ケネス・バーク『動機の修辞学』 52

.. 宮廷作法の戯画:カフカ(『城』)

 

 『宮廷人の書』の弁証法的対称を視野におきつつ、フランツ・カフカのグロテスクな小説『城』を考えてみよう。トーマス・マンカフカを「宗教的ユーモリスト」と呼んだ。うまい例えであって、それだけにマンがした以上につっこんだ説明をする価値がある。マンはカフカのうちに、平凡さに対する愛と「神に近づき、神のうちに生き、神の意志に従って正しく生きようとする」願いの循環を見ている。マンの『トニオ・クレーゲル』で、芸術家の動機とブルジョアとしての動機の解決できない葛藤が感傷とユーモアを生んだように、『城』の主要な動機は「宗教的な領域にあり、トニオ・クレーゲルの孤立に対応する」とマンは言う。

 

 しかし、我々の宮廷作法の魔術に関わる観点からすると、『トニオ・クレーゲル』にさえ<カースト>への関心が示されているのが認められる。ブルジョアのインゲボルグに対するトニオの内気な思慕は、階級としてのブルジョアへのノスタルジックな姿勢が性的な形であらわされたに過ぎない。事実、帰還は確保されているので、芸術家としての「離脱」、ボヘミアンに転ずるブルジョアという姿は、彼自身が通常そうだと感じている階級の諸動機に相反するものではない、と我々は捉え始める。若いボヘミアンの放浪は、老いたボヘミアンの帰還の第一段階に過ぎない。ボヘミアンは「実質的には」去る前に元に戻っている。ボイグがペール・ギュントに諭すように、回り道をしなければならない。父親と放蕩息子は、共同体の底に潜む動機という点から見ると区別できないにしても、彼ら自身は両極端におり、<種として>異なっていると感じることができる——マンの物語の辛辣さは、実践的ブルジョアと倫理的ブルジョアを異なった<階級>として扱い、トニオが両者の間を揺れ動き、そしてまた、インゲボルグとリザベータという二人の女性に、その人物だけではなく、二人の代表する社会的動機の対照的な秩序のために求婚することにある。彼女たちは二つの非性的な原理を、二つの異なったカーストを性的に体現する神秘的な容器である。彼女たちに対する両義的な求愛は、カースト間の遠回りの交流である。

 

 美学的動機の代わりに宗教的動機を置き換えると、『城』と『トニオ・クレーゲル』の動機にアナロジーを認めたマンが正しいことがわかる。しかし、我々の目的からすると、このアナロジーの意味深い要素がマンによる自作の考察では除かれていた。この要素を加え、カフカの小説を『宮廷人の書』の弁証法を頭に置きつつ見ると、なぜ、またいかにマンの図式が当てはまるのか正確に理解されよう。カフカは、究極的神秘、人間の諸動機の普遍的な根拠に関心を払っているという意味で「宗教的」と言えよう。しかし、宗教的動機についての彼の考察は「ユーモラス」であり、それは、社会的秩序が我々の神の観念と不釣り合いなこと、人間は世俗的な気後れとのアナロジーなしには神とのコミュニケーションが考えられないことを彼が決して忘れないからである。

 

 宮廷作法の原理は表現主義的でグロテスクな断片にあらわれている。「威厳」の神秘があり、高い地位と低い地位とのコミュニケーションである官僚制ゆえにそうした原理が存在する。宮廷作法の究極は低い身分と「最高位」にあるものとの交わりであるから、社会的神秘を通じて神の神秘を見やることで、まさしくカフカは自らの主題の本質に赴くこととなる。しかし、彼は決して社会的神秘と神の神秘との不均衡を忘れないし、我々に忘れさせない。かくして、社会的神秘は神の神秘をあらわす形象を与えてはくれるが、その形象は究極的な位階原理には不条理なまでに不十分である。

 

 カフカ個人のことで言うと、もちろん、社会的神秘は反ユダヤ主義の形で経験され、苦しめられた。自由主義的な、ヒットラー以前のオーストリアでは、ユダヤ人は完全に排斥されもしなかったし、完全に認められたわけでもなかった。充分自由主義が行き渡っていたときにナチズムへと向かう運動が起こり、ユダヤ人の社会的地位が揺らいだ。この文学外の状況が『城』のプロットにも影を投げかけており、特に主要な登場人物である「K」が城との連絡を強めたり失ったりする不確実さにそのことはあらわれている。(同様に、『審判』では、どこにもなくまた至る所にある神秘的な裁判所によって無罪や有罪が宣告されるKの不確実さがある。実際、彼は何を咎められているかさえ知ることができない。)

 

 ある部分では、状況は、身分制の神秘への関与から閉め出され、排斥されたようでもある。だが、ある部分では新参者がしごきにかけられているようでもある。しごきの裁判であり、「罪のある」被告は、最終的には内部にある聖所、至聖所に入ることが希望できる。しごきを受ける志願者は、その本性のある部分において<部外者>であるために儀礼的な罰を受けるのだが、<内部の人間>になる希望をもてるのである。あるいは、状況は、上級生が新入生に召使いの仕事を押しつける「上流の」学校のようだとも言える。あるいはまた、仲間や秘密結社員にだけ神秘が伝えられる掟のようなものでもあろうか。しかし、一つの重要な相違がある。そうした儀式が行き渡ったところでは、失敗は煤けた制度が要求するだけの「威厳」を築き上げ、志願者は自分がどこにいて、どのように振舞えば最終的に神秘的実体への関与が許されるのか知っている。だが、そうした形式的な決まりがない場合、どのような状況にあるのかは理解されない。志願者はしごきを受けるのだが、志願者もしごいている者もこれからどうなっていくのか理解していない。それゆえ、被告の「罪」はなんであるか、どんな「裁判」が、どんな目的でなされねばならなのか誰も確信をもっていない。

 

 ある友人がこう言っていた。「1929年の財政破綻の後、リベラルな知識人の多くが政治的ラディカリズムに加わったのを覚えているだろう。長年、闘争を繰り返してきたラディカルな文学組織は、突然の新たな転向者たちに圧倒されることになった。組織の古参はメンバーを増やそうと努めていたわけだが、状況はまったく逆になった。新たな参加者を歓迎する代わりに、彼らが詰まらぬ人材だと証明しようとする傾向が生じた。この傾向が増すにつれて、古参は、運動の拡張を喜ぶプロパガンディストというより、近所の不動産開発に憤る排他的な住人のように振舞った。

 

 何年か後、私はなにが間違っていたのかわかった。古参たちは、組織で以前のような影響力が失われるのを恐れていたのではなかった。不注意に神秘を踏みつけにすることが彼らを困らせていたのだ。新人はレストランに入る一団の子供のようにして入ってきた。段階もなければ、罰もなく、しごきもなかった。ある瞬間にはいなかった者が、次の瞬間突然そこにいた。こうした場合に必要な形式的儀礼がなく、古参たちは我知らず、非公式的なしごきをしたり、以前だっら精力的に取り入れようとしていた人々を閉め出そうとしたりしたのだ。」*

 

*1

 

 ユダヤカフカにとって、神秘を再確認するしごきは公式に認められてはなかった。実際、彼がしごかれていたという確証もない。『城』で追放される人物について言われるように、上官は告発もされてもいない者を許すことはできない。「許される前に、罪が証明されねばならない」のである。更に、神秘がどこにあり、どのようなものであったか明確な手がかりは存在しない。最も近くに見て取れる明らかなしるしは官僚構造である。最大限に意味を増幅させれば、そこで人は「神」の意味合いを得たし、「宗教的」にもなった。しかし、神性をあらわすのにいかに不適当であるかがわかっているので、グロテスクな「ユーモア」をもって扱うのである。かくして、その実体が本来の人格ではなく、職務に備わる威厳だけにある神秘的な役人は、ここで新たな意味合いをもつことになる。彼は、宗教的動機に適した<本来的な性質>も何らあらわさないという意味において非実在的である。だが、階級の神秘が「威厳」を与えている。実際、聖職者として不適格なことが職務からくる威厳の効果を逆に示している。(同じように、学校を神秘として受け取る学生は、その本質を、学ぶことではなく、学ぶことをおろそかにした「学校精神」であらわすだろう。あるいは、資本をもとに高慢な態度を取り、奉仕を金で買い、骨で犬を打つ資本家は、人々の忠誠を取りつける性格上の魅力があったとしても、「純粋な」金の力を効果的に示そうとするだろう。)『城』では、<人>としてはみすぼらしい官僚が、<職務>と融合した神秘の全能を不条理にも示すのである。

 

 我々の見方によれば、『城』はそうした秩序の断片的な戯画であり、カスティリオーネの対話にあった形式的要素が、カフカの小説においてどの程度までグロテスクに対応しているかを見ることにしよう。

 

 『宮廷人の書』の第一の関心事は、君主のもと、宮廷において、恩顧と昇進を得るためにどう振舞うべきかにある。それはまた、測量士であるKの主要な関心事でもある。しかし、宮廷人は、宮廷の<なかでの>優位を得ることに関わるが、全くの部外者であるKには、自分と神秘的な支配者との間に曖昧に介在する広大な役所組織がある(宮廷のグロテスクで官僚的な対応物である)。Kは恩顧から離れた場所にいる。村人のなかでも異邦人である。村人は城に属しているが、彼らと城の間にも大きな隔たりがある。村で生活しているが、城の外部事務所と連絡を取る伝令がいる(グロテスクに天使に対応する)。そして、村のなかで城を代表する役人がいるが、位階の神秘的なよそよそしさに満ちており、小説全体を通じてKは彼らからあらかじめ話を聞いておこうとする無駄な努力で身をすり減らす。宮廷人が、君主の秘密の部屋でいかに振舞うべきかを考えたように、Kは入り口をどう越えるか悩まねばならない。

 

 フリーダとアマリアがグロテスクな宮廷作法を女性に移し替えたものである。フリーダについては、「クラムとの近しい関係があるために」(彼女はKと一緒に暮らす前はクラムの愛人だった)「不合理にも彼女はKを誘惑するのだ」と言われる——そして、クラムは、Kが悪夢にうなされるかのように、定かならぬ理由によって常に会いたがっている城の役人である。アマリアは、役人からの卑猥な申し出の手紙をはねつけることで破滅した少女である(手紙は宮廷作法が歪められ裏返された言葉で書かれている)。ある登場人物は「役所の決定は少女のように恥ずかしがりだ」という土地の言い習わしを引用する。小説家はここで、巧妙に性的秩序と官僚秩序を混ぜ合わせている。「クラムがKの仕事に及ぼすことのできる単なる形式的な権力」と「クラムがKの寝室で実際に持っている権力」とをカフカは比較し、「Kは職業と生とがここにおいてほど絡み合っているのを経験したことがなかった。・・・両者が互いに場所を入れ替えたのだと考えることもできたろう」と言う。

