トマス・ド・クインシー

トマス・ド・クインシー『スタイル』37

ある種の公表はアテネに存在していたに違いない、それは明らかである。文学が存在するという単なる<事実>がそのことを証明している。というのも、公的な共感がなければどうして文学が生じよう。あるいは、定期的な公表がなければどうして公的な共感があり…

トマス・ド・クインシー『スタイル』36

さて、我々の時代において珍しくもあり、哲学的にいってもまことに奇妙なのは、作家、読者、出版社といった文学に関心をもつ者たちの盲目さで、個々の作品にかかずらうことで出版に些末な細分化を加えている。本の増加そのものが対象を次第に壊していってい…

トマス・ド・クインシー『スタイル』35

結果的に言って、我々の原則に従えば、双方ともスタイルの開拓に好都合な状況に自らがあることを見いだしたに違いない。そして確かに彼らは開拓したのである。どちらの場合にも<芸術>として、実践として適切に追求された。学僧による荒削りで禁欲的な哲学…

トマス・ド・クインシー『スタイル』34

公的生活のよく知られた事例において、精神の主観的働きと客観的働きの相違を探るために逸脱をした。一方から他方へ突然に移ることは弁護士が議員のように振る舞う誤りである。一度でも事実や自らでたのではない証拠の覚え書きや適用に、歩行練習機を使う子…

トマス・ド・クインシー『スタイル』33

第一に、ペリクレスのギリシャに働いた影響をより生き生きと例示するために同じような原因が働き、似たような状況にある別の事例を持ち出した。1.知性が革命的な刺激のもとにあること。2.本が欠乏していること。3.女性的な愛がないために生じる冷え冷…

トマス・ド・クインシー『スタイル』32

まず、このことは不可能だと思われる。だが、現実には、より大きな関心事が学者たちには生じていた。より大きなというのは、より限定しがたいものだからであり、より限定しがたいというのはより精神的なことだからである。それはこういうことだった。西洋の…

トマス・ド・クインシー『スタイル』31

最初の二つの動因が変化を促すことによって知性を刺激する次第は十分に明らかである。もっとも、奴隷制度のため、商売に対する偏狭な蔑視のため異教ギリシャやローマがどれだけ怠惰にむしばまれていたから気づく者はほとんどいないだろう。だがこの点は棚上…

トマス・ド・クインシー『スタイル』30

さて、修辞という語の最後の区分、「実用的な技術としての修辞rhetorica utens──現在の用法ではもっぱらこの意味だけになってしまっているが──はアリストテレスの修辞学ではまったく扱われていないものである。道徳的説得、虚偽にもっともらしさを与え、疑わ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』29

第四部 「<これだけのことがあって、ではその実際の帰結はどうだったろうか。>」この言葉で前の部は終わった。ギリシャ知性のあらわれ、顕現は二つの異なった形で現われる。最初のものは紀元前四四四年ペリクレスの周囲に集まり、第二のものは紀元前三三三…

トマス・ド・クインシー『スタイル』28

そう、やはりギリシャ文学は我々が定めた点、アレキサンダーの時代に終わるのである。ギリシャの土壌、ギリシャの根から心を圧倒するような力、哲学大系、創造的エネルギーの範例となるようなものは再び現われることはなかった。想像力は死に絶え、火山は燃…

トマス・ド・クインシー『スタイル』27

さて、こうしてギリシャ文学全体を見渡せるような場所に辿り着いたわけだが、いくつかの説明が必要だろう。ホメロスは、ヘシオドスは、ピンダロスはどこに行ったのか、と読者は尋ねるに違いない。ホメロスとヘシオドスは紀元前一千年前、少なく見積もったと…

トマス・ド・クインシー『スタイル』26

もし亜鈴のことをご存じなら思い起こしていただきたいが──ご存じないなら我々がお知らせしよう──鉄や鉛でできた円筒状の両端に同じ金属の球がついており、通常は緑のベーズで覆われている。だがこの覆いは、不実にも、我々の信頼しがちな指を三度に一度は引…

トマス・ド・クインシー『スタイル』25

ペリクレスから<彼の>天体を構成する残りの者に目を向けると、そこには最高度に創造的で、まったく前代未聞のことを成し遂げ、それぞれに独特な文章を書いた者たちがいる。彼らには先行する範例はなく、彼ら自身がそれぞれ後の世代の範例となる運命をもっ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』24

かくして我々は目的に達する。この二人の中心人物ペリクレスとマケドニアのアレキサンダー(ユダヤ予言者の「力強い雄山羊」)を忘れたふりができる者はいない。二つの異なった、しかし隣り合う世紀のこの二つの<焦点>の周囲にギリシャ知性の綺羅星、銀河…

トマス・ド・クインシー『スタイル』23

さて、これらのことをギリシャ文学に当てはめてみると、この知的領域では二つの発達段階しかなかったと観察できる。多分、こうしたことに通じていない読者(通じていない読者と通じている読者を同等にもつことが影響力ある雑誌の誇りであり栄誉であろうから…

