翻訳

トマス・ド・クインシー『スタイル』22

しかしながら、そのままではなく余裕をもって受け取れば、パテルクスが最初に気づいた現象、人間の才能の輩出のされ方は彼が目撃した人間の歴史において十分に確立されていると我々は認めなければならない。というのも、政治的変化にキケロの死が重なり雄弁…

ブラッドリー『論理学』47

§64.ごく一般的で、破滅的とも言える迷信は、分析は対象になんの変化ももたらさず、識別がなされるときには、分割可能な存在が扱われているのだと仮定することにある。ある事実の全体があるとき、そのある部分が残りとは関わりなく存在できると結論するの…

トマス・ド・クインシー『スタイル』21

かくも尊敬している我々であるが、彼の立場を見てみよう。さて、彼が我々の主題に関わっている言明(多くの独創的な言明があるなかで)に立ち戻ると、それは<彼の>経験からはまったく正しい言明であるが、我々の経験からは遠いと言わざるを得ない。彼が言…

ブラッドリー『論理学』46

§62.我々に与えられる事実は感覚にあらわれる複雑な性質と関係の全体である。しかし、我々がこの所与の事実について主張し、主張できるのは、観念内容でしかない。我々が用いる観念が目の前にある個物のすべてを汲みつくすことができないのは明らかである…

トマス・ド・クインシー『スタイル』20

さて、スタイルについての訓練の機械的な体系が、これら間違った書道と同じような平準化する結果しかもたらさないなら、以前からの無知のままでいた方がずっといいことになろう。どうしようもない単調さに終わってしまうなら、昔の無頓着な簡潔さの方が歓迎…

ブラッドリー『論理学』45

§60.総合判断については時間を費やす必要はない。現実の知覚によって与えられるものを超越する際には、疑いなく推論を使っている。形容の総合は、内容のある点での同一性によって現前と結びついている。この総合は単なる普遍であり、それゆえ仮言的である…

トマス・ド・クインシー『スタイル』19

第三部 読者は疑い始めたに違いない。「どれだけ人を待たせておくのか」と。二十世紀の間のことを書くつもりであるのに、まだ六十年しか済んでいない。「<どちらに>我々は向かっているのだろうか。どの対象に向かっているのか」どちらがどの程度緊急な問題…

ブラッドリー『論理学』44

§58.このことから、我々はある推測を引き出せる。もし単称判断がより事実に近く、それを去ることで、実際に実在から遠ざかっているにしても、少なくとも、科学ではそうしたことは感じられない。我々を力づけてくれるもう一つの推測がある。通常の生活にお…

トマス・ド・クインシー『スタイル』18

だが、我々がソクラテス一派の書くものに見いだしてきた、そしてそれはソクラテスの殉死によって一層強められたのだが、会話様式はどう表現されているだろうか。どんな言語形式をとっているだろうか。どんな特徴があろうか。スタイル上の欠点はなんだろうか…

ブラッドリー『論理学』43

§56.かくして、抽象的判断はすべて仮言的であることがわかったが、それとの関連において、仮定とはなにかを示し、あらゆる仮言的判断にある実在についての隠された主張をあらわなものとするよう努めてみよう。既に議論した単称判断は、分析的なものだろう…

トマス・ド・クインシー『スタイル』17

プラトンとクセノフォンがその神学においても互いに憎み合っていたに違いないとすれば、それは、彼らがあからさまになったなら調和するところなどないということを明らかにする事例である。彼らは可能な限り異なった雰囲気を身にまとっている。あらゆる点に…

ブラッドリー『論理学』42

§54.我々が注意深く実在との接点に留意しているのは、すべての主張で曖昧であるわけではないし、疑わしいとも言えないことだろう。「彼が殺人を犯したのなら、絞首刑になるだろう」というのは、恐らく殺人と絞首刑との<一般的な>関連以外のことを主張し…

トマス・ド・クインシー『スタイル』16

<散文>は我々みなによく知られたものである。靴屋や洋服屋等々の「勘定書」は散文で書かれている。我々の悲しみや喜びの多くは散文で伝えられ、(ヴァレンタインデーでもなければ)韻文が使われることなど滅多にない。であるから、オリンピュアの揺りかご…

ブラッドリー『論理学』41

§52.この実在の性質は判断においては明らかにされておらず、仮言判断では隠された潜在的なものである。結果からそこに存在することを知るが、それがなんであるかを言うことはできない。更なる探求を経なければ、要素もその間の関係も非常に異なった別の判…

トマス・ド・クインシー『スタイル』15

こうした惨事は、可能性としては全文明を脅かすものであり、このあり得べき危険はギリシャをして、その唯一の敵であるペルシャの安定さえ関心事とさせたのであるが──ギリシャと最北、西東にある未知の敵との間にある最大の抵抗勢力であるから──それはギリシ…

