2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈21

今ぞ恨みの矢をはなつ聲 荷兮 矢をはなつ声は矢声というものである。引き絞って放つとき、わが国では「や」や「えいッ」といい、中国では「著」といって、力を込めあたることを期する、これを矢声という。「や」という名称もこの声からでたのだろうと古人も…

トマス・ド・クインシー『スタイル』32

まず、このことは不可能だと思われる。だが、現実には、より大きな関心事が学者たちには生じていた。より大きなというのは、より限定しがたいものだからであり、より限定しがたいというのはより精神的なことだからである。それはこういうことだった。西洋の…

ブラッドリー『論理学』57

§3.それぞれの判断の根源に帰り、その初期の発達を考えてみれば、両者の違いは明らかになる。肯定の初歩的な基礎となるのは観念と知覚との合体である。しかし、否定は単に観念と知覚との非合体というのではない。単に実在を指し示すことのない観念や観察さ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈20

のりものに簾透く顔おぼろなる 重五 一句の情は解釈をまつまでもなく明らかである。簾は乗り物の簾である。前句は野草に蝶が遊ぶことが人を愁いに誘ったが、この句は他から見るその人のありさまをあらわしているだけだが、言葉のあり方、切り取り方に佳趣が…

トマス・ド・クインシー『スタイル』31

最初の二つの動因が変化を促すことによって知性を刺激する次第は十分に明らかである。もっとも、奴隷制度のため、商売に対する偏狭な蔑視のため異教ギリシャやローマがどれだけ怠惰にむしばまれていたから気づく者はほとんどいないだろう。だがこの点は棚上…

ブラッドリー『論理学』56

第三章 否定判断 §1.前章の長い議論の後なので、我々になじみのある一般的性格をもつ判断のなかで手早く扱うことのできるものを取り上げよう。他の様々な判断と同様に、否定判断は知覚にあらわれる実在に依存している。結局、それはある観念内容を受け入れ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈19

蝶は葎(むぐら)にとはかり涕かむ 芭蕉 『源氏物語』の末摘花の君が、世に見捨てられ、宮仕えの人もなくなり、住んでいるところも葎に荒れはてたのを、昔をなつかしく思って訪れてきた人に、前句の尼が語ろうとして悲しむ様子だという古解はよくない。前々…

トマス・ド・クインシー『スタイル』30

さて、修辞という語の最後の区分、「実用的な技術としての修辞rhetorica utens──現在の用法ではもっぱらこの意味だけになってしまっているが──はアリストテレスの修辞学ではまったく扱われていないものである。道徳的説得、虚偽にもっともらしさを与え、疑わ…

ブラッドリー『論理学』55

§80.しかし、我々がより低次の見方にとどまるなら、判断の真理を精査することに同意しないなら、個的な事実に関する主張をそのまま受け入れるつもりなら、その場合我々の結論は違ってくるだろう。抽象的判断はすべて仮言的となるだろうが、知覚に与えられ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈18

二の尼に近衛の花の盛りきく 野水 二の尼は二位の尼君などではなく、尼となった官女のなかの第二の人物である。二というのは次というのと同じで、二の宮、二の町などという言葉の二の用法に照らして見るべきである。近衛は高貴な人間を打ちかすめていったも…

トマス・ド・クインシー『スタイル』29

第四部 「<これだけのことがあって、ではその実際の帰結はどうだったろうか。>」この言葉で前の部は終わった。ギリシャ知性のあらわれ、顕現は二つの異なった形で現われる。最初のものは紀元前四四四年ペリクレスの周囲に集まり、第二のものは紀元前三三三…

ブラッドリー『論理学』54

§78.科学の実践は我々の長きにわたる分析がもたらした結果を認めている。科学で一度真であったものは永久に真である。科学の対象は瞬間瞬間の知覚が我々にもたらす複雑な感覚される現象を記録することにはない。これやあの要素が与えられたときにはなにか…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈17

となりさかしき町に下り居る 重五 「となりさかしき」を嶮しとしたのは曲齋であり、心得顔して卑しく騒いでいたというのは鶯笠である。高野、吉野などの奥の院へ願があって通う人が、その下の町にいて高山の寂寞とした夕暮れを見ている様子といい、「隣嶮し…

トマス・ド・クインシー『スタイル』28

そう、やはりギリシャ文学は我々が定めた点、アレキサンダーの時代に終わるのである。ギリシャの土壌、ギリシャの根から心を圧倒するような力、哲学大系、創造的エネルギーの範例となるようなものは再び現われることはなかった。想像力は死に絶え、火山は燃…