 

 神秘と階級の関係について以前に言ったことを思い返すと、この発言は並はずれた意味を響かせるように思える。身分と分業とが同じものの二つの側面に過ぎないなら、「職業」は遠回しに<階級>を述べていると読める。実際、プロテスタント的文化の明らかな場所では、分業によって生じた身分の実質は、実際的に、仕事によって表現される。しかし、プロテステンティズムの説く世俗的な労働の神性は、カトリシスムの神性が身分を認めているのと同じく、世俗的な「神秘」と超自然的な「神秘」とが入り交じったものである。それゆえ、どちらの場合でも、社会的、宗教的双方の意味における「崇敬」が入れ替わり得る。カフカが述べた「職業」と「生」との交換可能性について考えてみよう。クラム(宮廷原理の神秘をあらわす)がKとフリーダとの性的関係にも侵入してくる様が語られている。そして、結局のところ、身分に関わる社会的動機(「職業」)は普遍的な動機(「生」)と絡み合っていて、入れ替わることが可能だと言われる。城が社会的カーストの優位をあらわしもすれば、神の優位をあらわしもするこの本の性質を思い返してみれば、この一節に二種類の「崇敬」(社会的なものと「神的」なもの)が性的関係によってグロテスクに融合されている様子が見て取れないだろうか。

 

 カフカにある宗教的な動機づけについては、トーマス・マンカフカの友人のマックル・ブロートのような権威によって明らかにされているので、ここで検証することはない。しかし、この性質を最も手早く伝えているのは第八章の二節目の文章だろう。

 

Kは、城をながめていると、静かに腰をかけて、ぼんやり前方を見やっている人間の様子をうかがっているような気がすることがときおりあった。相手は、もの思いにふけっていて、そのためにすべてのことに無関心になっているというのではなく、自分はひとりきりで、だれも自分を観察などしていないと言わんばかりに平然と安心しきったように腰をかけている。しかし、そのうち、いやでも観察されていることに気づくにちがいない。それでも、彼の平静さは、すこしもくずれないのだ。すると、これがそのことの原因なのか、それとも結果なのかはわからないが、観察者の眼は、焦点を定められなくなって、ずり落ちてしまう。(前田敬作訳)

 

 

そして、第九章では、「クラムの精神に満ち」、「クラムの名のもとに」行われたことや、「クラムの手のなかにある道具」でしかない人物についての議論が、純粋に官僚的な神秘に超越的な次元をつけ加えている。嵐と鷹のイメージがここでもあらわれる。実際、この作品から伝統的な神学的モチーフを取り出すのは容易である。むしろ問題は、英訳者が示すマンとブロートの発言にあるように、ここで重要な役割を果たしている社会的階級のモチーフを忘れないようにしておくことにある。

 

 『宮廷人の書』の他の二つの主要テーマ、笑いと教育についてはどうであろうか(これらのテーマはラブレー的なレトリックで、きらびやかに、ほとんどヒステリカルに提示される)。『城』では、笑いと教育という社交的修辞は(この本の宗教的側面では二つの「純粋な説得」の形式)は議論の対象ではないが、作品そのものの本質となっている。笑いは、グロテスクな変更を加えられて、崇敬の奇妙で「ユーモラスな」扱いとして、この本の構想と方法に埋め込まれている。そうした表現の社会的評価は、恐らく今日では、グロテスクとユーモアとが入り混じった『ニュー・ヨーカー』の類の「お洒落さ」に最もよくあらわれているだろう(「位階的な」訴えかけはそれに付された宣伝広告で示されており、明らかに郊外の中流階級の「エレガンス」に向けられている)。

 

 伝令のバルナバスが最初に任務を受けたとき泣き叫んだとKが聞かされるところがある。神秘についての注釈として、この出来事は極めて多くのことを語っている。というのも、バルナバスの最初の任務とはKと接触をもつことにある。それまで我々はバルナバスがKに神秘を見るように、バルナバスに神秘を見ていた。曲がり角を曲がることで突然視野に入ってきたこと、つまり、AにとってBは神秘的であり、BにとってAは神秘的で、それはいずれもCの神秘に関わっていることによる、という認識は幻想を追い払うわけではない。というのも、だれもが神秘が存在する<かのように>振舞い続けるからである。行為はイメージであり、神秘は我々の想像のなかで強い力を持ち続ける。実際、一度規則を学んでしまえば、一度このグロテスクな笑いを住みかにしてしまえば、神秘への動機の欠如そのものが神秘の感覚をつけ加えることになる。

 

 破綻したグロテスクな宮廷作法に、均整のとれた古典的な宮廷作法のそれぞれの要素に対応する点を見いだせるわけではない。だが、教育の原理に対応するものはたまたま存在する。形象として判断すると、Kの測量士という役割、あるいはむしろ、その役目を公的に認めさせようとする彼の努力は、教育の原理を含んでいる。というのも、象徴的に解釈すれば、測量士とは位置と高さとを特定する者だからである。そして、この半ば認められ、半ば排斥されるKが著者をあらわしているのは明らかなので、社会的位階に直面したKの苦境は位階的動機の正確な小説化であり、カフカはここでユダヤ「知識人」として書いているのだと言っても言いすぎではない(Kの村の農民や労働者への姿勢を見ればわかるように、知識人が肉体労働者よりも優れているとごく自然に考える点で彼は「内部」の人間である。名づけようのない、名づけることができないとさえ言える呪いを受け、その呪いのために永久に「有罪」であるという意味では「外部」の人間である。)カフカは「牧歌的に」労働者階級に求愛し、(党からはぐれた)左翼の尻尾振りが「インテリゲンチャプロレタリアートのなかに入っていかねばならない」などと言ってそそのかす社会的関係を結ぶかもしれないが、知識人は当然労働者階級よりも優れた身分だと考える限りにおいて「内部の」人間である。知識階級そのものがある意味疑わしいものであり(教会に対しては、アクイナスの天使は純粋な知識人だと言われるにしても)、加えて、将来ヒットラー<帝国>の一部となるべき場所でユダヤ人である限りにおいて、カフカは「外部の」人間である。

 

 また、少なくとも、不確かな状態のKが用務員と思われながらフリーダとともに学校で生活し、住まいとする教室に生徒たちが群がる様子を表現主義的に描いている事実には、教育のイメージがあることが示されている。しかし、教育と幼年期の主題の絡み合いには、むしろ「文法」と「象徴」に属する要素が含まれている。我々は様々な場所で、論理的先行が、時間的先行という形で物語として語られる文法的な方便について記してきた。こうした交換可能性によって、本質は論理的な「始め」であり、幼児期は叙述的な始めであるから、位階原理の本質(城)は幼児期の諸条件と同一視することができる。かくして、物語の冒頭近く、初めて城を見たとき、Kは生まれた町を「束の間思い起こした」と描かれている。農民は子供として描かれ、助手の子供っぽい要素も幾度か指摘される。Kが城に電話しようとすると、受話器は「無数の子供たちの声のざわめき——ざわめきというよりもむしろ、無限の距離を隔てた場所での歌い声が反響しているかのような」うなりを立てる。フリーダと生活する教室では、常に行われるプライバシーの侵犯が状況全体を子供時代に特有なものとしている。

 

 また、城を指すドイツ語、Sclossには英語にはない意味合いがある。閉める、あるいは閉じこめるという動詞schliessenと関連した囲い込みの観念が示唆されているのは明らかである。クラムklammkは、形容詞として、囲い込むという行為をあらわす別の言葉lemmenと関連して、固定や密閉を意味している。我々は中世の思考にあるhortus conclususを思い起こすことができ、理想的な「閉庭園」とは町の外壁によって二重に防御されたものなのである。また、そう遠くない言葉として、「宣伝」、「災難」をあらわすReklamとKalamitatがある。

 

 「退行」の文法についてはこんなところでいいだろう。「象徴」の観点からすると、幼児期の性現象に関わる形象は、ある重要な点において、社交的宮廷作法の神秘を表現するのに適している。社会的な交際は本質的に性的なものではないので、宮廷作法は成人の性的対よりも幼児期の「多形倒錯的な」性現象により近しい。(シャーリー・ジャクソンの小説『壁を通り抜ける道』を見ると、社会的差別の語り得ない神秘が、幼児期には、性的で曖昧な語り得ない神秘と混じり合っていることが繊細かつ敏感に描かれている。)Kのフリーダとの結びつきはクラム(城を頂点とする秩序をあらわす)への遠回りの接近に過ぎないので、Kとフリーダがその最も内密な愛の行為のあいだにも、他者の観察のもとにあるという事実にはグロテスクな適切さがある。ここが恐らく最も幼児期を強く想起させるところで、というのも、子供たちの性に関する観察では、フリーダとKとの無頓着で、ほとんど上の空と言ってもいい性的関係同様に、親密さやプライバシーが欠けているからである。

 

 グロテスクな宮廷作法という観点からの『城』の分析を複雑なものとする二つの主要な問題は、カフカの病気と父親との個人的な葛藤である。子供はしばしば夢のなかで虫の姿をとるというフロイトの示唆を思い返すと、「存在の種類」が異なる父親と息子との神秘的でこじれたコミュニケーションが最も直接的に表現された明瞭な例として、息子がゴキブリの怪物になる『変身』がある。修辞的に言うと、この子供の恥辱によって、親に対する死にものぐるいの復讐がなされている。

 

 『城』で述べられる疲労は著者の個人的な病気をあらわしてはいるが、それが最も明確にあらわれるのは『断食芸人』で、肺病による消耗が職業として断食する芸人に不思議な具合に表現されている。グロテスクに対する感受性のある者なら、この物語のプロットを奇抜な比喩として思いつくことがあるかもしれない。しかし、桁外れの想像力を有しているのでなければ、作者は実際に結核を経験することによってのみ、身の毛もよだつような徹底的なやり方でこの虚構を作り上げることができたのである。

 

