2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

トマス・ド・クインシー『自叙伝』10

私の先達であり仲間を連れ去った病気について詳細に述べる必要はない。(私の記憶によれば)その時彼女は九歳に近く、私は六歳に近かった。多分年齢や判断力から来る権威が自然に彼女を上位者としていたのだが、それに彼女自身は認めようとしない優しい謙虚…

ブラッドリー『論理学』76

§7.我々は「私は歯が痛い」といった判断が、そうした感覚に訴える形式では本当には真でないことを見た。それらは定言的真理であることに失敗し、ほとんど仮言的真理にも達していない。それを真にするためには、現在の事例を越えるようなつながり、歯痛の諸…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈39

霜にまた見る朝かほの食 杜國 または復であり、まだではない。朝顔の食は、花の酒、露の宿などというようなもので、興のある言葉づかいで、強いて問い詰めるべきではない。朝非常に早く食べる飯ということである。見は朝顔にかかり、食にはかからない。前句…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』9

かくして、その時子供の心についた最初の傷は容易に癒えた。二度目はそうはいかなかった。親愛なる、気高いエリザベス、彼女の豊かな表情、魅力的な顔が闇の中から浮かび出るたびに私はあなたの早熟な知性のきらめきの証拠として光の冠や輝く光背(1)を思う…

ブラッドリー『論理学』75

§5.それが真であれ批判にさらされるものであれ、少なくとも推論の<必須条件>である最も重要な原理がある。それを同一性の原理と名づけるのが最良で、というのもその本質は差異のなかの同一性を強調することだからである。この原理とはどういうものか。そ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈38

初雪の巻 思へども壮年未だ衣振はず 初雪の今年も袴きて帰る 野水 左太沖の詩に「被褐出閶闔、高歩追許由、振衣千仞岡、濯足万里流」とある。被褐懐玉は徳を包み世を避ける意味で、『孔子家語』に出ている。閶闔は洛陽城西門のこと。許由は朝廷に位があった…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』8

しかしながら、私はこのことを急速に知るに至った。私の二人の姉、その時生きていた三人のうちの年上の二人で私よりも年かさである姉たちが年若い死に見まわれたのである。最初に死んだのはジェーンで、私より二歳年上だった。彼女は三歳半、私は一歳半で、…

ブラッドリー『論理学』74

§3.同一性の公準は、同語反復の原理の意味にとると、明らかな誤りに過ぎない。問題は、こうした誤りのもとは論理学から完全に抹消してしまったほうがいいかどうかである。同一性の公準が差異の公準のように正当なものでないなら、それにどのような形を与え…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈37

廊下は藤のかげつたふなり 重五 一句は穏当で難なく、藤の花の美しく、春の日が柔らかに射したる廊下の様がめでたくのどかで、うるさく解するまでもない。これで一巻が終わるが、最終の句を揚句という。揚句の様は、必ずしも拘泥する必要もなく、稀には陰惨…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』7

我々、この家の子供たちは、実際、非常に幸福な、よい影響を全面に受けることのできる社会的立場にあった。エイガーの祈り「我に貧困も富裕も与え賜うな」は我々に実現していた。我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負…

ブラッドリー『論理学』73

第五章 同一性、矛盾、排中律、二重否定の原理 §1.否定的、選言的判断を論じたあとで、我々は同一性、矛盾、排中律のいわゆる「原理」と呼ばれているものを一緒に扱うことにする。加えて、二重否定についてもいくつか考察してみよう。 同一性の原理はしば…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈36

綾一重居湯に志賀の花漉きて 杜國 旧解が多々あって、その是非を急には定めがたい。ある本には、志賀の山水を家風呂に汲みいれて、浮いた落下を綾ですくい取る様子だとある。家風呂を居湯といった例があるか、まずそれが疑わしく従いがたい。ある本には、居…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』6

情熱的な記録に割り込む個人的な虚栄心はどんなものでも致命的な結果をもたらす。それは精神の一心不乱さや、ただ根深い情念だけがそこに発し快適な住みかを見出すことのできる自己忘却とは相容れないものなのである。それゆえ、そうした傾向が影をさすだけ…

ブラッドリー『論理学』72

§13.こうした間違いについてはこれで終り、問題そのものの議論に戻るべきときである。選言判断の詳細な過程については推論について述べるときまで十分に扱うことはできない。しかし、ここで、基礎となることを部分的にではあるが準備しておこう。 第一に…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈35

今日は妹の眉かきに行 野水 漢の張敞の故事などを引いて解釈するのはここではあてはまらない。妹とあるので、夫婦閨房の痴態ではないことは論ずるまでもない。眉を描くのは、青い黛でその人の顔の輪郭に似合って美しく見えるように描くもので、眉の形にはい…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』5

