翻訳

トマス・ド・クインシー『スタイル』37

ある種の公表はアテネに存在していたに違いない、それは明らかである。文学が存在するという単なる<事実>がそのことを証明している。というのも、公的な共感がなければどうして文学が生じよう。あるいは、定期的な公表がなければどうして公的な共感があり…

ブラッドリー『論理学』62

§13.論理的否定は、論理的肯定ほど直接に事実に関係することはできない。そうした厳密な性格をもつゆえに、それを「主観的」と言うことができる。それは私の思考の外では効力がない。実在は呈示される変更などは受けつけない。この呈示は事実の運動ではな…

トマス・ド・クインシー『スタイル』36

さて、我々の時代において珍しくもあり、哲学的にいってもまことに奇妙なのは、作家、読者、出版社といった文学に関心をもつ者たちの盲目さで、個々の作品にかかずらうことで出版に些末な細分化を加えている。本の増加そのものが対象を次第に壊していってい…

ブラッドリー『論理学』61

§11.この種の判断において、否定の基礎となっているのは、主語の概念内容でも、概念内容に<加えるに>単純な不在でもない。本当の主語は概念の内容と<それに加えて私の>心の心理学的状態である。表向きは性質づけられていない普遍的抽象は、諸性質に対…

トマス・ド・クインシー『スタイル』35

結果的に言って、我々の原則に従えば、双方ともスタイルの開拓に好都合な状況に自らがあることを見いだしたに違いない。そして確かに彼らは開拓したのである。どちらの場合にも<芸術>として、実践として適切に追求された。学僧による荒削りで禁欲的な哲学…

ブラッドリー『論理学』60

§9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には<我々の>間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反…

トマス・ド・クインシー『スタイル』34

公的生活のよく知られた事例において、精神の主観的働きと客観的働きの相違を探るために逸脱をした。一方から他方へ突然に移ることは弁護士が議員のように振る舞う誤りである。一度でも事実や自らでたのではない証拠の覚え書きや適用に、歩行練習機を使う子…

ブラッドリー『論理学』59

§7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればそ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』33

第一に、ペリクレスのギリシャに働いた影響をより生き生きと例示するために同じような原因が働き、似たような状況にある別の事例を持ち出した。1.知性が革命的な刺激のもとにあること。2.本が欠乏していること。3.女性的な愛がないために生じる冷え冷…

ブラッドリー『論理学』58

§5.このことからそれに対応した間違いに移ることができる。肯定判断が否定において前提とされているというのが間違いなら、述語だけが影響を受けるのだから、否定そのものは一種の肯定であるとするのも同じように間違いであろう。後でこの教義にある真理を…

トマス・ド・クインシー『スタイル』32

まず、このことは不可能だと思われる。だが、現実には、より大きな関心事が学者たちには生じていた。より大きなというのは、より限定しがたいものだからであり、より限定しがたいというのはより精神的なことだからである。それはこういうことだった。西洋の…

ブラッドリー『論理学』57

§3.それぞれの判断の根源に帰り、その初期の発達を考えてみれば、両者の違いは明らかになる。肯定の初歩的な基礎となるのは観念と知覚との合体である。しかし、否定は単に観念と知覚との非合体というのではない。単に実在を指し示すことのない観念や観察さ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』31

最初の二つの動因が変化を促すことによって知性を刺激する次第は十分に明らかである。もっとも、奴隷制度のため、商売に対する偏狭な蔑視のため異教ギリシャやローマがどれだけ怠惰にむしばまれていたから気づく者はほとんどいないだろう。だがこの点は棚上…

ブラッドリー『論理学』56

第三章 否定判断 §1.前章の長い議論の後なので、我々になじみのある一般的性格をもつ判断のなかで手早く扱うことのできるものを取り上げよう。他の様々な判断と同様に、否定判断は知覚にあらわれる実在に依存している。結局、それはある観念内容を受け入れ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』30

さて、修辞という語の最後の区分、「実用的な技術としての修辞rhetorica utens──現在の用法ではもっぱらこの意味だけになってしまっているが──はアリストテレスの修辞学ではまったく扱われていないものである。道徳的説得、虚偽にもっともらしさを与え、疑わ…

