レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 10

 比較分析と分類に基づいたこの仕事は、その手続きにおいて、同時代の進化論的生物学に非常に近かった。それは学問的な調査がいっせいに行なわれた主要な時期の一つであり、経験に基づいて、進化論的発達や諸関係の図式を含んだ言語語族の主要な分類だけでなく、そうした図式のなかで、特に音韻の変化について、ある種の「法則」が発見されたときだった。ある領域では、この運動は特殊な意味合いにおいて「進化論的」だった。プロト言語という仮定のもと(プロトインド-ヨーロッパ語族)、主要な「語族」が発達したとされる。しかし、後に、また別の意味で「進化論的」になった。ある言語の音韻変化と自然科学が結びつき、厳密さを増していくと、言語音韻論の体系は言語能力や会話の進化論的起源についての物理的研究と足並みをそろえるようになる。この傾向は、会話の生理学や、実験心理学でそれに該当する部分の主要な著作において最高潮に達した。

 

 言語使用を心理学の一問題とみなすことは、言語の概念に大きな影響を及ぼした。また、一般的言語研究の内部でも、客観主義的な傾向を補強するような新たな局面が生じていた。比較言語学の研究に特徴的なのは言語記録の集成である。この研究材料の特定は、もちろん、ギリシャ語、ラテン語ヘブライ語の初期の「古典的な」言語研究でも既になされていた。そして、より広範囲の言語を扱うときにも、この初期のやり方が繰り返された。つまり、特権的な(科学的な)観察者が異邦の書かれたものを調べる、ということである。実質的には密接に関連して発達した人類学という新たな科学と似ていて、方法論上の決定は、この事実上の立場の結果なのである。一方において、体系的観察、分類、分析様式の高度に生産的な適用があった。他方では、観察者という特権的な立場のことがほとんど気づかれなかった。というのも、彼は異邦の材料を異なった接し方で観察(もちろん、科学的に)しているからである。テキストにおいては、過去の歴史を記録する。会話においては、異国の人々の活動は主導権を握る人々の活動と従属(植民地)関係にあり、それによって観察者は特権を得ている。こうした限定的な立場は、言語の活動やいまここにある本質的な部分を不可避的に還元してしまうことになる。根本的な手順を経た結果としての客観性は、記述のレベルにおいては非常に生産的だが、必然的にその結果として出される言語の定義は(特殊化された)哲学体系の定義となるに違いない。特権的な観察者と異国の言語材料との接触は、後に、特に何百ものネイティブ・アメリカンアメリカ原住民)の言語がヨーロッパの征服と支配が完成することで死滅の危機に陥った北アメリカでは、初期の言語学のやり方は、実際、充分客観的とは言えないとされた。こうした異質な言語をインド-ヨーロッパ的な語源学の範疇に同化すること――文化的帝国主義の自然反射――は、科学的に抵抗され、異質な体系が存在することだけを認め、それ本来の(固有であり構造的な)言葉で研究する方法を見いだそうとする必要な手順によって抑制された。この取り組みは科学的な記述と注目すべき結果をもたらしたが、理論のレベルにおいては、(異質で)客観的な体系としての言語の概念を最終的に補強することになった。

 

 逆説的なことに、この取り組みは、テキストのない言語に新たに関わるときに必要とされる手順の修正に深い影響を及ぼすこととなった。初期においては、言語はほとんど常に特殊な過去のテキスト、完結した独白としてあらわされるという事実に従って手順も決定されていた。現実に発せられた言葉は、入手可能であっても、歴史的な俗語であるとされるか、言語の根本的な形(テキスト)の一例として、言語行為のなかに組み入れられる派生物と見られていた。言語使用そのものは、それ自体で能動的で本質的なものとはほとんどみなされなかった。そして、このことは、観察者-観察される者という政治的関係によって補強されており、征服され支配される人々の言葉から周縁的で社会的に劣った集団の「方言」に及ぶ「言語習慣」の研究は、理論的に観察者の「基準」には対立するものであり、独立した創造的で自己決定的な生命をもつものというよりは「行動」とみなされたのである。北アメリカの経験主義的な言語学者は、話し言葉の優越性を「標準的な」「古典的」テキストの不在と見なすことでこの傾向のある部分を守っている。だが、一般的理論にある客観主義的性格は、話し言葉を「テキスト」――正統的な構造主義言語学固執されている特徴的な語――に変えることにおいてさえ限界に達している。言語は固定され、客観的なもので、その意味において「所与の」体系であり、理論的実際的に「発話」(後には「発話行為」)として記述されるものに優先すると見られるようになった。かくして、世界における特殊な社会的関係のなかでの人間による生きた話し言葉は、理論的に、その背後に潜むある体系の個々の事例に還元されたのである。