ブラッドリー『論理学』40

§50.私がある男の所に行き、そのふるまいについて質問すると、彼は「私は別のやり方ではなく、このようにするべきなのだ」と答えたとすると、私は彼から事実についていくつかの知識を得たことになる。しかしその事実とは創案された立場でも、仮定された行…

トマス・ド・クインシー『スタイル』14

それ故、散文を社会の初期状態において文が自然に取る形、あるいは可能な形と想像する者は間違っている。天空から降りてくる真理ではなく、地から湧き上がる真理だけが非韻律的な形式を可能にした。だが、社会の初期状態においては、人間の関心を引き、重要…

ブラッドリー『論理学』39

§48.普遍的判断はすべて仮言的である、という結論は我々を再び以前からの難点に陥らせる(§6)。判断は常に真を意図するもので、真理は事実についての真を意味しなければならなかった。しかし、ここで我々が出会うのは事実に関するものとは思えない判断…

トマス・ド・クインシー『スタイル』13

しかし、こうした相違にもかかわらず、我々はみな、異教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も政治や個人的な策謀に欠くことのできないものとして演説は行われてきている。目的が法律制定に関することだろうと、法廷でのことだろうと、同郷人に市民としても…

ブラッドリー『論理学』38

§46.ここで反対意見のために立ち止まらねばならない。「定言的と仮言的との区別は」と我々は言われる、「実際には錯覚である。仮言的判断はすべて定言的なものに還元できるし、結局のところ定言の一種に過ぎ<ない>」のだと。もしそれがしっかりと確かめ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』12

それ故、法の適用といったことの正確な説明にでさえその歴史に赴かねばならず、我々自身の社会的必要性からの単なる類推では充分でないとすれば、芸術や知的愉しみのあり方を説明するにはそれ以上のものが必要とされるだろう。なぜ古代には風景画はないのか…

ブラッドリー『論理学』37

§44.我々は普遍的判断の共通の型に達した。我々がすぐに気づく点は、そうした判断はすべて形容詞に関わるということである。それは内容の諸要素間のつながりを主張し、出来事の系列のなかでそれらの要素が占める位置についてはなにも言わない。「正三角形…

トマス・ド・クインシー『スタイル』11

我々の論及がどうなったにしろ、スタイルが日常の実際的なものとして必然性が高まっていることを主張して結論にしたい。公的な関心が主題ならば、常にそれに見合った(文学が成長すれば)競合がなされるだろう。他のことが同じなら、あるいは同じに見えるな…

ブラッドリー『論理学』36

§42.我々は単称判断の三つのクラスを考慮し、それがどのようにしてあらわれてくる実在に観念を当てるのかを見てきた。我々は既に存在判断を先取りしてしまったので、それについては手早く扱うことができる。ここでは肯定判断に限ることにすると、すぐに言…

トマス・ド・クインシー『スタイル』10

スタイルについての議論で数多くある誤りのうちの一つは、良いものであれ悪いものであれ、スタイルが責を負うべき諸性質のリストがつくられるのだが、それはすべてを数え上げたと確信できるようなアプリオリに演繹される原理に基づくものではなく、試験的な…

ブラッドリー『論理学』35

§40.多くの難点に出会い、そのうちのいくつかは解決できたと私は信じているが、単称判断の第二の区分についての考察を終わることになる。第三の、時間における出来事の数に限定されない判断に移らねばならない(§7)。しかし、先に進む前に、しばらく時…

トマス・ド・クインシー『スタイル』9

さて、我々はこうした重要な点をフランスとの比較で見てきたので、今度は同じ点をドイツと比較して完全なものにしてみよう。比較の目的ではなく、それ自体を見ても、ドイツの散文の性格というのは十分驚きに値する対象である。我々の散文のスタイルの理想か…

ブラッドリー『論理学』34

§38.ここで我々は多分、個的な(あるいは個別のと言ったほうがいいかもしれない)事実の観念と言うときなにを意味しているのかについて言うことができる。それを決して単一の出来事に限定されない人間の名前に見つけようとしても無駄であった。個別性とい…

トマス・ド・クインシー『スタイル』8

かくして、フランス人作家には、どんなにその精神が異なっていようと、主題が異なっていようと、文の短さ、素早さ、そっけなさが見いだされる。パスカル、エルヴェシウス、コンディアック、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテール、ビュフォン、デュクロ、み…

ブラッドリー『論理学』33

§36.過去の記憶、未来の予測は、明らかに単なる想像とは区別される。前者においては、知覚にあらわれた実在への指示がある。事実への関係を含むがゆえに真であるか偽であるかの判断をもつ。しかし、想像はこの指示を欠いている。前に見たように(第一章§…