 病気はまた、芸術の主題と絡み合うことが多いマンの作品のように(例えば『トリスタン』)、美的にも補われている。(この観点からの議論については、『アクセント』1948年冬号のR・W・スタールマンのエッセイ「カフカの獄舎」を参照のこと。)再び社会的受容の問題が鋭く考えられているために、修辞的意味合いがある。修辞的要素は純粋に身体的な挫折からでさえ生じうるが、カフカが「病気と疲労が農民たちを優雅にしていた」と書くときのように、病気を取りまく同一化にも認められる。かくして、城に関わる強迫観念は、身体的精神的双方における病気の形象に適合している(あるいは、精神的病いの文学的稀釈化がグロテスクにはある)。文法的に言えば、病気は「受難」であり、宗教的受難にロマンティックに、また社会的に対応しうるものである。

 

 カフカの法律の勉強は修辞的動機に直接結びついた。書類仕事や、法的執行の強く位階的な性質は、宮廷作法の基本をなす官僚の形象に多くの材料を提供できた。そして、城が村の上にのしかかるように、実定法の背後には、常に神学的法の問題が仄見える。

 

 カフカについて、マックル・ブロートはこう書いている。

 

 「城」——神的な指標である——と女性との関係は、Kによって半ば見いだされ、半ば感ずかれているのだが、役人(天)が少女に明らかに不道徳的で猥褻なことを求めるソルティニの挿話で不明瞭な、不可解なものにさえなる。ここで、キルケゴールの『恐れとおののき』を参照にするのは価値のあることだろう——カフカが非常に愛し、幾度も読み返し、多くの手紙で深い解釈を加えた作品である。ソルティニの挿話は、神がアブラハムに犯罪を、息子の生け贄を命じた事実から始まるキルケゴールの本と文字通り平行関係にある。キルケゴールはこの逆説によって、道徳と宗教の範疇は全く同一ではないという結論を誇らかに導き出した。地上における目的と宗教的な目的は通約不可能である。このことからカフカの小説の中心に入る権利を得る。

 

 

 この発言では二つの重要な要素を区別することができる。生け贄の問題(創世記二十二章の物語の解釈を含む)と不条理の問題(宗教と社会的動機の「通約不可能性」の教えを含む)である。両者は解きがたくもつれ合っているので、一方だけを区別して論じることはできない。だが、不合理や「不条理」の礼賛は、創世記のこの章以外にも多くの場面から引き出すことができ、生け贄の理論は、キルケゴールの聖書解釈のように「殺害」を強調する必要はないので、組織だったやり方をもってすれば分離されよう。

*1:

*ある個人が異質な社会的グループに受け入れられるとき、グループの成員がしごく必要を感じるように、新入者自身も「しごかれる」必要を感じるかもしれない。内部の者が、新入者に暗黙のうちに裁かれている、あるいは、自分たちのやり方が脅かされていると感じるに従い、神秘は多かれ少なかれ露わな憂慮へと変わり、新入者は集団のなかで、マルクス・アウレリウスならば「膿瘍」と言ったであろう状態で突出していると感じる。しかし、加入儀礼に必要な儀式がほんの僅かしか公に認められていないこともあって、困惑は後戻りすることになる。儀式が不確かであったり、思いつきであったり、不完全である限り、魔術的な特性は損なわれる(損失は、支払われない負債のように両者共に感じられる)。そして、加入儀礼は容認どころか、あることすら認められずにばらばらになり、ぼんやりとした制約、微妙な侮辱、半ば無意識の無視などにしか残らなくなる。

 こうした考察のもとマーク・トウェインの『抜け作ウィルソン』を見ると、「野蛮な」、または「神秘的な」動機がそこに働いているのかどうか疑問に感じられる。事実、共同体の善良な人間たちは、二人の余所者、アンジェロとルイジ(「すてきな名前だ、堂々として異国風だ」)を当初は熱烈に歓迎する。しかし、それほどの読み巧者でなくとも、物語の最初から、作者は引きづり落とすために持ち上げているのだということがわかる。それに続く双子への残酷な行為は卑劣なトムがもたらした誤解によるもので、トムは自分の罪を隠すために余所者たちの悪い印象を吹き込んだのだった。しかし、こうした説明がないとき、なにが残るだろうか。プロットは詰まるところ次のようになる。二人の余所者が共同体に入る。風変わりな様子にもかかわらず、心から歓迎される。しかし、その後すぐ、厳しい冷淡さと疑いをもたれる長い時期があり、最終的に容疑を晴らし受け入れられるまでつらい審判を受ける。村人のよそよそしさを悪漢の陰謀に帰する合理的な説明のことを忘れると、新入者が非公式的でその場その場のしごきを長きにわたり経験していたのだということになる。余所者につらく当たっていた隣人たちを二つのグループに分けることは、ひどい行為を悪人にだけ押しつけ、その行為に含まれる<集団的な>性質を覆い隠す。合理化なしに、結果だけを見ると、同じく共同体の悪い評判のために不公平な扱いを受けていた一人の例外を除き、住民の誰もが余所者へのひどい行為に従っていたのである。

 我々の考えによれば、劇的仕掛けとしてごく普通に「スケープゴート機構」を働かせることで、トウェインはしごきの動機を「善」と「悪」の二つの原理に分けることができた——その結果、しごきは作者にとってさえそれと認める必要がなくなったのである。しかし、「合理的な」説明(無実な隣人と卑劣な隣人との区別による)を越えて、あるいはその底に働いている「神秘的」あるいは「魔術的な」要素は、明確に定義されることなく、著者と読者の双方に感じられている。

 こうした考えは、マーク・トウェインの主要作品すべてに当てはまるように思われる。例えば、我々は魔術的で儀式的な動機を求めるが(位階の原理と強く混じり合った)、彼はそうした動機をリアリスティックに描くために子供(あるいは王や公爵を騙る者)を使う。子供や悪漢は自分たちで主張するように完全な形式主義者であるかもしれないし、そうではないかもしれない。そうでないにしても、読者は小説の決まり事として、彼らの言ったことをそのまま受け入れる。それゆえ、生にある社会的な「神性」は軽妙に受け入れられやすい形で象徴化され、読者は自分の関心がそうした動機に関わると気づくこともないのである。

 

ブラッドリー『仮象と実在』 173

[基準とはなにか。本質的に関連する二つの特徴を持っている。]

 

 真理と実在の完全性というのは最終的には同じ性格を持っている。それは明確で自律的な個物である。第二十章で私は個物であることが何を意味するのか示そうとした。その議論の主要な点を読者が思い起こしてくれたものとして、私は個物があらわれる二つのあり方を指摘しよう。真理は内的な調和のしるし、あるいはまた、拡張とすべてを包括するしるしを示していなければならない。これら二つの性格は同じ原理の別の側面である。第一に、全体がその内部に衝突する部分をもつことになるから、矛盾するものは食い違いをもつことになる。すでに見たように、調和を見いだす方法は、そうした齟齬をより広い配列に再配分することにある。しかし、第二に、調和は制限や限定と両立不可能である。というのも、全体を包括しないものは、その本質において内的に一致しない部分がなければならないからである。反省してみれば、その理由は明白である。ある全体に存在するものは外的な関係をもっている。それ自身の性質の内部に包括し得ないものはなんであっても、全体によって関連づけられ、外的な関係をもっていなければならない。そうした付帯的な関係は、一方においてそれ自身の外部にあるが、他方においては、それはありえない。というのも、関係は双方が影響し、項とならなければならないからである。それゆえ、有限なものの内的な本質は、それを限定する関係であり、そうではない。それゆえ、その本性は救いようもなく相関的であり、つまりそれ自らを越え、再びその核に異質なつながりを持ち込むのである。かくして、外側から限定されることは、原則的に、内部を分裂させることである。そして、要素が小さくなればなるほど、本質の散乱は広範囲にわたるものとなり――本質の消散が深く完全なものとなり、内的分裂という呼称を支えることになる(1)。しかし、反対に、要素の拡張は、内的な実体に外的な関係を持ち込むものであるから、調和を増加させるだろう。成長によって、要素はより一層それ自らに本性を含む首尾一貫した個的なものとなる。そしてその形は、より一層食い違いを包括する全体となり、それらを体系的なものに還元する。かくして、実際的には(後に見ることになるが)ある程度別なものなのだが、拡張と調和という二つの側面は、原則として一つのものである。いまのところ、それらを別個に使うことで満足しなければならない。

 

*1

 

 それゆえ、多かれ少なかれ真であり、多かれ少なかれ実在であるものは、その間にあるより小さいものであれより大きいものであれによって、全体を包括するもの、あるいは自律的なものから隔てられている。二つの現象が与えられたとき、より広範囲の、より調和に満ちたものがより実在である。それは単一の、すべてを包括する個物により近しい。別の言葉で言えば、その不完全さを治すにはより小さな変更をしなければならないことになる。絶対に移入されたときにより少ない再配列と付加しか必要としない真理と事実は、より実在で真に近い。これが我々が実在と真理の程度というときに意味していることである。実在のより多くの性格を保持していることと、内部により大きな実在を含んでいることとは同じことの二様の表現である。

*1:(1)物質的粒子の散乱について語ることはパラドックスであるように思える。し かし、それではないものを持ち込むことなしに、それがなんであるかを述べるよう 努めてみよう。もちろん、その散乱は感じられることはない。しかし、問題は、自 己の異質化がいかなる感情あるいはいかなる自己にとってもあまりに極端なもので あるために存在できないことにある。

一言一話 77

 

新しいことと悦楽

 「新しいこと」はモードではない。批評全体の基礎となる価値だ。世界に対するわれわれの評価は、もはや、少なくとも直接的には、ニーチェにおけるように、<高貴と卑賤>の対立には左右されない。「古いこと」と「新しいこと」との対立だ。(「新しいこと」のエロス論は十八世紀に始まった。長い変貌の道程。)現代社会の疎外を免れるには、もはやこの手しかない。すなわち、<前方への逃走>である。古い言語活動はすぐに評判が悪くなる。言語活動は繰り返されるとすぐに古くなる。ところで、禁欲的な言語活動(権力の保護のもとに生れ、広まる言語活動)は、規定からいって、繰り返しの言語活動である。言語活動の公的制度はすべて繰り返しの機構である。学校、スポーツ、広告、量産作品、シャンソン、ニュースは、いつも、同じ構造、同じ意味、そして、しばしば同じ単語を繰り返す。ステレオタイプは政治的事実だ。イデオロギーの主要な顔だ。それに対して、「新しいこと」は悦楽である(フロイト曰く<<成人においては、新規さが常に悦楽の条件である>>)。こうして、次のような現代の力の布置が生れる。すなわち、一方には、(言語活動の繰り返しと結びついた)大量の平板化――悦楽の埒外にある、しかし、必ずしも、快楽の埒外ではない平板化――、もう一方には、「新しいこと」への(周辺部の、常軌を逸した)熱中――言述の破壊にまでいきかねない、気違いじみた熱中、ステレオタイプに抑圧された悦楽を再び歴史的に出現させようとする試み。