ブラッドリー『論理学』 17

§3.しかし、ヘルバルトは、後で見るように、そう簡単に片付けられはしない。彼は、判断が事物に関するものだという常識的な教義を無批判に受け入れ、事物とは言葉ではないという発見に驚き、繋辞の本性についての言語学的啓示と思われていたものにひれ伏した最初の人間ではなかった。判断が事実を肯定するものであることを否定したとき、彼は十分に自分の立場を知っていた。文法上の主語にはなんの謎もなかったが、真理と観念の本性に関してはすべてが難解だった。我々が判断について反省すると、まず最初に、もちろんのこと、我々はそれを理解したと思う。それは事実に関わる、というのが我々の確信である。しかし、それはまた、観念にも関わることを我々は見る。この段階では、問題はまったく単純なように思える。我々は心のなかに観念の接合や総合をもっており、この接合は外側にある事実の同じような接合を表現しているというわけである。真理と事実とは、かくして、一緒に与えられるもので、いわば、異なった半球にある、別種の要素をもった同じものである。

 

 しかし、より以上の反省は、我々の確信を霧散させることになる。判断は観念の統合で、真理は判断以外の所では見いだせないことを我々は見た。それでは、観念はどのように現実と関係するのだろうか。それらは同じように思えたが、明らかにそうではないのであり、その相違は矛盾にいたる先触れとなっている。事実は個別的で、観念は普遍的である。事実は実体をもち、観念は形容詞的である。事実は自律し、観念はシンボル的である。これは、観念は事実がそうであるようには結びついて<いない>ことをあらわしていないだろうか。観念の本質は、考えれば考えるほど、現実からますます離れていくように思われる。そして、我々はなにかが真である限りにおいて、それは事実では<なく>、事実である限りにおいて真ではあり得ない、という結論に直面する。同じ結論を別の形で言うこともできる。定言的判断はある事実が肯定されたり否定されたりする実在に関する主張である。しかし、判断にそうしたことができないのであれば、結局すべての判断は仮言的だということになる。それはある仮定に基づいて真なだけである。S-Pを主張するとき、私はSあるいはP、あるいはその総合が実在であることを意味しているのではない。事実における統合に関してはなにも言っていない。S-Pの真理で意味されているのは、<もし私がSを仮定するなら>、<その場合>私はS-Pを肯定せざるを得ない、ということである。こうした意味において、<あらゆる>判断は仮言的である。*

 

*1

 

 ヘルバルトのよって遂行されたこうした結論はその前提からの帰結として抗うことのできないものだと思われる。しかし、その諸前提が適正ではない。前の章で見たように、判断は諸観念の総合ではあり得ない。ここでしばらく中断をして、この誤った教義の帰結について述べたいと思う。判断が諸観念の統合なら、定言的判断は存在できない、ということを明確に見てとることは、論理学の理解にとって非常に大きな一歩である。次のセクションでは、この点を容易にわかるような形にしてみたい。

 

§4.現実と真理との対象比較は、疑いなく、究極的な原理を含むものである。事実とはなにかを探求することは、同時に形而上学への旅路につくことであり、その終着点にはすぐに着けるものではない。いま現在の目的のためには、我々は常識からさほど遠くないレベルで問題に答えねばならない。一般的な見解で、多分我々の多くが同意するのは次のようなことだろう。

 

 現実とは、あらわれにおいて、あるいは直感的知識によって知られるものである。我々が感情や知覚において出会うものである。また、それは空間と時間において生じる出来事の系列にあらわれる。それはまた、我々の意志に抵抗をする。事物は、ある種の力、強制力をふるい、必然性をあらわすときに実在する。簡単に言うと、行動し、自律した存在である。この二つの特徴はつながっているように思われる。空間や時間、あるいは両者の系列を変えることによらない限り我々は行動について知ることがない。恐らく、行動なしにあらわれるものは存在しないだろう。そして、誰でもが申し立てることのできる最も単純な考えを言葉にすると、実在は自律した存在である、となる。別の言い方をすると、実在は個的なものである、となる。

