく、どのようにしてか一緒になったいくつかの要素とその関係があることになる。区別ということが分離することであるとき、「一緒」の意味とはなんであろうか。その関係とはどういうことだろうか。いくら内的なものであっても、それらから自由な要素がありうるだろうか。諸関係自体が与えられた要素ではなく、別の種類の現象なのだろうか。しかし、もしそうなら最初の種類の現象と第二の現象との関係はどういったものなのだろうか(第三章参照)。もしこうした疑問がまったくのナンセンスだというなら、このナンセンスの責任は誰にあるのだろうか。例えば、どんなものでもかまわないが、感覚的事実を取り上げてみよう。そして、その要素と関係ということでなにが意味されるのか現象主義者にはっきりした言葉で言ってもらうことにしよう。その二つの側面は互いに関係があるのか、そうでないとしたらどういうことなのか言ってもらうとしよう。次の点に移ることにする。

悲劇と科学

 

 

 ギリシャ科学的精神濫觴の地であるなら、科学もまた劇的な要素をもっていたといえる。実際、アリストテレス的に考えれば、たとえば、ものは重力という目的因によって、高いところから低いところへ落下するといえる。ホワイトヘッドによれば、悲劇の本質は登場人物を見舞う不幸にあるのではない。運命の不可避性にあるという(『科学と近代世界』)。この不可避性が科学にも共通し、近代のヨーロッパにも通じている。近松の「悲劇」には纏綿たる情緒はあるが、不可避性は存在しない。多くの場合、家、つまり社会的な制度から脱出すればいいだけのことで、そこに科学に通じる呵責な運命は存在しない。

ブラッドリー『仮象と実在』 61

      (しかしそれはそれ自体一なる諸事実を含まない。)

 

 最後の問題は、ある非常に明白な批判を示唆している。この観点は、すべての事実を考慮すると主張するか、あるいはそうした主張をしないかのどちらかである。後者の場合、同時にそれでこの主張も終わる。しかし、前者の場合、次のような致命的な反論に出会うことになる。諸事物や世界や自己に統一を導入するような考え方--明らかにそうした考え方は多く存在するのだが--はもちろん幻想である。しかし、にもかかわらず、それらはまったく否定することのできない事実である。現象主義は、それらの事実を考慮し、その存在が可能となる原理がいかなるものであるか説明するよう求められる。例えば、そうした諸要素とその法則だけで、現象主義の理論そのものは、どのようにして可能となるのだろうか。その理論は、もし真実であるなら、不可能なものの統一であるように思われる。この種類の反論は非常に広範囲にわたり、あらわれの考えうる限りの領域に及ぶ。しかし、私は現象主義がいかなる答えを用意しているかを尋ねようとは思わない。単に、この一つの反論があり、それが理解されさえすればするべきことは終わっている。かつてこのことに公正に向き合った試みがあったのなら、私は見逃してしまっている。我々は予めそうした努力はまったくの無駄に違いないと決めてかかっているのかもしれない。

 

 そういうわけで、教義の実際の批判には入らず、この教義が認めなければならないこと、にもかかわらず目を閉じて無視していることに言及することだけで十分な反駁としよう。しかし、この教義のもつ矛盾について数言だけつけ加えておこう。

ブラッドリー『仮象と実在』 60

      (救済策としての現象主義。)

 

 「なぜ」、と言われるかもしれない、「なぜ我々は統一を探し求めて苦しまなければならないのだろうか。物事はあるがままで十分うまくいくのではないだろうか。我々は、実際には実体とか活動とか、それに類したものを欲しているわけではない。現象とその法則が科学が必要とするものである」と。そうした考え方は現象主義と言うことができる。それは最善の表面的な見方で、もちろん、様々な知性の程度で主張されている。そのもっとも首尾一貫した形では、現象を感情や感覚と捉えているように思われる。それらとその関係が要素である。そして、法則がそのどこかにどのようにしてか入り込んでいる。反対意見の者に対して現象主義者は主張するだろう、それ以外のなにが存在するというのか。「実在するというものを私に示して欲しい」と彼らは論じる、「私は現れているものをあなた方に示そう。それ以上のものは発見できないし、実際にはそれ以上のものは意味がない。事物や自己はいかなる意味でも統一体ではなく、こうしたあらわれている要素の集合や配列に過ぎない。実際には、あらわれているものはそれなりの仕方で集められている。もちろん、そこには法則が存在する。ある事物が与えられると、別のある事物も与えられる。あるいは、別のある出来事が生じる、または生じる可能性があることを我々は知っている。かくして、出来事、生じてきたあらわれ、それらのあらわれが生じる仕方以外のなにものも存在しない。科学の名の下にどうしてそれ以上のことを求められるだろうか。」

ブラッドリー『仮象と実在』 59

  第十一章 現象主義

 

      (更なる帰結。)

 

 このように、世界の多様な内容を統一に導こうとする我々の試みは失敗に終わった。我々が見いだすことのできた集合体は、事物であれ自己であれ批判に耐えうるものではないことがわかった。そして、あらわれているものはどこかで一つでなければならず、この統一は現象のうちには発見されないということになると、実在は我々とは異なった世界に追いやられてしまう。我々は仮象と実在を分離する寸前まで追いやられている。恐らく既に異なった二つの半球を予期してさえいる--一つは我々には知られていない実在の領域で、他方が我々が知る単なる仮象の領域である。しかし、その段階にまで至る前に、まったく手前勝手で自分の便宜のためではあるが、予想される別の選択について少々述べてみようと思う。