ブラッドリー『論理学』53

§76.単称判断の唯一の希望は完全な断念にある。仮言的であっても、抽象的判断は自身よりも真であることを認めねばならない。判断のクラスの最も低い位置で満足しなければならない。その要素で実在を性質づけることをやめ、一般的な形容のつながりを認める…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈16

黄昏を横に眺むる月細し 杜國 一句の情、前句との係り、解釈に及ぶまでもなく明らかである。淀の舟かなにかから三日四日ころの月を眺めたものである。いい景色の句である。古解で、「この場所は淀川堤で、人物は遊びがてらの山歩きからかえったもので、酔っ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』27

さて、こうしてギリシャ文学全体を見渡せるような場所に辿り着いたわけだが、いくつかの説明が必要だろう。ホメロスは、ヘシオドスは、ピンダロスはどこに行ったのか、と読者は尋ねるに違いない。ホメロスとヘシオドスは紀元前一千年前、少なく見積もったと…

ブラッドリー『論理学』52

§74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈15

霧に舟牽く人はちんばか 野水 ちんばは跛脚である。古解に、「石混じりの場所に落葉して、霧雨に濡れたところを滑りながら行く人を見て、ちんばひくかと笑うさまだ」というのはよくない。これはただ、柳葉が力なく落ちる秋の岸で、霧のなかに舟を牽く人の姿…

トマス・ド・クインシー『スタイル』26

もし亜鈴のことをご存じなら思い起こしていただきたいが──ご存じないなら我々がお知らせしよう──鉄や鉛でできた円筒状の両端に同じ金属の球がついており、通常は緑のベーズで覆われている。だがこの覆いは、不実にも、我々の信頼しがちな指を三度に一度は引…

ブラッドリー『論理学』51

§72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あま…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈14

田中なる小万が柳落つるころ 荷兮 伊勢国山田の近くの浮洲に小万の柳がある、とあり、小万柳は摂津国田中にある、昔から伊勢の浮洲と説いているのは杜撰であるといい、そうではない、淀川筋に田中という地名はない、などと古来の注釈家は言い争っている。強…

トマス・ド・クインシー『スタイル』25

ペリクレスから<彼の>天体を構成する残りの者に目を向けると、そこには最高度に創造的で、まったく前代未聞のことを成し遂げ、それぞれに独特な文章を書いた者たちがいる。彼らには先行する範例はなく、彼ら自身がそれぞれ後の世代の範例となる運命をもっ…

ブラッドリー『論理学』50

§70.現前の知覚に与えられるものの一部分を実在だとすることはできないことをみてきた。更に進まねばならない。現前する内容すべてを性質づけることができたとしても、過去と未来をそこに組み込めないなら、それは再び失敗であろう。現在が過去とは独立に…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈13

あるしは貧にたえしから家 杜國 「たえし」は絶えしであり、「たへし」は堪へしである。貞亨元禄のころは仮名遣いも厳格ではなかったので、たえしでもたへしでも、文字に堪とも絶ともないなら、堪とも絶とも決めがたい。だから、絶えしの意味にとるものと、…

トマス・ド・クインシー『スタイル』24

かくして我々は目的に達する。この二人の中心人物ペリクレスとマケドニアのアレキサンダー(ユダヤ予言者の「力強い雄山羊」)を忘れたふりができる者はいない。二つの異なった、しかし隣り合う世紀のこの二つの<焦点>の周囲にギリシャ知性の綺羅星、銀河…

ブラッドリー『論理学』49

§68.分析判断は<それ自体で>真なのではない。それは独立して存在することはできない。個別の現存を主張することには常にそれ以上の、主張されている断片からはこぼれ落ちる内容が仮定されていなければならない。主張されていることは、他のものがあって…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈12

影法の暁寒く火を焚きて 芭蕉 影法はいまでいう影法師で、略語ではない。何々坊というのはすべて人に擬していう言葉で、しわい(しみったれ)なのをしわん坊、けちなのをけちん坊、取られるものを取られん坊、取るものを取りん坊または取ろ坊、かたゐ(乞食…

トマス・ド・クインシー『スタイル』23

さて、これらのことをギリシャ文学に当てはめてみると、この知的領域では二つの発達段階しかなかったと観察できる。多分、こうしたことに通じていない読者(通じていない読者と通じている読者を同等にもつことが影響力ある雑誌の誇りであり栄誉であろうから…

ブラッドリー『論理学』48

§66.そして、もう一つの例が、科学によって純化された精神がいかに正統的なキリスト教と合致しているか示すことになるのをご容赦願いたい。宗教的な意識では、神と人間はつながりをもった要素である。しかし、経験をふり返ってみれば、我々は区別をし、上…