 対立(価値のナイフ)は、必ずしも、公認され、命名された対立物(唯物論と観念論、改良主義と革命、等々)の間にある訳ではない。しかし、<いつでも、どこでも、例外と規則>の間にはある。規則、それは濫用だ。例外、それは悦楽だ。例えば、時には、「神秘主義者」の<例外>を支持することもありうる。規則(一般性、ステレオタイプ、個人言語、すなわち、凝着した言語活動)でなければ、何でもいい。

「新しいこと」がなくなったいまでは、テクストの悦楽は困難なものになっている。

ケネス・バーク『動機の修辞学』 51

.. 宮廷作法の範型:カスティリオーネ

 

 多分、我々の目的にとって最適なテキストは、マキャベリの同時代人であり、彼と同じく君主の原理に関心を払ったバルダサール・カスティリオーネの『宮廷人の書』である。大きな構想のもち、段階を追って変わる宮廷作法の階梯が弁証法的に描かれ、最終的な段階では社会的神秘を越え、プラトン的な神秘、天界の神秘の神秘的ヴィジョンで終わっている。通常この作品は作法の教則本、または礼儀に関する本として研究されており、エリザベス朝詩人の宮廷風スタイルに強い影響を与えた。しかし、我々は修辞的動機が弁証法的に純化される際の形式的な手続きをあらわしたものとしてみたい。形式的な観点から見ると、通常は断片的にしか見て取れない説得の有効範囲が見て取れる。そして、多様な説得の形を統一してみると、断片しか見いだせないときにも、その意味合いがよりよく理解できるようになる。

 

 この本は、1507年、ウルビノ公の宮廷での連続四夜に渡る会話を描いている。公は不在であり、会話は公夫人の前で行われる。宮廷人の多くがこの対話に参加する。最初は「気晴らし」として、恋するものが「愛する人物」から受ける「甘美なる軽蔑」について議論される。しかし、最終的には、「良き宮廷人たる者が、その名に値する存在となるためにはどんな条件、性質が必要であるかを詳細に述べる」ことに決まる。

 

 第一巻は、完璧な宮廷人がもたねばならぬ主要な資質があげられる。高貴な生まれ、財産、剣の腕、馬術、優雅さ、「笑い、戯れ、冗談を言い、ダンスをする」能力、上手に話し書くこと、楽器を演奏すること(宮廷では女性の「優しく柔和な胸はメロディーによってすぐさま揺り動かされ、甘美さでいっぱいになる」から特に必要である)などがそれである。宮廷人はまた、デッサンや絵画にも通じているべきである(ギリシャでは、絵画は「自由科の第一等であり、後には使用人や奴隷に教えるべきではないとはっきり制定された」とある語り手は述べる)。

 

 幾つか反論があがる。例えば、ある者は、宮廷人は武術を最も重要だと考えるべきで、「他の資質はその飾り」に過ぎないと言うが、枢機卿ピーター・ベンボは武術も他の資質も「学問の飾り」と考えるべきで、学問こそは、「精神が身体に勝るように、その品位において武術に勝る」と答える。ベンボ枢機卿の立場は第四巻の最後で明らかになろう。とりあえず、宮廷人の資質はまず第一に<訴えかける力>だということにだけは着目しておこう(本質的に修辞学の領域である)。第一の目的は「栄誉」を得ることだが、強く志向される動機として、他者によく思われて生活することが求められている。

 

 最初の対話は「各人が夫人のもとを恭しく去る」ことで終わる。

 

 第二巻で、修辞的動機がより明らかになる。この章は礼儀正しい態度、最も利益を上げる訴えかけの方法が扱われている。例えば、「小競り合い、襲撃、戦い、などが自国、あるいは他国であった」場合には、「大多数からは身を離し、賢明に問題に当たるべきである」。いかに「傑出した剛胆な勲功」をあげるにしても、「できるだけ少ない仲間で、軍隊で最も尊敬を受けている貴人の前で、(できうれば)自分が仕える王や最高位の人物の目の前で、うまく演じられる見せ物のようになされる」べきである。

 

 このように立ち会いを求めることで、宮廷人の社会的上位者への関係は、殉教者の神に対する、作家の公衆に対する、俳優の観客に対する関係に等しい。「自己顕示欲」という名称のもとに、修辞的動機の一分野をつくることができる。似たようなラ・ロシュフーコーの格言が思い起こされる、「本当の苦行は誰にも知られないことである。Les veritables mortifications sont celles qui ne sont point connues;la vanite rend les autres faciles」。ラ・ロシュフーコーは純粋な宗教的訴えと単なる虚栄心への訴えを対比して明らかにしている。苦行は目撃されて<いなければならない>。それは、眼には見えない神に提示される証拠である。(証言である)殉教は本質的に修辞的であって、その言葉自体法廷用語からきている。しかしながら、虚栄心は絶対者の目撃を望むのではなく、人間の観客を望む。前提として超自然的目撃者がいないなら、殉教はある種の過酷な「誇示的雄弁」でしかなくなるだろう(キリスト教の説得は本質的に修辞的であって、修辞学におけるキケロの徹底ぶりが、彼を本質的にキリスト教徒であるかのようにみせている)。

 

 ラ・ロシュフーコーは、超現世的原理への証言と思われるものが、実際には<上流社会>へ向いていると述べることで修辞的な状況を論じた。しかし、『宮廷人の書』はあからさまに世俗的原理に向けられた証言を論じている。(二つの領域が修辞的に影響し合い、社会的崇敬と宗教的な崇敬とを交換可能にする方法については、編者もあげているが、世俗的君主には片方の膝を、神には両膝を屈するよう若者に教えている初期イギリスの作法書を思い起こすことができる。エドマンド・バークが、ヨーロッパ文明は「二つの原理、紳士の精神と宗教の精神」で成り立っていると言うとき、その発言は、「二つの原理」が、二つの用語法のなかで名づけられた一つの原理だという可能性を示唆している。「閣下=崇拝されるべき」という古くからの封建的な表現にあからさまな異教精神と一致する、宗教を、ごく自然に政治的道具として修辞的に用いることを許す魔術的混同がある。)

 

 かくして、我々は三種類の相手に向かっている。神の証人、君主の証人、神の証人を装った仲間の証人である。それらを一緒くたにし、「栄光」に天上的動機とともに宮廷的動機があると考えると、共同体の理想に向けた振る舞いが必要とされる「良心」そのものに修辞的な要素が見て取れないだろうか。

 

 体制順応と偽善も説得の一種ではあるが、十分に普遍化して考えられていない聴衆に向いている。犯罪者が「無意識に」捕まることを望むとき、自己処罰の動機、自らに課した正義への服従が彼を危険に追い込むのだと仮定する必要があるだろうか。そうした動機もあるかもしれない。しかし、より一般的な動機、「論理的に先行する」動機があり得ないだろうか。修辞的動機<それ自体>、観衆に向かい証人たらんとする欲望によって動かされていることもあり得るのであり、その場合、違反は「殉教」であり、またそう見られるべきである。

 

 ハリウッドの犯罪ミステリーでは、位階的動機(階級関係の魔術)は、たいてい個人的所有のイメージの背後に隠されている。所有に対する崇拝は(規範に対する違反によって逆の形で例証される)、時に、階級のしるしである所有の特殊な性質を曖昧にする。しかし、金銭によって、低家賃の地下室から高価なアパートやナイトクラブへ移るという転換が、「上流夫人」の獲得をめぐる争いとともに基本的なパターンであって、そこにはヴェブレンが示した追従を受ける「栄誉」とその誇示が多く見られる。誇示は「神秘」と感じられる場合にのみ行動とも感じられる。

 

 テクノロジー社会では、労働の分化があって、互いに助け合う専門家同士の社会が必要とされる。自動車修理工は皿洗いの使用人で、皿洗いは自動車修理工の使用人であり、「ねたましさ」の関係は金銭と役割の交代で「民主的」になっている。主人と使用人とが入れ替わるローマのサチュルス祭を思い起こして貰えばいいが、我々の民主主義は、上下の関係が常に逆転し、ある種永遠に続き微細に変化していくサチュルス祭として描くことができる。ごく一般的な意味ではともかく、身分制の神秘に関して、「質」を量的、金銭的な尺度で測ろうとする極めて「不敬な」状況である。ハリウッド犯罪ミステリーはこうした状況に対する回答であり、位階を行き来する「自由な」あるいはわがままな衝動を十分に表現し、同時に、資本主義の本質にある位階の規範、階級区別のしるしとしての金銭の神秘を大いに補強するのである。

 

 (『宮廷人の書』からずいぶん遠くへきてしまった。しかし、まさしくこうした目的のためにカスティリオーネの作品を範型として導入したのである。だから、逸脱も辞さないことにしよう。テキストに明らかな推論を借り、同じ要素が条件の変化でどのように変容しているかを確かめてみたい。我々は、宮廷や位階的関係が、そうした言葉では考えられていない異なった表現でどんな形を取るか見てみたいのである。一見異なり、様々に変容しているが、同じ修辞的宮廷的な動機が存在しているのが認められる。だが、それらを一緒にしてつきあわせてみれば、それぞれの特殊性に気づくので、それらがすべて同一だと言う必要はない。)

 

 対話に戻ると、第二巻では、宮廷で有利な地歩を占めるための方法が扱われている。一人の語り手は、社会的身分の低い者との戦いの妥当性を疑問視しており、というのも、勝ったとしても得るものは少ないが、「負けたときの損失が非常に大きい」からである。音楽に優れている者が、いつでも歌いだそうとしたり、市場であった剣士が、「剣を振るうかのような身振りで」挨拶をするといった、ひっきりなしに才能を見せびらかすことも警告されている。宮廷人にとって有益で反語的な手段として示されるのは仮面をかぶることである。無骨な羊飼いのような低い階級の者に仮装してみるがいい。馬上で堂々とした演技をすれば、観客の期待を遙かにしのぐことになり、見せ物は二重に効果的になろう。宮廷人は「なにをおいても忠誠を尽くす君主を愛し、(いわば)尊敬し、その意図、作法、流儀において柔軟に彼を喜ばすよう」勧められる。(「主人に向かう召使いのような尊敬と恭しさを持ち続け、特に海外では気を遣うこと」という命令には、この原理が宮廷人と君主との関係から、宮廷人と一般的な世俗的判断の関係に移されるている。)