トマス・ド・クインシー『スタイル』22

しかしながら、そのままではなく余裕をもって受け取れば、パテルクスが最初に気づいた現象、人間の才能の輩出のされ方は彼が目撃した人間の歴史において十分に確立されていると我々は認めなければならない。というのも、政治的変化にキケロの死が重なり雄弁…

トマス・ド・クインシー『スタイル』21

かくも尊敬している我々であるが、彼の立場を見てみよう。さて、彼が我々の主題に関わっている言明(多くの独創的な言明があるなかで)に立ち戻ると、それは<彼の>経験からはまったく正しい言明であるが、我々の経験からは遠いと言わざるを得ない。彼が言…

トマス・ド・クインシー『スタイル』20

さて、スタイルについての訓練の機械的な体系が、これら間違った書道と同じような平準化する結果しかもたらさないなら、以前からの無知のままでいた方がずっといいことになろう。どうしようもない単調さに終わってしまうなら、昔の無頓着な簡潔さの方が歓迎…

トマス・ド・クインシー『スタイル』19

第三部 読者は疑い始めたに違いない。「どれだけ人を待たせておくのか」と。二十世紀の間のことを書くつもりであるのに、まだ六十年しか済んでいない。「<どちらに>我々は向かっているのだろうか。どの対象に向かっているのか」どちらがどの程度緊急な問題…

トマス・ド・クインシー『スタイル』18

だが、我々がソクラテス一派の書くものに見いだしてきた、そしてそれはソクラテスの殉死によって一層強められたのだが、会話様式はどう表現されているだろうか。どんな言語形式をとっているだろうか。どんな特徴があろうか。スタイル上の欠点はなんだろうか…

トマス・ド・クインシー『スタイル』17

プラトンとクセノフォンがその神学においても互いに憎み合っていたに違いないとすれば、それは、彼らがあからさまになったなら調和するところなどないということを明らかにする事例である。彼らは可能な限り異なった雰囲気を身にまとっている。あらゆる点に…

トマス・ド・クインシー『スタイル』16

<散文>は我々みなによく知られたものである。靴屋や洋服屋等々の「勘定書」は散文で書かれている。我々の悲しみや喜びの多くは散文で伝えられ、(ヴァレンタインデーでもなければ)韻文が使われることなど滅多にない。であるから、オリンピュアの揺りかご…

トマス・ド・クインシー『スタイル』15

こうした惨事は、可能性としては全文明を脅かすものであり、このあり得べき危険はギリシャをして、その唯一の敵であるペルシャの安定さえ関心事とさせたのであるが──ギリシャと最北、西東にある未知の敵との間にある最大の抵抗勢力であるから──それはギリシ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』14

それ故、散文を社会の初期状態において文が自然に取る形、あるいは可能な形と想像する者は間違っている。天空から降りてくる真理ではなく、地から湧き上がる真理だけが非韻律的な形式を可能にした。だが、社会の初期状態においては、人間の関心を引き、重要…

トマス・ド・クインシー『スタイル』13

しかし、こうした相違にもかかわらず、我々はみな、異教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も政治や個人的な策謀に欠くことのできないものとして演説は行われてきている。目的が法律制定に関することだろうと、法廷でのことだろうと、同郷人に市民としても…

トマス・ド・クインシー『スタイル』12

それ故、法の適用といったことの正確な説明にでさえその歴史に赴かねばならず、我々自身の社会的必要性からの単なる類推では充分でないとすれば、芸術や知的愉しみのあり方を説明するにはそれ以上のものが必要とされるだろう。なぜ古代には風景画はないのか…

トマス・ド・クインシー『スタイル』11

我々の論及がどうなったにしろ、スタイルが日常の実際的なものとして必然性が高まっていることを主張して結論にしたい。公的な関心が主題ならば、常にそれに見合った(文学が成長すれば)競合がなされるだろう。他のことが同じなら、あるいは同じに見えるな…

トマス・ド・クインシー『スタイル』10

スタイルについての議論で数多くある誤りのうちの一つは、良いものであれ悪いものであれ、スタイルが責を負うべき諸性質のリストがつくられるのだが、それはすべてを数え上げたと確信できるようなアプリオリに演繹される原理に基づくものではなく、試験的な…

トマス・ド・クインシー『スタイル』9

さて、我々はこうした重要な点をフランスとの比較で見てきたので、今度は同じ点をドイツと比較して完全なものにしてみよう。比較の目的ではなく、それ自体を見ても、ドイツの散文の性格というのは十分驚きに値する対象である。我々の散文のスタイルの理想か…

トマス・ド・クインシー『スタイル』8

かくして、フランス人作家には、どんなにその精神が異なっていようと、主題が異なっていようと、文の短さ、素早さ、そっけなさが見いだされる。パスカル、エルヴェシウス、コンディアック、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテール、ビュフォン、デュクロ、み…