 

 こうした観念を体系的に考察するのが形而上学の仕事である。ここではそれをひとまず預け、一般的な誤解を指摘するに留めよう。「実在は個的なものである」というのは、実在が抽象的な単一物であるとか、単なる一個物であることを意味すると考えるのは誤りである。内的な多数性は個的であることを排除しないし、ましてや他のものを排除する関係に立つ自律した事物であることを排除しない。この意味において、形而上学は、一個物が自律した存在から最もかけ離れたものであることを証明できる。個的なものは、単なる個物からは遠く、その内的な多数性とは対照的に、真の普遍である(第六章参照)。これは逆説ではない。我々は実在をある瞬間、ある場所を越えて存在するものとして語り、信じることに慣れている。そうした実在は、異なったとき場所でも同じままにあらわれる同一性と言えよう。それゆえ、真の普遍と言えよう。*

 

*2

*1:*ヘルバルト『著作集』I.92。彼はここでこの点を部分的に先取りしていたウォルフに言及している。フィヒテ『著作集』I.69,93参照。

*2:*次のような考察は読者の興味をひくかもしれない。空間と時間が連続的なら、そして、あらゆるあらわれはなんらかの時間や空間を占めなければならないなら--どちらの<論点>も支持するに困難なものではない--すぐさま我々は、単なる個物など存在しない、という結論に進むことができる。あらゆる現象は一つの時間場所を越えて存在する。そして再び、多数性こそが普遍なのである。

一言一話 154

 

フロイトから引き出されるプロットのモデル 反復の役割

 我々が『快感原則の彼岸』の読みから引き出すのは、中間物を迂回、遅れを課する強迫のもとに終結を目指す苦闘、テクストの引き伸ばされた空間におけるアラベスク模様として必然化するように始まり(エロス、緊張に至る興奮、叙述の欲望)に対して終わり(死、静止、叙述不可能性)を構造化する力動的なモデルである。このモデルは、我々が死ぬために生きているのだということ、それ故、プロットの意図は、終結が迂回を通じてのみ完遂されなければならないにしても終結を目指す方向づけに存することを示唆する。このことは、始まりと終わりとを結びつけながら、一方を他方に折り込むことを防ぐ欲動の働きを通じて、始まりと終わりとの間の必然的な距離を再確立し、維持する。この方向において、換喩と隠喩は互に助け合い、トドロフが叙述的変換を構成する際の「同一であるが異なっている」という要素に必然的な時間性を与える。この戯れの空間で決定的なのは、その最終的な緊張の解放をより効果的にするためのテクストのエネルギーを束ねる助けをする反復である。虚構のプロットにおいて、これらの拘束の働きは起源への回帰であり、抑圧されたものの回帰である反復のシステムであり、終わりに向かう運動と起源へ帰る運動とを複合し、前方へ進む時間のなかで意味を転倒させ、テクストのエネルギーのシステムの形成を助け、「人生」から「意味」を獲得する喜びに満ちた可能性(或は幻影)を与える。

アラベスクは生の実質としてそこに存在し、意味を持つ。

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 9

 この局面を把握することは、ヴィーコがそれを言語発達の諸段階、つまり、神的、英雄的、人間的という著名な三段階として図式化したと読み取れるために困難であったし、いまでもそうである。ルソーはこの三段階を「歴史的」なものとして繰り返し、諸段階を力の衰えとして解釈してロマン主義運動の議論――言語の「本来の」、「原始の」力を復活させることによって文学を復活させる――に形を与えた。しかし、このことは同時に、新たな活発な歴史意識を曖昧なものにし(復興を目指すものとして特殊化され、失敗すると反動でしかなくなる)、新たな活発な言語意識が文学に特化することで、特殊な事例、特殊な実体、特殊な働きとして区別され、言語と現実との「非言語的な」関係は以前のように慣習的で、疎外されたもののままに残される。ヴィーコの三段階を、実際には「諸段階」といったほうがいいが、文字通りに受けとることは、彼が押し広げた新たな局面を、彼同様、見失うことになる。というのも、彼の言語に関する考察で重要なのは人間の段階だけであって、神的な存在には無言の儀式と祭礼が、英雄には身ぶりとしるしがあるだけなのである。言葉による言語は、人間独特のものであり、本質的に人間的なものである。これが、言語を人間に「与えられた」ものだと(例えば神によって)する考えや、言語とはある特殊な習得物、道具として人間に「つけ加えられた」ものだというまた別の考えに反対するヘルダーの考え方である。言語は、間違いなく、人間独特の、世界の開示の、世界への開示の仕方であって、切り離したりできる道具ではなく、本質的な能力である。