ブラッドリー『論理学』55

§80.しかし、我々がより低次の見方にとどまるなら、判断の真理を精査することに同意しないなら、個的な事実に関する主張をそのまま受け入れるつもりなら、その場合我々の結論は違ってくるだろう。抽象的判断はすべて仮言的となるだろうが、知覚に与えられ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』29

第四部 「<これだけのことがあって、ではその実際の帰結はどうだったろうか。>」この言葉で前の部は終わった。ギリシャ知性のあらわれ、顕現は二つの異なった形で現われる。最初のものは紀元前四四四年ペリクレスの周囲に集まり、第二のものは紀元前三三三…

ブラッドリー『論理学』54

§78.科学の実践は我々の長きにわたる分析がもたらした結果を認めている。科学で一度真であったものは永久に真である。科学の対象は瞬間瞬間の知覚が我々にもたらす複雑な感覚される現象を記録することにはない。これやあの要素が与えられたときにはなにか…

トマス・ド・クインシー『スタイル』28

そう、やはりギリシャ文学は我々が定めた点、アレキサンダーの時代に終わるのである。ギリシャの土壌、ギリシャの根から心を圧倒するような力、哲学大系、創造的エネルギーの範例となるようなものは再び現われることはなかった。想像力は死に絶え、火山は燃…

ブラッドリー『論理学』53

§76.単称判断の唯一の希望は完全な断念にある。仮言的であっても、抽象的判断は自身よりも真であることを認めねばならない。判断のクラスの最も低い位置で満足しなければならない。その要素で実在を性質づけることをやめ、一般的な形容のつながりを認める…

トマス・ド・クインシー『スタイル』27

さて、こうしてギリシャ文学全体を見渡せるような場所に辿り着いたわけだが、いくつかの説明が必要だろう。ホメロスは、ヘシオドスは、ピンダロスはどこに行ったのか、と読者は尋ねるに違いない。ホメロスとヘシオドスは紀元前一千年前、少なく見積もったと…

ブラッドリー『論理学』52

§74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一…

トマス・ド・クインシー『スタイル』26

もし亜鈴のことをご存じなら思い起こしていただきたいが──ご存じないなら我々がお知らせしよう──鉄や鉛でできた円筒状の両端に同じ金属の球がついており、通常は緑のベーズで覆われている。だがこの覆いは、不実にも、我々の信頼しがちな指を三度に一度は引…

ブラッドリー『論理学』51

§72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あま…

トマス・ド・クインシー『スタイル』25

ペリクレスから<彼の>天体を構成する残りの者に目を向けると、そこには最高度に創造的で、まったく前代未聞のことを成し遂げ、それぞれに独特な文章を書いた者たちがいる。彼らには先行する範例はなく、彼ら自身がそれぞれ後の世代の範例となる運命をもっ…

ブラッドリー『論理学』50

§70.現前の知覚に与えられるものの一部分を実在だとすることはできないことをみてきた。更に進まねばならない。現前する内容すべてを性質づけることができたとしても、過去と未来をそこに組み込めないなら、それは再び失敗であろう。現在が過去とは独立に…

トマス・ド・クインシー『スタイル』24

かくして我々は目的に達する。この二人の中心人物ペリクレスとマケドニアのアレキサンダー(ユダヤ予言者の「力強い雄山羊」)を忘れたふりができる者はいない。二つの異なった、しかし隣り合う世紀のこの二つの<焦点>の周囲にギリシャ知性の綺羅星、銀河…

ブラッドリー『論理学』49

§68.分析判断は<それ自体で>真なのではない。それは独立して存在することはできない。個別の現存を主張することには常にそれ以上の、主張されている断片からはこぼれ落ちる内容が仮定されていなければならない。主張されていることは、他のものがあって…

トマス・ド・クインシー『スタイル』23

さて、これらのことをギリシャ文学に当てはめてみると、この知的領域では二つの発達段階しかなかったと観察できる。多分、こうしたことに通じていない読者(通じていない読者と通じている読者を同等にもつことが影響力ある雑誌の誇りであり栄誉であろうから…

ブラッドリー『論理学』48

§66.そして、もう一つの例が、科学によって純化された精神がいかに正統的なキリスト教と合致しているか示すことになるのをご容赦願いたい。宗教的な意識では、神と人間はつながりをもった要素である。しかし、経験をふり返ってみれば、我々は区別をし、上…