 

 君主に直接に恩顧を願うのは、拒否されたり、更に悪い場合には、不興を招くことがあるので用心しなければならない。「偉大な方の恩顧を受けたいと」願うあまり、「君主が引き上げた部屋や個室にまで押しかける」べきではない。というのも、支配者が一人のときには、「好きなように語り振る舞う自由を愛している」場合があり、驚かされたことに怒りが示されるかもしれない。君主にとって重要な事柄に関わる宮廷人が「内密に部屋を訪ねる」ような場合には、「煩わしいと感じられていない」ことを見定めるまで、「素知らぬふりをし、重要な問題は先送りするべきである」。宮廷人は、「多くの者がするように、公衆の面前で君主の恩顧や引き立てを切望するのではなく、与えられるのを待ち望む」べきである。「恩顧を得ることに成功するや、それに酔い、喜びでなにをすべきかを忘れ」、「慣れないことに出くわしたかのように、それを共に認め、喜んでくれる仲間を呼ぼうとする」べきではない。*宮廷人は「恩顧や引き立てを尊重」すべきだが、それなしでは生きていくことができないとか、それが「不慣れで身につかぬ」という印象を与えるべきではない。他方、「うっかり恩顧を受け損なってしまったり、自分にはその価値はないと信じて」しまったりするのも避けるべきである。かくして、宮廷人は前に出すぎても、後ろに下がりすぎてもならず、常に 慎ましやかに分を守り、恩顧や引き立てはたやすく受けたりはせず、謙虚に辞退して、尊重していることを示しておけば、そうした機会はより頻繁に訪れることになろう。

 

*1

 

 宮廷人は、恩顧や引き立てを謙虚に受け入れるのがより望ましいと覚えておくべきである——そして、語り手は聖書と匹敵する位階的思考を示す。「結婚式に招待されたときには、一番下座に行って座るがいい、そうすればあなたを招待した人物が現れたとき、友よ、こっちへきてください、と言うので、招待客の前で栄誉を受けることになろう。」しかし、第二巻の冒頭で扱われているような、宮廷人風の「方向性をもつ行為」の性質(修辞的要素)については既に十分に例を挙げた。

 

 様々な話題、特に乱暴な振る舞いと自分の身を犠牲にして冗談を言う傾向を諫めたあとで、話は別の種類の方向性、つまり「人を笑わせる」という聴衆に効果的で価値ある喜劇的技巧の体系的な研究に移る(仮装行列として自己完結している社会では、宮廷人は互いにとっての聴衆なので、劇場という形式は必要ない)。

 

 笑いの礼賛は多くの点で「宮廷人病」に合っている。第一に、「リベラル」で、自由民階級にふさわしい(ラブレー的動機)。人間だけが笑うので、「人道的」でもある(恐らくそれは「合理性」の働きでもあって、シンボルという迂回路を通って現実に直面する)。不作法は、同時に、それが侵犯する礼儀正しさを再確認させるから笑いを引き起こすことができる。爆発的な驚きの笑いは予期されていることが突然破られるときに可能になる——「滑稽な笑い話」は自由に宮廷人の規範を再確認できる。「正しい」笑うべき対象を示すことで、宮廷人は自らの階級のしるしを誇示する。滑稽さを共有することで、同じ階級にあることを証明する。愚者や田舎者に対する優越意識には位階的原理が強く働いているが、こうした優越感は、様々な装いのもと、笑いが笑われている犠牲者との巧妙な同一化として働くことにより、個人的な心許ない感覚と容易に結びつく。笑いにおいては、笑われる者と笑う者との区別が超越され得るからである。喜劇が悲劇よりも著しく<観客に向う要素が強い>のは、舞台の喜劇俳優は虚構の枠組みを壊すことなく観客に自分の秘密を語りかけることができるが、悲劇では、観客への説明のために挿入されているのが明らかな場面でも、俳優は独白であるかのように語るのに明らかである。

 

 笑いにおける「ねたみ」の要素は、君主の恩顧を得る争いをそれほど重大でない方向に逸らすことができる。専門的な階級として、宮廷人にある種の結束をもたらすことができる。競争相手同士の共済組合のようなもので、自分たちより低い階級の者を冗談の的に選ぶことは、自分たちの結束を強める必需品なのである。

 

 議論は「愉快ないたずら」で終るが、それは、効果において笑いと同じ「場所」を占める。ボッカチオが例としてあげられるが、物語そのものではなく、階級のしるしを際だたせるためなのが見て取れる。しっかりと位階関係が確立されてしまえば、君主夫人が言うように、神秘は微笑にまで洗練されるのである。

 

愉快ないたずらをお偉方にすることが、礼儀作法に反さない場合もあります。フレデリック公、アラゴンのアルフォンサス王、スペインのイザベル女王など多くの君主へいたずらがされたと聞いていますが、ご不興を受けるどころか、多くの者が報賞を受けているくらいです。

 

 

 

笑いが不遜にも、宮廷で恩顧の原理を司る者に向けられる場合には、敬意もまた見て取れるような注意深い計算がされていなければならない——「犠牲になった王」は威厳を取り戻すために怒りをたぎらせる必要はなく、鷹揚にユーモアを楽しめるほど偉大だという具合にである。

 

 弁証法的見地から『宮廷人の書』を見て、真っ先に注目すべきは、第三巻から最終巻にかけて、動機づけの性質がまったく変わってしまうことにある。第三巻は、宮廷における男女のつきあいの規範を扱っており、ある意味最終的な超越の暗示となっている。性愛の主題が導入されるが、ベンボ枢機卿が我を忘れた説教であるかのように、それをプラトニスムに変容して締めくくる。しかし、新たな問題提起がなされるしるしが所々に見られはするが、全体的には、男性と女性は階級として向き合い、優位に立つことを考えており、性の戦争はダンスステップに還元される。

 

 第三巻は、女性に訴えかけるための秘訣で始まり、両性の貞節の誉れになる勇敢さの比較という関連した問題を論じている。むりやり処女を奪われたときの感傷的な悲しみ。名誉の規範という立場から、一人の語り手は「千年もの間、男性が女性を陥れようと利用してきた手段は言い尽くすことができない」と言う。別の語り手は、女性が冷酷なのに不満を漏らし、「ある種の慎重さは」、彼が「愛において受けてきた」ような「愛情、満足、快楽を覆い隠す」ものであり、女性たちに向かい、もし報いを与えてくれるなら秘密は守ろうと請け合うことを責められる。宮廷における女性の規範としてとりわけ必要とされるのは、踊りや芝居に招待されたとき、宮廷人が恩顧を受ける場合のように、「ある意味自ら進んで身を犠牲にするべき」であって——さもないと、機会を逸することになる。

 

 総じて、この章はセザール・ゴンザガ卿の発言に集約される。

 

どれだけ偉大な宮廷人だろうと、女性なしには見栄えのよさ、明るさ、楽しさを持ち得ないし、優雅でも快活でも大胆でもあり得ない、女性との会話や愛の満足がないなら、勇敢な騎士道精神など発揮し得ないだろうし、宮廷人の会話は女性が加わることで優雅さ加わり、完璧に飾り立てられねば永久に不完全なままである。

 

 

 

 愛と戦争とが同一視され、「愛する女性を前に戦う軍隊を集められたら、同じようにして集められる軍隊が敵でない限り、全世界を征服することができよう」と語られる。



 最初の三巻を通じ、優位さの獲得が様々な形で試みられるが、「崇敬」の動機は、君主と宮廷的性愛に関連した礼儀作法の領域に止められている。それは、笑いや陽気ないたずらによってあまのじゃくに、間接的にあらわされもした。男性、女性が宮廷において訴えかけることのできる性質について多くのことが語られた。次に、より高次の説得の秩序が現れる。第四巻は他の三巻に較べて修辞的ではない。しかし、それがもたらそうとする優位性は前三巻の優位性を超越したものだろう。

 

 それにふさわしく、動機の質の変化は最終巻の冒頭におかれた死の知らせにあらわされている。会話は恐らく四夜連続で行われたと思われるが、四夜目の「苦い思想」を書きつけようとしている著者は、「こうした思索からほど遠からぬうち、繁栄と栄華を極めた三人の稀なる紳士が残酷な死によって奪われた」ことを思い出さずにはおれない。

 

 こうした仕掛けは、恐らくキケロから借りられたもので、『雄弁家について』の最終巻は似たような手段を使い、より荘重なものとなっている。正当性については、『宮廷人の書』がより高いように思われるのは(最終が目的と死亡のどちらをもあらわすという地口に従って)、最終巻が「完璧な宮廷人の最後」を扱っているからである。宮廷人の最終的な目的が論議される。既に死亡した偉大な宮廷人の考えが紹介され、著者は別の話題によってある最終性を補強する(生物学的な意味での最後から哲学的な意味での最後に議論は進む)。そこで、冒頭の仲間の死への言及が絶妙な意味をもっていたことが見て取れる。この後、優位を得ようとする多くの行為は、自己犠牲的な努力のうちに廃棄される。

 

 その繋ぎ目で二つのテーマが提示される。一つ目は、君主への<情報提供者>である宮廷人の権力を考慮した、<教育>の修辞学に関するものである。この文脈において、宮廷人は、個人的な立身出世のためではなく、人間関係一般の向上のために魅力を発揮するべきだとされる。「媚びへつらって厚遇を得」、君主が聞きたがるようなことしか言わない者とは対照的に、宮廷人は君主にとって不快な真理をも伝え、「悪事は諫止し、美徳に立ち戻らせる」方途を見いだすべきである(「というのも、今日の君主に数ある悪徳のなかで、最大なのは無知と自己愛で」、「邪悪な君主ほど一般を害する人間はいない」)。要約すると、「陽気な振舞い」は「宮廷生活の花」であり、その果実は「君主を善へと導き助け、悪を恐れさせる」ことにある。

 

