翻訳

トマス・ド・クインシー『自叙伝』11

ここでしばらく私の精神に多大な影響を残した出来事の想起を中断して、『阿片吸引者』で言及したこと、つまり、他の条件はみな同じであるのに、なぜ死は、少なくとも風景や季節になにがしかの影響を受けるとすれば、一年の他の季節よりも夏にいっそう深く哀…

ブラッドリー『論理学』77

§9.推論の本性を論じるときに、我々は原理の意味をもっと十分見ることになろう。ここでの結論は、あらゆる判断は、それが真であるならば、出来事の流れによって変更されることのない究極的な実在のなんらかの性質を主張している、ということである。ここは…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』10

私の先達であり仲間を連れ去った病気について詳細に述べる必要はない。(私の記憶によれば)その時彼女は九歳に近く、私は六歳に近かった。多分年齢や判断力から来る権威が自然に彼女を上位者としていたのだが、それに彼女自身は認めようとしない優しい謙虚…

ブラッドリー『論理学』76

§7.我々は「私は歯が痛い」といった判断が、そうした感覚に訴える形式では本当には真でないことを見た。それらは定言的真理であることに失敗し、ほとんど仮言的真理にも達していない。それを真にするためには、現在の事例を越えるようなつながり、歯痛の諸…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』9

かくして、その時子供の心についた最初の傷は容易に癒えた。二度目はそうはいかなかった。親愛なる、気高いエリザベス、彼女の豊かな表情、魅力的な顔が闇の中から浮かび出るたびに私はあなたの早熟な知性のきらめきの証拠として光の冠や輝く光背(1)を思う…

ブラッドリー『論理学』75

§5.それが真であれ批判にさらされるものであれ、少なくとも推論の<必須条件>である最も重要な原理がある。それを同一性の原理と名づけるのが最良で、というのもその本質は差異のなかの同一性を強調することだからである。この原理とはどういうものか。そ…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』8

しかしながら、私はこのことを急速に知るに至った。私の二人の姉、その時生きていた三人のうちの年上の二人で私よりも年かさである姉たちが年若い死に見まわれたのである。最初に死んだのはジェーンで、私より二歳年上だった。彼女は三歳半、私は一歳半で、…

ブラッドリー『論理学』74

§3.同一性の公準は、同語反復の原理の意味にとると、明らかな誤りに過ぎない。問題は、こうした誤りのもとは論理学から完全に抹消してしまったほうがいいかどうかである。同一性の公準が差異の公準のように正当なものでないなら、それにどのような形を与え…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』7

我々、この家の子供たちは、実際、非常に幸福な、よい影響を全面に受けることのできる社会的立場にあった。エイガーの祈り「我に貧困も富裕も与え賜うな」は我々に実現していた。我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負…

ブラッドリー『論理学』73

第五章 同一性、矛盾、排中律、二重否定の原理 §1.否定的、選言的判断を論じたあとで、我々は同一性、矛盾、排中律のいわゆる「原理」と呼ばれているものを一緒に扱うことにする。加えて、二重否定についてもいくつか考察してみよう。 同一性の原理はしば…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』6

情熱的な記録に割り込む個人的な虚栄心はどんなものでも致命的な結果をもたらす。それは精神の一心不乱さや、ただ根深い情念だけがそこに発し快適な住みかを見出すことのできる自己忘却とは相容れないものなのである。それゆえ、そうした傾向が影をさすだけ…

ブラッドリー『論理学』72

§13.こうした間違いについてはこれで終り、問題そのものの議論に戻るべきときである。選言判断の詳細な過程については推論について述べるときまで十分に扱うことはできない。しかし、ここで、基礎となることを部分的にではあるが準備しておこう。 第一に…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』5

第二章 幼児期の苦悩 生まれて六年目の年が終わろうとするころ、突然私の生の第一章は暴力的な終わりを迎えた。この章は回復された楽園の扉のなかにおいてさえ思い起こす価値がある。「人生が終わった」というのが私の心にあった密かな疑念だった。というのも…

ブラッドリー『論理学』71

§11.イェボン教授への敬意にもかかわらず、私は選言が排他的でないような例を認めることができない。告白するが、「そして」と「あるいは」の区別が崩壊してしまうようでは、私は人間の言語に絶望することになろう。より以上の証拠を調べてみても、それは…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』4

私の父の蔵書には英語で書かれたもの以外の本がないだけでなく、ひげ文字文学に関するものもまったくなかった。実際、それを楽しむために勉強や労力を必要とするような種類のものはまったくなかったのである。この点について言えば、学者や研究者にとっては…