 

 歴史的には、このように言語を本質的なものとして強調するのは、人間の発達を文化においてみる密接に関連した見方と同じく、自然科学の力強い発達による分析的経験的処置に直面して、一般的人間性のある種の観念を保存しようとするとともに、物理世界の属性が理解され、結果的にそれによる因果的説明が増大していくのに直面して、人間の創造性という観念を主張しようとする試みとしてみられるべきである。このようなものである限り、こうした傾向は、それに反対する傾向が新種の客観的唯物論に向かうのに対し、新たな観念論になる危険を常に抱えていた。後の思想を運命づけたこうした特殊な分裂は、新たな慣習となった「芸術」(文学)――「人間性」と「創造性」の領域――と「科学」(「実証的な知識」)――物理世界とそのなかにある物理的存在としての人間について知りうる次元――との区別によって覆われ、批准された。主要な各用語――「芸術、「文学」、「科学」、それに関連して「文化」、新たな必要として特殊化された「美学」、根本的な区別がなされる「経験」と「実験」――は十八世紀初期と十九世紀初期の間に意味合いを変えた。それによって起きた争いと混乱は猛烈なものだったが、十九世紀の新たな状況において、言語との関わりにおいてこの新たな慣習的な区別は吟味される必要があったにもかかわらず、実際には言語という土壌とかかわることがなかったのは意味深い。

 

 代わりに起こったのは、言語の経験的知識の法外な進歩であり、この知識の注目に値する分析や分類はいくつかの基本的な問題を脇にのけてなされたのだった。この運動を、植民地主義の拡大によって西欧社会が活発に発展していた時期の政治的歴史と切り離すことは不可能である。古い形の言語研究は、主に既に使われなくなった「古典的」言語のモデル(それは統辞論的、文学的意味の双方においていまだ影響力のある確定された「文法」である)と、そこから「派生した」現代の俗語に含まれる。ヨーロッパの探査と植民地化は入手できる言語的材料の範囲を劇的に拡大した。危機的な出会いはヨーロッパとインド文明の出会いで起こった。利用できる言語が手に入っただけでなく、異なった「古典」をもち、高度に発達した方法をもったインド文法学者がヨーロッパ人と接触したのである。インドにいる一人のイギリス人として、ウイリアム・ジョーンズはサンスクリットを学び、そのラテン語ギリシャ語との類似性の観察から、インド-ヨーロッパ系(アーリア語系と他の言語「語族」とを分類する仕事を始めた。

ブラッドリー『論理学』 16

第二章 判断の定言的仮言的形式

 

§1.前の章では、我々は判断の主要な特徴を簡単に記そうとした。この章は我々の結論を支え深めることとなろう。ここで扱われる問題は、部分的には、ヘルバルトによって提起されたよく知られた議論に出くわしたことのある者にはおなじみのものだろう。この章の長さと難解さでは成功はおぼつかないが、長さにしろ難解さにしろ、この問題の現代論理学における重要さが十分正当化してくれているのだとあらかじめ言うことを許してもらわなければならない。

 

 判断はなんらかの事実や実在について何ごとかの述べている、と我々は自然に仮定している。それ以外のことについて肯定しようと否定しようと、そうした判断は取るに足らない主張となろう。我々はなにか言うだけではなく、現実のなにかについて言わなければならない。このように考えると、判断は真か偽でなければならないが、その真や偽は判断自身のうちにはあり得ないことになる。それは判断を越えたなにものかへの参照を含んでいる。そして、我々が判断をするそのものは、事実以外のなにがあり得るだろうか。

 