 我々の目的には、議論の詳細を考慮する必要はないし、付随する心理学の理論についても、ごく慣習的な、理性と権威の同一視が認められると言っておくだけでいい。理性が身体の働きを支配するのであるから、理性は「君主にとって最も必要なもの」である。我々の目的にとって重要なのは、教育についての考察が宮廷作法の理論から生じていることにある。完璧な位階秩序に従えば、君主は宮廷人の模範となっていいはずであり、変わりやすい時間の本性によって、多くの君主が新たに宮廷の伝統で重要な役割を果すことになる。それゆえ、特殊な専門階級にある宮廷人は、自分たちの規範の神秘を君主に手ほどきする教育者の役割があると考えたのである。この状況は、地方の財政的産業的支配者の利益のために雇われる今日の科学者と異なるものではない。雇われ者として、彼らは立身の方策に関心をもつだろう。しかし、科学的な専門集団の一員としては、正直と追従の程度は様々だが、「支配者」の好みとは一致しない純粋に専門的な真理に関心を示す。

 

 しかし、時代の偶然以上に宮廷作法と教育との間には深い関わりがある。『文法』において、教育的に真、美、善を「愛する」ソクラテス的な性愛を考慮したときに見たように、弁証法的方法そのものに本来備わった要素である(絶対の弁証法への小道に若者を誘い込み丸め込むソクラテスの手管は、宮廷作法の一変種として尊重されるものである)。

 

 ソクラテスの教育における宮廷風の形象は神秘的に解釈される。その主要な動機は実証的ではなく弁証法的である。弁証法的に捉えられた教育は無条件に性的なものに還元することはできない。同じ理由によって、弁証法的に捉えられた教育は、無条件に単なる仕事に還元することもできない。それは、「純粋な説得」の一形式として、弁証法的に究極の修辞的動機として神秘的な満足を与えるものだろう。しかし、『パイドン』に見られるように、一種の宮廷作法であり、宮廷的な形象に引きつけられる。同じ動機の変種がカスティリオーネの本の第四巻にも見いだされるのであり、「宮廷人の最終目的は君主の教育者となること」であり、アリストテレスプラトンが「宮廷作法を実践し、その目的を達し、かたや大アレキサンダーの、かたやシシリアの王たちの教育者となった」のに倣うのだと語られる。

 

 君主の教育者としての宮廷人という適切な移行部分を経て、ベンボ枢機卿が「天上の美の影響によって生まれる」美について雄弁に語ることでこの作品は快活に終わる。枢機卿が語り終わるまでに、美のイメージから美の純粋観念へ(感覚から知性へ)導かれる。美と真理、有用性、善とが結びついた観念が得られる。「彼が称賛する美をもつことは、身体がなければ夢に過ぎない」という反論があがる。超越的な播種についての会話がなされる(美徳の種を心にまき、「美のなかに正しく美を生み、刻印づける」ことが主張されるが、反対者は、「美しい女性に美しい子供を産ませること」によってそうすべきだと主張する)。目と耳(最も肉体的ではない感覚)に口が結びつき、「魂の門を開く」ことによる洞察が勧められる(聖職者でもある雄弁家が語っているので、口腔は食物摂取の満足だけでなく、祈りの勤めとの関わりで提示されていると考えられる)。想像力は、「実際におけるよりもより公正に美」を形づくることができ、一つの美を踏み台にして「あらゆる美を一緒にする」ための「普遍的な比喩」を生みだす力があるために称揚される。「空想にも身体が伴うと同意」されるが、こうした段階は超越されねばならず、美は「心の目だけによって見られる」ものであり、魂は天使的である「自らの本質」を見るのだとされる。魂は燃え上がり、よじ登り、つなぎ止めるというイメージで、天上的な存在に参与しようと欲望に燃え立ち、「真の喜びと恵みと平安と慎みと善意の父」であるものへの祈り、「霊的な香気を感じたい」という希望、最後に身体的な死による最終的な到達について語られる——そこで枢機卿は語をとぎらし、「うっとりと我を忘れ」、「神の愛の閃光が彼を刺し貫いた」のだと他の者は思う。夜明けまで話し続けていたことがわかる。夜の果てまでの旅と、我々が予想していた普遍的な熱力学的死とは対照的に、「東は既に薔薇色に晴れ渡っており、すべての星は消え去り、夜と朝との境界を守る天上の美しい監督者である明けの明星だけが残り、そこからはさわやかな一陣の風が吹き込み、刺すような冷たさで空気を満たし、静かな丘の木々にいる愛らしい鳥たちのさえずりを促している」。

 

 説得の修辞学が、弁証法的に純粋な説得という究極にまで進む範例として、我々がこの作品をもちだした理由は明らかではないだろうか。宮廷の位階原則は「低位の」階級と「高位の」階級(あるいは家柄)とのコミュニケーションのあり方を定める。それは、身体から魂、諸感覚から理性を通じて了解へ、世俗的なものから天使的なもの更に神へ、女性から絶対的な融合に向って欲望を超越する美一般へ、という具合に普遍化される。さもなければ、相対的な格づけが普遍的議論によって確立されず、「異なった」種のコミュニケーションに過ぎなくなろう。もちろん、「宮廷作法」の具体例を分析してみれば、固定した基準はあるにしても、役割が逆転し、ある面での優位者が別の面では劣位者になったり、優位者が下役に仕えなければならない両義性が見いだされることもあり得る。

 

 「美」を宮廷と宗教においてつくりだすことで、『宮廷人の書』は宗教を宮廷的にし、「神秘的に」社会的「崇敬」と宗教的「崇敬」とを融合させる。「天空で、太陽と月と星々が(いわば)神の似姿を世界に映す鏡であるように、地上において神に近しいのは、神を愛し礼拝する良き君主であり、民衆に正義の澄み切った光を示すのである。」このように、あからさまに世俗的な位階から天上の位階に進むことは、「神の神秘」が、表面的には現世的な動機をもつ諸関係を活気づけている状況を我々に見て取れるようにする。

 

 こうした同一化は、無神論者となることなしには社会的反抗ができない人間にも存在している。逆に言えば、ある特殊な社会的位階への従属を内々に支持する神学的位階をあからさまに教え込むような宮廷と、そこに根づく宗教的崇拝があり得る。そうした動機が形式的に否定される場合も(科学技術、財政、政治行政のプラグマティックな用語法によって)、我々は少なくとも説得においてその痕跡がないか、新たな装いで再現しているのではないか調べてみた方がいい。

 

 シンボルを使用する動物である人間が<弁証法的人間>でもあるなら、そして、シンボルの使用がある種の<超越>であるなら、『宮廷人の書』に見いだされる洗練された弁証法的超越は、至る所に隠れて、断片的に存在する要素を明らかにして示している。かくして、この作品は、社会的位階と神学的位階に関する用語の修辞的転換の背後にある純粋に弁証法的な動機(究極的な言語的動機)についての我々の理解を正確なものとするだろう。ここには、世俗的な「崇敬」と超越的「崇敬」とが互いに栄養を与え合うことで生まれ、形式的思考の完成に基づいた「神秘」の源がある(その連続性を断ち切ろうとする反抗でさえ一変種であるような)。

*1:*引用はすべてサー・トーマス・ホビーの翻訳に依ったが、綴りは現代風に直した。

ブラッドリー『仮象と実在』 172

[それゆえ、全体的な真理あるいは誤りはなく、ただ正当性の多少があるだけである。]

 

 しかし、ここにおいて我々は誤りと真実が落ち合う点に行き着くことになる。完全に間違いであるような誤りが存在しないように、完全に真であるような真理は存在しないだろう。厳密にとると、すべては同じく量の問題であり、より多いかより少ないかということになろう。我々の思考は、確かに、ある目的に従ったときには、完全に間違い、あるいはまたまったく正確であることもあり得る。しかし、絶対によって測ったとき、真理と誤りは常に程度に依存しているに違いない。一言で言えば、我々の判断は決して完全な真理に到達することはあり得ず、より多いあるいはより少ない正当性で満足しなければならない。この言葉によって、目的に向けて作業している際に我々の判断は認めうるものとなり、許されるということを単に意味しているわけではない。それらは多かれ少なかれ、実際に絶対的真理と実在の性格や型を持っているということがいいたいのである。それらは多かれ少なかれ性質をそのうちに有しているので、実在の場に多様な拡がりをとることができる。それらは多かれ少なかれ混乱に影響される真理の割合として我々に提示される、よりよいこともより悪いこともあるあらわれである。端的に言って、我々の判断はそれらが実在の基準と合致し、そこから逸脱しない限りにおいて正しい。別の言い方をすると、真理は、それを多かれ少なかれ実在に移入しうる限りにおいて真である。

 

 その限りにおいて、真理は相対的で、常に不完全であるとわかる。完全には届かないまでも、あらゆる思考はある程度において真であることを次に見なければならない。一方においてそれは足りない部分があるが、他方において、同時に基準を実現している。しかし、我々はまず基準とはなにかを探求することから始めねばならない。

一言一話 76

 

退屈と悦楽

 どうにもしようがない。退屈は単純ではない。(作品を、テクストを前にした時の)退屈からは、いらいらしても、放り出しても、抜け出せない。テクストの快楽が間接的な生産を想定しているように、退屈もどんな自発性にも頼る訳にはいかない。<真摯な>退屈などあり得ない。個人的に、おしゃべり=テクストが私を退屈させるのは、私が、実際に、要求が嫌いだからである。だが、もし好きだったら(もし私がいくらかの母性愛を持っていたら)?退屈は悦楽から遠くない。それは快楽の岸から見た悦楽である。

快楽の岸から悦楽を見ることは、快楽の特権でもある。

 

ケネス・バーク『動機の修辞学』 50

.. 『ヴィーナスとアドニス』の「社会神秘的」解釈

 

 文学作品の宮廷作法的動機に特徴的な表現について考えるとき、シェークスピアの物語風の詩、『ヴィーナスとアドニス』は最適である。風変わりなのは、<性的な>求愛の物語であるが、我々の探求にとってより役に立つ<社会的>同一化の問題が含まれていることである。

 

 我々はこの詩の宮廷作法をどのような主要要素に還元するべきだろうか。第一に、性的に成熟した女神が性的に未熟な人間の男性に熱烈に求愛する。興味があるのは狩りだけだと言って彼は抵抗する。しかしながら、この二者択一は、一見思われるほどかけ離れたものではない。彼は言う、「私は愛を知らない・・・また、知ろうとも思わぬ、もしそれが猪で、私がそれを狩するのでなければ」と——そして、猪の命がけの攻撃が愛の形象で描かれる。

 