第二章 幼児期の苦悩 生まれて六年目の年が終わろうとするころ、突然私の生の第一章は暴力的な終わりを迎えた。この章は回復された楽園の扉のなかにおいてさえ思い起こす価値がある。「人生が終わった」というのが私の心にあった密かな疑念だった。というのも…

ブラッドリー『論理学』71

§11.イェボン教授への敬意にもかかわらず、私は選言が排他的でないような例を認めることができない。告白するが、「そして」と「あるいは」の区別が崩壊してしまうようでは、私は人間の言語に絶望することになろう。より以上の証拠を調べてみても、それは…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈34

我が祈あけがたの星孕むべく 荷兮 前句をこのしろの供物をいただいて、天に子供を願うさまと見立て、よき一子を得たと喜ぶ様である、と古註では解釈してある。『鶯笠』は、神前に捧げて祈るのではなく、頭に戴き、潔斎断食して台上に立ちつくし、天に祈る様…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』4

私の父の蔵書には英語で書かれたもの以外の本がないだけでなく、ひげ文字文学に関するものもまったくなかった。実際、それを楽しむために勉強や労力を必要とするような種類のものはまったくなかったのである。この点について言えば、学者や研究者にとっては…

ブラッドリー『論理学』70

§9.手渡されたのは赤<ではなく>、白だった。白<あるいは>赤というものが与えられるわけではない。資格のための条件というのは(この例を考える限り)、まず「白」で、次に「白がなければ赤」「白なしの赤」である。<これらの>条件が両立可能であると…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈33

箕にこのしろの魚をいたゞき 杜國 鰶を昔から「このしろ」と読み、また鯯も古くから「鯯」と読んできた。本によっては鮗とあるものもあるが、鮗もまたこのしろであり誤りではない。『新撰字鏡』に見えるもので、難ずる者は却って間違っている。字彙字典に見…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』3

私の父の蔵書について記すにあたって、一言だけ付け加えたい。というのも彼のことを記すことは彼の階級を記すことだからである。蔵書は広範囲に渡るもので、英国とスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。一冊の本を歴史、伝記、航海記…

ブラッドリー『論理学』69

§7.この過程は更に考えることになるが、その前にある間違いを正しておこう。二者選択は常に排他的であるのかどうか疑われる向きがあるかもしれない。「Aはbあるいはcである」はAが両方である可能性を認めていると言われるかもしれない。それはbcある…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈32

牛のあと吊(とぶら)ふ草の夕ぐれに 芭蕉 古註に、これは『大和物語』の面影だと言っているのは良くない。『大和物語』に同じ女(南院の今君で、右京のかみむねゆきの女)巨城が牛を借りて、また後に借りにやったのに、奉った牛は死んでしまったといった。…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』2

とにかく、私の後の生活で主要なものとなった感情をみるなら、私は両親と彼らの性格の幾つかの点から大きな長所を受け継いでいる。二人とも異なった意味で高邁な道徳家だった。私の母はこの階級の人に比較して、高い育ちと上品な作法において独特の長所をも…

ブラッドリー『論理学』68

§5.この共通の基盤をxと呼ぶなら、「Aはxである」は定言的に真である。我々はある場合にはxを区別し、それに名前をつけるが、別の場合には名前のないまま暗黙の意味にしておく。「男性、女性、子供」は「人間」を共通の基盤としている。「白あるいは黒…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈31

巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮 巾は元の意味は小さいきれであり、ゆえに手を拭うものを手巾といい、すなわち手拭であり、食器を覆うものを巾羃といい、すなわちいまの俗語の布巾である。髪を隠すものも巾といい、すなわち頭巾であり、露を受けるもの、髪を覆…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』1

第一章 生まれと父の家 私の父は質素で気取りのない人間で、英国では大金と考えられている(或いは考えられていた)お金、つまり六千ポンドで生活を始めた。私はかつてリヴァプールの若い銀行家が、全く同じ六千ポンドを英国の標準的な生活にとって危険に満ち…

ブラッドリー『論理学』67

§3.選言判断の定言的性質にはある種の難点があることは確かである。「Aはbまたはcである」、こうした言い方は実在の事実についての答えではあり得ない。実在の事実には「~であるかあるいは」などはあり得ない。両者であるか一方であるか、その二つの間…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈30

日東の李白が坊に月を観て 重五 李白は酒客であり詩仙である。「李白一斗詩百篇」という詩句も名高いので、前句を酉水一斗盛り尽くすと取って、月を賞しつつ飲み明かすさまを付けたという古解には従いがたい。うがち過ぎの解釈というべきである。日東の李白…