 客観性や必然的つながりについての意識には、判断の本質があると言われることもあるが、最終的にはその意味を実在への参照から引き出しているのがわかるだろう。真理とは、ある意味、真であることを強制されなければ必然的ではない(第七章を見よ)。強制は強制するなにかがなければ可能ではない。その力をふるうのが実在で、判断はそれについてなされる。実際、S-Pそのものが事実に関して定言的に真であることを我々は主張したりしないし、<それは>我々の判断ではない。実際の判断は、S-Pは実在であるxによって我々の心に強制されるものだと主張するのである。それがどのようなものだろうと、この実在が判断の主語である。客観性についても同様である。S-Pというつながりが私の判断の外側にあるなら、それはどこにもないのとほとんど変わらない。それはなにかとの関わりで正当なものとなるのであり、そのなにかとは実在でなければならない。疑いなく、S-Pはこの事実の直接的な真実とはなり得ない。それもまた我々の主張することではないのである。実際の判断は、S-Pがxとの関わりのうちにあることを主張する。そして、再び、これは事実についての主張なのである。

 

 確かに、真実が実在についての真でなければならないという自然な仮定が存在する。僅かの反省で達することのできるこの結論は、この章の結論でもある。しかし、それに到達するためには苦闘があり、問題の精妙さに悩まされることがあり、ある点では恐らく幻滅や動揺に襲われることもあろう。

 

§2.より重要度の低い難点を一緒に扱うことにしよう。「四角の円は不可能である」というのは、四角の円の現実の存在を肯定しているのではないと言われる(ヘルバルトI93頁)。しかし、あらゆる場合において我々が<文法上の>主語の実在を肯定するのだと主張しないなら、この反対は見当違いである。*そして、明らかにこれは常に我々が肯定しようとしていることではない。「幽霊は存在しない」、「この考えは幻である」といった例も同じように扱うことができる。これは最初の形式とは違うし、実在をあらわす命題をでたらめにつなぎ合わせたものでもない。しかし、あらゆる命題において、意味の分析をすると、なにか別のものの実在が肯定されたり否定されたりしているのがわかる。「空間の性質は四角と円とのつながりを排除する」、「世界には幽霊が存在する場所はない」、「私はある考えをもっているが、それが指し示す実在とはその意味とは別のものである」--こうした翻訳を最初の例に対する攻撃への予備的な答えとすることができる。次に、ヘルバルトが「ホメロスの神の怒りは恐ろしい」(I.99頁)といった言葉で責め立ててきても、我々はこうした武器に譲歩する必要はない。ホメロスにおいてはそうなの<である>。確かに詩は、確かにある種の想像力は、確かに夢や幻覚は、確かに我々の言葉や名称より多くのものはある種の事実なのである。こうした異なった秩序にある存在の区別というのは容易なもので、決して混同するべきではないし、自家撞着はこうした反論を熱心に行なう者の方にある。†

 

*1

 

*2

 

 更に、この誤った議論が繋辞にまで及ぶと、同じ誤解が知らず知らずのうちに繰り返されるのを我々は見ることになる。我々が性質づけをするときには、判断を越えて存在し、我々の頭のなかでかあるいは外でか、(どのような形であれ)実在するものを性質づけする。こうした意味において、我々はそれは「存在する」もの以外をあらわすことはけっしてでき「ない」と言わねばならない。*

 

*3

*1:

*ウヴェルウェグはこの間違いを犯しているように思える。『論理学』§68

 

*2:†我々がさしあたり無視してしまっている難点があることは私も認める。誰もホメロスを読んでいないとき、神の怒りを我々は誰に帰することができるだろうか。言葉の意味は確かで否定できない事実であるが、その固定したつながりはどこに見いだされるだろうか。誰もそれを開かなくとも辞書のなかにあり、誰も使うものがなくともその用例のうちにあるのだろうか。しかし、こうした問題は伝説ほどではないが事実にも、名称ほどではないが事物にもある。数学的真理は、少なくとも、数学の内部では効力をもつ。しかし、数学とはどこにあるだろうか。我々は砒素が毒だと信じているが、誰もそれをのまなければ、誰も砒素のことを考えさえしなければ、毒になることなど全くない。後でこの問題についての議論に戻ることがあろう。

*3:*読者はヨルダンのDie Zweideutigkeit des Copula bei Stuart Mill,Gymn.Prog.Stuttgart,1870、ブレンターノ『心理学』第二巻第七章を参照のこと。別の側面から述べたものには、ドロビッシュ『論理学』§55-6、シグヴァルト『論理学』I、94がある。