彼は鋭い槍をもって猪めがけて走り、

猪は彼に向ってその牙を研ごうとはせずに、

キッスで彼をそこにとどめようと思って、

脇腹に鼻先を入れて擦ったとき、この惚れ込んだ猪は、

ついうっかりと彼の柔らかな腿の付け根にその牙をつき刺したのだ。

                  (本堂正夫訳)

 

 

 この詩句に従い、狩りとそこでの出来事を宮廷作法の一形式として扱うなら、この劇的物語には三人の登場人物がおり、それぞれが諸動機の位階の質的に異なった段階にいることになる。女神(「恋に悩むヴィーナス」)、人間(「薔薇色の頬をしたアドニス」・・・「年端もいかぬ少年」)、そして、動物(「不潔で、獰猛、尖った鼻をした猪」)と。活躍するこれら主要な登場者が異なった「階級」にいると言っては言い過ぎだろうか。

 

 「恋する雌馬」とアドニスの「跳びはねる駿馬」が副次的な登場人物となっている。少なくとも、彼らは重要な修辞的働きをする。ヴィーナスの熱情が雌馬の熱情に写し取られたかのように、アナロジーによって求愛の主題が敷衍され、繰り返される。アドニスの全くの冷淡さと雌馬のはにかんだ熱情(「つれなく振るまい」「無関心を装い」と人間的な媚態として描かれる)が対照的な関係をなし、劇についての注解となっている。恐らく、あとは、ヴィーナスが注意を引こうとしてアドニスをうんざりさせ、不機嫌にさせたにもかかわらず、馬を失ったせいでヴィーナスのもとを去れなかった、とだけ記せば「馬の」求愛については十分であろう。

 

 しかしながら、それ以上のこともあるかもしれない。つまり、アドニスと彼の馬が一つの動機群にあると考えられるかもしれない。ヴィーナスは愛の原理であり、自分とアドニスの関係は不調であっても、雌馬に、そして雌馬を通じて愛を働きかけねばならない。この愛する馬は「人に乗られたことのない馬」であり——馬の力は、人間の乗り手を逃れる限り理性的な支配を外れ、エロティックな熱情のもと人間に従いはしないだろう。少なくとも、この挿話はメタファーとして働き、解放された情熱をあらわしていると言える。あるいは、詩のシンボルをより正確に読み取ろうとするなら、アドニスの代理であるアドニスの馬は主人から逃げ出したがゆえにかくも趣ある存在たり得たのではないかと問える(その重要な手がかりは馬が「軛を脱する」連にある)。そこで、次のような寓意が引き出せるかもしれない。アドニスと彼の馬とを含む動機群全体のなかで、アドニスだけに欠けているのは異性に対する性的熱情である。そして、この熱情は、馬が人間の(「理性的な」)支配に特徴的な影響を逃れ、動物的本能が活発になったときはじめてあらわれるのである。

 

 馬が雌馬と一緒になろうとする熱意とは対照的な、女神に対するアドニスの尻込みはどう考えるべきだろうか。

 

 狩りの始まりを告げる音を聞き、アドニスの安全を按じるヴィーナスは茂みを駆け抜ける。

 

さながら乳を与える牝鹿が、あまりに乳房が張って痛み、

藪に隠した子に乳をやろうと急ぎ走るように。

 

 

その以前にヴィーナスはこう言っていた。

 

私は鹿園であり、おまえは私の鹿

山でも谷でも好きなところで食むがいい

私の唇で食すもよし、その丘が乾いているなら

下っていけば、心地よい泉がある

 

 

同じように、至る所で彼は「あやされむずがる幼児のように」愛撫に身を任せる。

 

 こうした比喩の母性的な意味合いは、多くの箇所でアドニスの「未熟」を確認するのと相まって、この詩の構想に<潜在する>男性のモチーフに関する限り、ヴィーナスのアドニスとの関係は母親と子供との関係に等しいと信じさせるに足る。それゆえ、少年の欲望は、「近親相姦のタブー」にうまく適応できるよう狩りに集中している。そして、女性への求愛と狩りとの間にある伝統的な転換に従って行動している。(例えば、『十二夜』の冒頭近くにある心と鹿【heartとhart】との地口を参照。あるいは、この比喩を教義化したものにルソーの教育についての考えがあり、彼は、エミールの早すぎる性的関心は狩りによって鎮められ逸らされるべきだと忠告している。『ガウェインと緑の騎士』では、狩りと女性のほかに食欲がつけ加わっており、求愛は感覚的充足を越えたものとして精神化されているが、その補償として貪欲な獲物の追求と豪華な宴会がある。)

 

 二<種類>の女性(母性的女性とエロティックな女性)を切り離せないことから、アドニスの猪に対する関係を述べる曖昧で同性愛的な言葉を説明できる。(その言葉は紛うことなく同性愛的だというわけではない。というのも、それはヴィーナスの叫びとして発せられ、男性のエロティックな動機についての女性の観点と見なせるからである。)この種の最もあからさまな一節は既に引用したが、そこではアドニス股間が猪の牙のさやとなり、オルガスム的な意味合いをもつ死が描かれている(死に至る愛Liebestodの両義性)。もしこの解釈が正しいなら、アドニスの死は、罪のある行為とその悲劇的な報いを含む一つのシンボルであり(こうした対立するものの融合が最も効果的なシンボルを形づくる)、死は罪の「原因」を悲劇によって尊厳化するだろう。また、このことで、なぜアドニスの馬が、アドニスの代理でありながら、アドニスの理性や強情さを欠き、アドニスには持ち得なかった完全に異性愛的な欲望をもてたかが説明される。同性愛的モチーフと母親の問題はアドニスにおいて同じ道徳的コンプレックスの一部であった。そして、このコンプレックスは、馬のように乗り手がいないか、理性を欠いた単純さを有する場合にのみ、欲望を縛りつけておくことができなくなろう。

 

 しかしながら、我々の主要な関心は、この詩を<位階>によって論じることにある——そして、母親−息子の含意は、それを無視することで、読者をあらぬ解釈に向かわせるといけないので、認めた上で取り除くために考慮した。そこで、女神、少年、猪が三つの異なった動機づけの<階級>をあらわすという考察を展開させていきたい。

 

 スピノザの根本的な定式、<神あるいは自然>を思い起こしてみよう。接続詞「あるいは」の文法的な働きによって、スピノザは二つの動機の領域を橋渡ししている。同様に、カーライルは「衣装」というイメージに同じような働きをさせ、神的なものに対する敬意と世俗的な高位者への敬意を交流させるような橋を架けた。二つの領域は、聖職者を考慮に入れるにしろ入れないにしろ、多様な用語上の可能性がある。天界における秩序のみを考えた言い方、社会的秩序のみの言い方、公然と二つの領域に橋を架ける言い方、表面は天界で内実は社会的な言い方、表面は社会的で内実は天界を指す言い方、社会を装いながら実際には天界を指す言い方、天界を装いながら実際は社会を指す言い方。最後の五つのパターンはすべて架橋の原理の変種として扱うことができる(別の装いでは、<同一化>の原理となる)。

 

 ここで「天界」というのは、神による非常に高次な秩序である必要はない。いかなるものであれ、超自然的な動機づけ(それが正当化されようがされまいが)であれば当てはまろう。かくして、ヘンリー・ジェイムズの幽霊譚「ねじの回転」で、モチーフとなる「精神」が象徴化されたピーター・クイントとミス・ジェスルという「超自然的な」存在もそこに含めることができる。特に、「神秘」と「神秘化」の以前からの考察に従えば、表面的には「神的」存在をあらわす動機の表現が、社会的位階による動機の形式化と説明した方がよりよく説明される場合を用心しておくべきである。

 

 シェークスピアの『ヴィーナスとアドニス』のヴィーナスは、神学よりも社会的用語を用いた方がよりよく説明されないだろうか。彼女が名目上は人間に求愛する女神であっても、この詩を神秘家の修道女が自分と天界の花婿との交渉を記したもののように、あるいは、神学者が雅歌を解釈するようなやり方で真剣に読むものはいないであろう。ヴィーナスはいかなる信心に訴えたとしても「女神」ではない。彼女は、自分より劣った者の好意を請うことによって自ら身を落とすことを余儀なくされた卓越した人格である。この観点から詩を見て、その求愛のスタイルを判断し、イメージに散らばったヒントをかき集めると、次のような関係が見て取れる、つまり、女神の人間に対する関係は、貴人の平民に対する関係に等しい。ここでの「神の」属性は、社会的に高位にあることでしかない。特定の貴婦人というよりは、むしろその普遍的な気高さにおいて「謎めいて」いるのだが、それを女神といっては「大げさ」になろう。

 

 「神性」と社会的優位とが入れ替えられることに基づいて、すべてを当てはめるつもりはない。煎じ詰めれば、そうした解釈をすることもできる。ヴィーナスは上流階級をあらわし、アドニス中産階級を、猪は下層階級をあらわすだろう(宮廷の眼鏡をかけた中産階級の眼から見れば)。馬は中産階級の力強い側面と、やや曖昧ではあるが高貴さをあらわす(「神のごとき」高揚を感じる愛)。猪によって、間接的に、下層階級を社会の澱に、道徳的悪に同一視できる。この詩で、猪は(つまり下層階級)はアドニスの無反応に含まれるよう思われる同性愛的な罪を体現する悪であり得る。あるいは、罪一般をあらわしている。スケープゴートの通例に従って、内部にある不快な部分が外で狩られるものとなり、狩る者と狩られる者とのあいだに奇妙な交流が生まれる。「社会神秘的な」解釈を肉づけし、煎じ詰めればどうなるか、我々はこれで十分に示した。

 

 しかし、我々にはより少量で十分であろう。我々が主張しているのは、単に、この詩は、位階的な動機によって、あるいはより限定して、<宮廷作法>の修辞を探るにふさわしい<社会秩序>を通じて見るべきだということである。そこで、社会的優位者が劣った者の好意を請うという注目すべき逆転が強調されるのである。そして、エロティックなイメージの輝きによってそこに潜むパターンを見失うべきではないのであって、このパターンは、エロティックな要素によって謎めいたものとなっているが、「原理的には」少しもエロティックなものでは、少なくとも狭義の性的な意味でエロティックなものではない。(この語を、ソクラテスのエロティックのように、究極的な原理の領域にまで、普遍的な弁証法的動機を含むものにまで拡大するなら、我々の立場は異なったものとなろう。)

 

 この詩を「社会神秘的に」見ると、熱烈な恋愛のによって見失われがちな詩句が重視されることになろう。かくして、我々は、アドニスが「彼女に満足を与えるように強いられ、だが従うこころはなく」という箇所に注目する。あるいは、次のようなヴィーナスの言葉。

 

わたしはどんな契約をしたらいいだろう?