ブラッドリー『論理学』70

§9.手渡されたのは赤<ではなく>、白だった。白<あるいは>赤というものが与えられるわけではない。資格のための条件というのは(この例を考える限り)、まず「白」で、次に「白がなければ赤」「白なしの赤」である。<これらの>条件が両立可能であると…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』3

私の父の蔵書について記すにあたって、一言だけ付け加えたい。というのも彼のことを記すことは彼の階級を記すことだからである。蔵書は広範囲に渡るもので、英国とスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。一冊の本を歴史、伝記、航海記…

ブラッドリー『論理学』69

§7.この過程は更に考えることになるが、その前にある間違いを正しておこう。二者選択は常に排他的であるのかどうか疑われる向きがあるかもしれない。「Aはbあるいはcである」はAが両方である可能性を認めていると言われるかもしれない。それはbcある…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』2

とにかく、私の後の生活で主要なものとなった感情をみるなら、私は両親と彼らの性格の幾つかの点から大きな長所を受け継いでいる。二人とも異なった意味で高邁な道徳家だった。私の母はこの階級の人に比較して、高い育ちと上品な作法において独特の長所をも…

ブラッドリー『論理学』68

§5.この共通の基盤をxと呼ぶなら、「Aはxである」は定言的に真である。我々はある場合にはxを区別し、それに名前をつけるが、別の場合には名前のないまま暗黙の意味にしておく。「男性、女性、子供」は「人間」を共通の基盤としている。「白あるいは黒…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』1

第一章 生まれと父の家 私の父は質素で気取りのない人間で、英国では大金と考えられている(或いは考えられていた)お金、つまり六千ポンドで生活を始めた。私はかつてリヴァプールの若い銀行家が、全く同じ六千ポンドを英国の標準的な生活にとって危険に満ち…

ブラッドリー『論理学』67

§3.選言判断の定言的性質にはある種の難点があることは確かである。「Aはbまたはcである」、こうした言い方は実在の事実についての答えではあり得ない。実在の事実には「~であるかあるいは」などはあり得ない。両者であるか一方であるか、その二つの間…

トマス・ド・クインシー『スタイル』41

こうした追求は近いところでは、はかなさはあったが、デモステネスによってなされたが、偏見のない性質のものである。そして、彼はそれをその死において、生涯において、ミルトンの言葉を用いれば「不快な真理」を幾度となく発言することで示し、その高貴な…

ブラッドリー『論理学』66

第四章 選言的判断 §1.選言的判断は、ほとんどの論理学者によって、扱いにくい問題だともっともな不平をもたれている。しばしば仮言的判断の適用だととられ、その付属物の扱いを受けている。数多くの尊敬に値する考察が「もし」と「~かあるいは」の意味を…

トマス・ド・クインシー『スタイル』40

紀元前四四四年から三三三年までの奔流のようなアテネ文学の流れは真っ逆さまに、劇詩あるいは演壇における雄弁の方向に向かったのだろうか。アテネ市民にとって、民衆の賞賛や共感を得ようとするならどちらかの道しかなかった。芸術家や軍隊の指揮官になる…

ブラッドリー『論理学』65

§19.かくして、矛盾は「主観的な」過程であり、名もなく食い違った性質に依拠している。それは「客観的な」実在を主張することはできない。その基礎が限定されていないので、救いがたい曖昧さのなかにある。「AはBではない」というとき、なにを否定して…

トマス・ド・クインシー『スタイル』39

貧しいギリシャ人は夜なにか思いついたときに最良の覚え書き帳として白い漆喰塗りの壁を好都合なものとして使用した。真鍮あるいは大理石だけが考えを永続的に保存できるものだった。アテネの劇場で役者の台詞はなにに書かれたのか、テキストの入念な校訂は…

ブラッドリー『論理学』64

§17.否定や矛盾は、矛盾の肯定と同じではない。しかし、最終的にはそこに落ちついてしまう。矛盾するものは、いかに否定が主張しても、決して明らかにはならない。「AはBではない」で、食い違いは特定されないままである。矛盾の基礎となっているのは、…

トマス・ド・クインシー『スタイル』38

それはなにか。<劇場>と<アゴラ>あるいは<公共広場>である。舞台での公表と演壇での公表である。それらはアテネに起こった並はずれた公表様式だった。一方は、まさしくペリクレスの世代にミネルヴァのように突然に生まれた。他方は、ペリクレスより百…

ブラッドリー『論理学』63

§15.要約すると、論理的否定は常に矛盾するが、矛盾の存在を肯定しているわけでは決してない。「AはBではない」は、「AはBである」の否定、あるいは、「AはBである」は間違いであることを肯定しているかどちらかである。この帰結以上に進むことはで…