一円一話 10

 

 

ポー 夢想の原始性 夢とイメージ

 語り手は読者を恐ろしい場景の前においたのではなく、恐怖状況のなかにおいたのであり、彼は根源的な力動的想像力を揺り動かしたのである。作者は読者のたましいのなかに直接、墜落の悪夢を誘いこんだのだ。彼はわれわれの内的本性に深く刻まれている或る型の夢想に由来する、いわば原始的な嘔吐を見つけだすのである。エドガー・ポーの多くの短篇において、人は必ず夢想の原始性を再認するであろう。夢は覚醒生活のうみだしたものではない。それは根源的な主体的な状態である。形而上学者はそこに想像力のコペルニクス的展開が行なわれているのを見うるであろう。実際イメージはもはや客観的<<輪郭>>によって解明されず、主観的<<意味>>によって解明される。この変革は結局、

  夢を現実より先きに

  悪夢を葛藤より先きに

  恐怖を怪物より先きに

  嘔吐を墜落より先きに

おくことに帰着する。約言するなら、読むものにそのヴィジョン、恐怖、不幸を否応なく感じこませるほど、想像力が主体の内部で生きるのである。もし夢が何かの想起であるなら、それは生より以前の状態、すなわち死せる生の状態、幸福の以前にある喪の状態の想起である。人はさらに一歩を進めて、イメージは思想、物語よりも以前に、さらにはあらゆる感動よりも以前にあるものだということができるであろう。

 マラルメヴァレリーなどが読み取ったポーの他にも、より原初的でだけだけしいポーが存在する。

ブラッドリー『仮象と実在』 102

第十七章 悪

 

      ... [ある間違いによってもたらされた難点。]

 

 我々は誤りが絶対における完成と両立可能であることを見てきたが、悪の場合にも同じ結果に達するよう試みてみなければならない。悪は、もちろん、重大な難点をもたらす問題であり、なかでも最悪のものが持ち込まれ、純粋な誤解として残っている。ここでもまた、「自由意志」と呼ばれるものが問題となる。難点は、絶対が道徳的な人格だという観念から生じている。こうした根拠から出発すると、悪と絶対との関係が解きほぐすことのできないジレンマとなってあらわれる。問題は、曖昧というわけでも、神秘的というわけでもないが解決しがたいものとなる。ごく普通の感覚をもち、物事をあるがままに見るだけの勇気を持っていて、他人や自分をごまかすことで解決しようとはしないなら、実際論じるべき問題はなにもない。このジレンマは、明白な自己矛盾に基づいているために解決することができないのは明らかであり、それについて論じてもなんら有益なことはないだろう。こうしたことは、我々が絶対を(正式に)道徳的だと仮定する根拠を有するときにのみ関わってくる問題である。しかし、我々はそうした根拠をもっていないし、後に(第二十五章)道徳性は(そうしたものとしては)絶対に帰することはできないことを確かめてみようと思う。それとともに、問題は、他の多くの例と比べて一層悪いというわけではなくなる。それゆえ、読者にはためらいや疑いを捨て去ってくれるようお願いしよう。我々が問いかける問題が解答不可能であることが証明されたとしても、それは曖昧であったり、理解不可能なものであるためではないことは確かである。単に我々のもつ資料が不十分なだけなのである。とにかく、我々が探っているものが何であるのか理解するように努めてみよう。

一言一話 9

 

 

ポー 失神

 ポーは失神を、いわばわれわれの存在内部における墜落として、まず肉体的なものの意識が次々と消え、ついで道徳的なものの意識が消える存在論的な意識として、記述する。もしも人が二つの領域の境目にある力動的想像力によって生きることを心得ればーーいいかえれば人が真にまたもっぱら、心象のもっとも大切な形である想像的存在であるならばーーエドガー・ポーがいうように<<超現世的な深淵のあらゆる雄弁な思い出>>を喚び起こすことができるだろう。

 身体と結びつかないものは、空虚な概念でしかない。「超現世的な深淵」も失神と同一視されることによって肉づきのある観念になる。

ブラッドリー『仮象と実在』 101

   ... [この可能なる解決は実在であるに違いない。]

 

 いまのところこの解決を細部にわたって立証することはできず、許されてもいない。私が認め、主張したいと望む一つの説に止まっている。あらゆる誤りを取り上げて、全体に戻すことでそれがどう解消されるか示すことは不可能である。細部は別にしても、一般的に関係がどう吸収されるのかを理解するのも不可能である。しかし、他方において、私はこの解決が理解不能であったり、不可能であることを否定する。その可能性こそが我々の望むすべてである。というのも、絶対は調和のとれた体系で<なければならない>ということこそ我々の見てきたことだからである。我々はそれを一般的な形で認め、ここでは誤りという特殊な、否定的とされる例をとって考えてみた。我々の対立者は、誤りは調和を不可能にすると述べた。他方、我々は彼はそうした知識を持っているわけではないことを示した。誤りが自己を修正し、より高次の経験のなかに消え去ることが少なくとも可能であることを指摘した。もしそうなら、誤りが実際に吸収され、解決されることを肯定<しなければならない>。というのも、<可能>であること、我々が一般的な原則によって<であるに違いない>といわざるを得ないことは、確実にそうしたものとして<存在する>からである。