自らを売ることもわたしはいとわないだろう、

あなたが買い取り、支払い、それをよく遇するならば。

 

 

あるいは、虫の知らせのように、猪によって傷を負った猟犬を見たとき、

 

世の哀れな人々が幽霊や、

予兆や不吉な現象に肝をつぶし、

恐怖に充ちた目で長い間凝視し、

恐ろしい予言をわれとわが心に注ぎこむように、

そのように彼女はこの悲しい兆を見て息を呑み、

再び吐息して「死の神」を大声でののしる。

 

 

ヴィーナスはここでは、天文学的なまでに卑小化され、「女神」は、空を見つめる「世の哀れな人々」のようにアドニスの死の前兆を見ている。この一節は、アドニスが最終的に彼女を拒否する瞬間に導入される神格化の主題(アドニスが天空の存在にまで持ち上げられる)に続く。リチャーズが思い起こさせてくれるところによると、コールリッジはその一節を「想像力」の例としてあげた。

 

輝く星が空から射られるように、

彼は夜の中へとヴィーナスの目から滑り去っていく。

 

 

 ここでは新たな秩序が示されており、ヴィーナスではなくアドニスが天上の存在である。彼のもつ受動的な優位性、彼女への無関心が行為として輝いている。捕捉への熱意が(狩人としての)天空にまで持ち上げられる。

 

 こうした展開をもっぱら性的と見ることは、実際には、性に支配されることである。むしろ、宮廷作法の、<社会的>顕示の<原理>、同じことだが、<位階的な>動機をあらわすものとして調べてみるべきである。社会的作法と性的作法の用語は容易に交換可能だが、それは単に一方が他方の「代用」となるからではなく、性的作法が本来社会的位階の動機と融合しているからなのである。

 

 かくして、この詩を「社会神秘的に」見ると、遠回りで謎めいたやり方ではあるが、ある種の革命的な挑戦をあらわしていると取れる。社会的あるいは政治的言葉ではどんな宮廷詩人も言おうと思わなかったし、言うと考えることさえできなかったことを、性的な形象によって遠く隔たった場所から言いあらわし、古い秩序を引きずりおろしている。そうした条件つきの逆転を意図していた証拠は、ヴィーナスが転倒した世界を予言して終わるのに認められるが、そこでは愛は(混乱した諸条件のなか)

 

・・・物惜しみをし、またいとも放縦になることもあろう、

ぼけた老人にもダンスのステップを踏むことを教え、

凶暴な悪漢も静粛にさせ、

富める者を破滅させ、貧しい者を富ませる。

愛は凶暴なまでに荒れ狂い、かと思うとあどけないまでに優しく、

若者を老いこませ、老いたる者を幼な児たらしめる。

 

愛は戦争や、恐ろしい出来事の原因となり、

息子と父親の間に不和を惹き起すだろう。

愛があらゆる不平不満に奴隷のように仕えることは

さながら乾いて燃え易い物質が火に従うようだ。・・・

 

 

 認められるのは次のことである。社会的な位階を超えた、あるいは先行する状況に根ざす究極的動機の問題へ連れ戻す逆説にここで我々は直面している。容易にその動機を入れ替えられるような、漠然とした弁証法的で自然な基盤が(愛と狩猟、性的欲望と食物の関係のように)、愛と戦争の無軌道ではあるが親密な関係として、ヴィーナスの変容に要約されている。(ヴィーナスが、戦神は自分の「冷ややかな軽蔑」の「奴隷」だと言うのからわかる通り、それ自体一種の戦争であるヴィーナスと戦神の結婚のように、詩では諸原理が性化されている。)詩の最後を締めくくる転倒の動機づけが社会的秩序だけで論じ尽くされないことは我々も認める。だが、いかなる究極的な動機も、形式的芸術的表現を取る場合には、社会的秩序(つまり、社会的位階)からその辛辣さと方向性を得る。それにふさわしく、詩はアドニスが辱めのうちに死ぬまでこの転倒を予言することはない(辱めは、社会的逆転の原理を含んではいるが、前ライヒ的な「性的革命」に見合った言葉で述べらる)。

 

 『俗語論』で、ダンテは英雄詩にふさわしい三つの主題として、愛、勇気、幸福を(Venus,Virtus,Salus)選んでいる。明らかに、この詩は、幾分ひねくれてはいるものの、ダンテの求めに応じている。恐らくこの三種の主題は、深遠なる一つの究極的な関係に還元できる。しかし、社会的動機に関する限り、詩は自負の問題を巡って形づくられる。雌馬(この詩において女性は、当時の宮廷作法の標準に従って当然の如く求婚する)は「女の常として、彼が彼女に慕いよるのを誇る」。軛を脱した雄馬は主人の支配から自由になったことに「誇り」を感じる。こうした誇りは、明らかに、劣ったものと優位者との揺れ動く関係を反映している(神々の反乱の神話のように、位階的な動機に関わる)。かくして、捉えにくくはあるが、ヴィーナスの「神性」を天界のものである以上に社会的なものだと認めるなら、ヴィーナスは非性化され、つまりは、階級的なものとなる。彼女が代表する階級はその厳粛さを放棄することとなる。宮廷作法的な技巧が疑われる。アドニスは彼女に、「私は愛を憎むのではなく、あなたの愛の手管を憎むのだ」と言う。

 

 我々は、この詩が、意識的に性的な謎のうちに社会的な寓意を隠したと思っているわけではない。「安っぽい」理論を好む学者たちは、詩に同時代の著名人へのほのめかしを読み取ろうと躍起になっている。しかし、たとえほのめかしが意図的に詩人によって挿入され、読者がそれを読み取ったとしても、そうした駆け引きは我々がここで研究している種類の表現の意図を示しているわけではなかろう。こうした同一視は暗黙の、「無意識のもの」でもあり得る。

 

 我々がここで考えている種類のことを理解するには、まず第一に、経験論に典型的な「私がこの対象を見るとき、私はなにを見ているのか」、といった問題にまつわる思弁をすべて捨て去らねばならない。詩的な観察には、観察される対象と観察する眼の裸の関係など含まれてはいない。詩人が用いる主題は「カリスマ的」である。光り輝く。中世研究家が、詩人のイメージに天上の位階の神秘が謎めいた形で隠されていると、類推によって解釈するとき、彼らは間違っていると論じることもできる。しかし、マルクスとカーライルを結びつけ、エンプソンからヒントを貰うと、詩人のシンボルが謎めいて<おり>、<隠された>領域、<神秘>をあらわしているという中世研究家の確信がいかに正しいかが理解されるようになる(その「神性」は、世俗的な領域におけるローマ皇帝や「大神官」のように、社会的位階から生じたのかもしれないが)。

 

 自然の世界が対象でも、詩においては、身分判断との秘かな「同一視」がなされるに違いない。(例えば、音楽と海での余暇は大いに気分を左右し、社会的秩序の頂点を究極的秩序の深淵に直面させる。)マヤのヴェールは位階の糸で織りなされており——詩人の主題はこの薄衣を通して輝くのである。「社会神秘的な」解釈ということで、我々はこうした暗黙のうちになされる同一化の探求を意味している。個々の例で間違うかもしれないが、こうした分析は「原理として」要求されるべきだと我々は主張する。詩人のシンボルは謎めいたもの<であり>、その謎は「神秘」を生みだすことから生じて<おり>、その神秘とは、強固に位階化された中世の思想家たちが明瞭に理解していたように、位階的な経験なのである。疑いの眼で見られている今日のマルクス主義者たちは、自分たちの批評を「社会学的」と呼び、それを現代の自由主義的科学と結びつけている。しかし、マルクスの「神秘化」の理論において論争的に再発見された中世初期の思考パターンとの関係はどうなっているのだろうか。「社会神秘的」解釈は、マルクスの「神秘化」に対する怒りとカーライルの「神秘」への追従の中間にある「中立的」方法を探りだせば、マルクス主義的洞察の名に値するものとなろう。

 

 中世における四種類の解釈は、アクイナスの『神学大全』第一問の第八項及び九項【実際には九項と十項】で定義されており、そこでアクイナスは字義通りの意味に加えて三種の「霊的な」意味を区別している。聖書の字義通りの意味は比喩ではなく、比喩されているものにある。例えば、「神の御手」といった比喩の場合、字義通りの意味は「神の効力」であろう。三種の霊的意味に関しては、キリスト教徒が旧約は新約を比喩表象していると言う限り、旧約聖書の解釈は「寓意的」になる。聖書の人物の行為があらゆる人間の行動の範例とされる限り、その意味は「道徳的」あるいは「比喩解釈的的」である。聖書の事物が「永遠なる神の栄光に関連するものをあらわす」限り、その意味は神秘的である。

 

 我々は「天界」の神秘よりもむしろ「社会的神秘」、我々の言葉で言えば、「社会神秘的」な要素を探している。恐らく、「道徳的」あるいは「比喩解釈的」批評に等しいものは、作者と読者にとって、改善し、安定化し、元気づけ、浄化し、社会化する等々の、儀式としての詩への関心に見いだされるだろう。ある秩序が別の秩序のしるしとして解釈される際の意味は、恐らく「寓意」に現代的に相応したものであろう。例えば、ヴィーナスを母性をあらわすものとする精神分析的解釈、あるいは、ヴィーナス、アドニス、猪を三つの異なった階級と同一視する場合である。寓意的意味と道徳的意味は、位階の神秘が重視される限りにおいて、社会神秘的なものに赴く(様々な気後れ、宮廷作法、形を変えた攻撃、よそよそしさ、気象を利用した荘厳化、地上において天上の寺院、礼服、希少な霊的器に相応するものを演出する、等々の世俗的な神聖化の原理)。端的に言って、社会神秘的意味は、様々な書物に、また自然という書物にある事物が、いかに「世俗的な栄光に関連したものをあらわす」かを示している。

 

 スコラ哲学者は四種の意味を区別する次のような調子のいい詩をもっていた。

Littera gesta docet;quid credas allegoria;

Moralis quid agas ;quo tendas anagogia.

 

神秘的解釈に特徴的な要素として風潮、傾向、方向性などが言われること自体、神秘的解釈の概念が世俗化されうることを示している。