一言一話 8

 

 

ポー 力動的想像力の優位

 彼は客観的なイメージのフィルムをくり広げる前に、読者のたましいのなかに、この想像的墜落を導入する手段を見出さねばならぬ。まず心を揺り動かし、それから見せねばならぬ。作家が心の奥底でたましいを動かす本質的な恐れによってたましいを感動させたときには、推論的な恐怖の装置は二次的な役割しか果たさない。エドガー・ポーの天才の秘鑰は、力動的想像力の優位にみずからの根拠をおいていることである。

 気球による冒険や、大海原での恐ろしいスペクタルも書いているが、「アッシャー家」や「リジイヤ」の印象の方が強いせいか、力動的想像力と言われてもピンと来なかったのだが、思えば、ポオは力動的想像力によってしか成り立ちようがない宇宙論ユリイカ」も書いていたのだった。

ブラッドリー『仮象と実在』 100

 ... [その事実上の不調和は消し去ることができる。]

 

 しかし、我々の考察は不完全であるために擁護できない、というのは正当な反論であろう。誤りは単に否定的なものでは<ない>からである。孤立した不調和の内容は、結局のところ、事実上の不調和を伴っている。諸要素が存在し、その主部に対する関係がすべて絶対のうちに存在し、なにかを補うことですべて真実にするとしても、問題はいまだ解決しない。とどのつまり、誤りは部分的で、矛盾し続けることにこそあるのであり、こうした不調和はあらゆる可能な再編から免れ続けるだろう。私はこの反論を認めるし、支持もする。誤りの問題は関係を拡大することで解決することはできない。誤った位置づけの各々を、調和をもたらす操作によって一要素として、全体のなかに組み込むことはできない。各現象には実在としての意味と特殊な性格があり、それはそこから洩れてしまうだろう。あらわれているものはなんらかの形で存在しており、そのすべてが再編のなかに組み込まれることはない。

 

 だが、他方において、絶対は関係の図式ではないし、そうしたものとして考えることもできない。もしそのように考えるなら、全体の調和のある統一は存在しないだろう。絶対はどれ程多くのものが補われようと、単なる配置を越えたものであり、ある配置は存在の一側面に過ぎない。既に見たように、実在はより高次の経験、相違を含みそれを越えて拡がるものによって成り立っている。このことで、誤りを変化させることに対する最後の反論もその根拠を失う。誤りが実際の孤立であり、より広範囲にわたる関係のうちに解消することができないという一側面を強調すること――これもまた、どのようにしてかは我々にはわからないが、絶対の調和に帰することとなろう。あらゆる「なに」と「それ」、およびその諸関係とともに、もう一つの細部となり、全体のなかに吸収され、その完成の役に立つこととなろう。

 

 この見解については、誤りと真実についていまだ扱わねばならない問題が存在する。しかし、誤った現象がもたらす主要なジレンマについては解決されたと思われる。それらは存在するが、その通りのものとしては実在ではない。その配置は「なに」と「それ」のより広範囲な再編のもと真実となる。誤りは補われることで真実となる。その事実上の孤立も還元されうるものであり、全体のなかの要素として存在する。誤りは存在するが、単にそうあらわれているものとして存在しているのではない。その偏向もまた部分的な強調であり、その固執も、どのようにしてかは我々にはわからないが、より大きな生命の力に寄与するのである。そうであれば、その限りにおいて、全体的な問題は処理されたことになる。

一言一話 7

 

 

ベルグソンバシュラール

ベルグソン氏とわれわれとの間には、常に変わらない方法の相違が存在する。すなわち彼は、出来事にみちた時間を、それらの出来事の意識の水平そのものにおいてとらえ、ついでそれらの出来事、したがってそれらの出来事の意識をだんだんと消していく。思うにそのようにして彼は、出来事のない時間、つまり純粋持続の意識に到達するのであろう。これに反してわれわれは、意識する瞬間を積み重ねるときにしか、時間を感覚することはできないと考える。たとえわれわれの怠惰が、思索を生ぬるいものにしているとしても、持続しているという、多少とも漠然とした感情を持つのに充分な、感覚や肉体の生によって豊かにされた瞬間が、なおわれわれに残されうることはいうまでもない。しかし、われわれとしては、その解明はただ思考の積み重ねの上にしか見出しえないだろう。時間の意識とは、われわれにとっては常に、「瞬間」の利用の意識であり、それは常に能動的であってけっして受動的ではない。言いかえれば、われわれの持続の意識とは、我々の内部存在の進歩ーーたとえその進歩が実効あるものであれ、見かけだけのものであれ、あるいは単に夢想されただけのものであれ、--の意識のひとつである。

 瞬間がそれほど目立たぬところ、時間というものがそれが経過しているうちには意識されない場面、例えば音楽や小説や映画に没入し、のちに振り返って初めてそこに時間の経過を認めるのならばようなときには、瞬間と持続の問題はアキレスと亀の一変種とたいして変わらない。持続には瞬間が必ず包含されており、瞬間の連続が持続に追いつくことはない。