ブラッドリー『論理学』74

§3.同一性の公準は、同語反復の原理の意味にとると、明らかな誤りに過ぎない。問題は、こうした誤りのもとは論理学から完全に抹消してしまったほうがいいかどうかである。同一性の公準が差異の公準のように正当なものでないなら、それにどのような形を与え…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈37

廊下は藤のかげつたふなり 重五 一句は穏当で難なく、藤の花の美しく、春の日が柔らかに射したる廊下の様がめでたくのどかで、うるさく解するまでもない。これで一巻が終わるが、最終の句を揚句という。揚句の様は、必ずしも拘泥する必要もなく、稀には陰惨…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』7

我々、この家の子供たちは、実際、非常に幸福な、よい影響を全面に受けることのできる社会的立場にあった。エイガーの祈り「我に貧困も富裕も与え賜うな」は我々に実現していた。我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負…

ブラッドリー『論理学』73

第五章 同一性、矛盾、排中律、二重否定の原理 §1.否定的、選言的判断を論じたあとで、我々は同一性、矛盾、排中律のいわゆる「原理」と呼ばれているものを一緒に扱うことにする。加えて、二重否定についてもいくつか考察してみよう。 同一性の原理はしば…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈36

綾一重居湯に志賀の花漉きて 杜國 旧解が多々あって、その是非を急には定めがたい。ある本には、志賀の山水を家風呂に汲みいれて、浮いた落下を綾ですくい取る様子だとある。家風呂を居湯といった例があるか、まずそれが疑わしく従いがたい。ある本には、居…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』6

情熱的な記録に割り込む個人的な虚栄心はどんなものでも致命的な結果をもたらす。それは精神の一心不乱さや、ただ根深い情念だけがそこに発し快適な住みかを見出すことのできる自己忘却とは相容れないものなのである。それゆえ、そうした傾向が影をさすだけ…

ブラッドリー『論理学』72

§13.こうした間違いについてはこれで終り、問題そのものの議論に戻るべきときである。選言判断の詳細な過程については推論について述べるときまで十分に扱うことはできない。しかし、ここで、基礎となることを部分的にではあるが準備しておこう。 第一に…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈35

今日は妹の眉かきに行 野水 漢の張敞の故事などを引いて解釈するのはここではあてはまらない。妹とあるので、夫婦閨房の痴態ではないことは論ずるまでもない。眉を描くのは、青い黛でその人の顔の輪郭に似合って美しく見えるように描くもので、眉の形にはい…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』5

第二章 幼児期の苦悩 生まれて六年目の年が終わろうとするころ、突然私の生の第一章は暴力的な終わりを迎えた。この章は回復された楽園の扉のなかにおいてさえ思い起こす価値がある。「人生が終わった」というのが私の心にあった密かな疑念だった。というのも…

ブラッドリー『論理学』71

§11.イェボン教授への敬意にもかかわらず、私は選言が排他的でないような例を認めることができない。告白するが、「そして」と「あるいは」の区別が崩壊してしまうようでは、私は人間の言語に絶望することになろう。より以上の証拠を調べてみても、それは…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈34

我が祈あけがたの星孕むべく 荷兮 前句をこのしろの供物をいただいて、天に子供を願うさまと見立て、よき一子を得たと喜ぶ様である、と古註では解釈してある。『鶯笠』は、神前に捧げて祈るのではなく、頭に戴き、潔斎断食して台上に立ちつくし、天に祈る様…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』4

私の父の蔵書には英語で書かれたもの以外の本がないだけでなく、ひげ文字文学に関するものもまったくなかった。実際、それを楽しむために勉強や労力を必要とするような種類のものはまったくなかったのである。この点について言えば、学者や研究者にとっては…

ブラッドリー『論理学』70

§9.手渡されたのは赤<ではなく>、白だった。白<あるいは>赤というものが与えられるわけではない。資格のための条件というのは(この例を考える限り)、まず「白」で、次に「白がなければ赤」「白なしの赤」である。<これらの>条件が両立可能であると…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈33

箕にこのしろの魚をいたゞき 杜國 鰶を昔から「このしろ」と読み、また鯯も古くから「鯯」と読んできた。本によっては鮗とあるものもあるが、鮗もまたこのしろであり誤りではない。『新撰字鏡』に見えるもので、難ずる者は却って間違っている。字彙字典に見…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』3

私の父の蔵書について記すにあたって、一言だけ付け加えたい。というのも彼のことを記すことは彼の階級を記すことだからである。蔵書は広範囲に渡るもので、英国とスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。一冊の本を歴史、伝記、航海記…

ブラッドリー『論理学』69

§7.この過程は更に考えることになるが、その前にある間違いを正しておこう。二者選択は常に排他的であるのかどうか疑われる向きがあるかもしれない。「Aはbあるいはcである」はAが両方である可能性を認めていると言われるかもしれない。それはbcある…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈32

牛のあと吊(とぶら)ふ草の夕ぐれに 芭蕉 古註に、これは『大和物語』の面影だと言っているのは良くない。『大和物語』に同じ女(南院の今君で、右京のかみむねゆきの女)巨城が牛を借りて、また後に借りにやったのに、奉った牛は死んでしまったといった。…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』2

とにかく、私の後の生活で主要なものとなった感情をみるなら、私は両親と彼らの性格の幾つかの点から大きな長所を受け継いでいる。二人とも異なった意味で高邁な道徳家だった。私の母はこの階級の人に比較して、高い育ちと上品な作法において独特の長所をも…

ブラッドリー『論理学』68

§5.この共通の基盤をxと呼ぶなら、「Aはxである」は定言的に真である。我々はある場合にはxを区別し、それに名前をつけるが、別の場合には名前のないまま暗黙の意味にしておく。「男性、女性、子供」は「人間」を共通の基盤としている。「白あるいは黒…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈31

巾に木槿をはさむ琵琶打 荷兮 巾は元の意味は小さいきれであり、ゆえに手を拭うものを手巾といい、すなわち手拭であり、食器を覆うものを巾羃といい、すなわちいまの俗語の布巾である。髪を隠すものも巾といい、すなわち頭巾であり、露を受けるもの、髪を覆…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』1

第一章 生まれと父の家 私の父は質素で気取りのない人間で、英国では大金と考えられている(或いは考えられていた)お金、つまり六千ポンドで生活を始めた。私はかつてリヴァプールの若い銀行家が、全く同じ六千ポンドを英国の標準的な生活にとって危険に満ち…

ブラッドリー『論理学』67

§3.選言判断の定言的性質にはある種の難点があることは確かである。「Aはbまたはcである」、こうした言い方は実在の事実についての答えではあり得ない。実在の事実には「~であるかあるいは」などはあり得ない。両者であるか一方であるか、その二つの間…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈30

日東の李白が坊に月を観て 重五 李白は酒客であり詩仙である。「李白一斗詩百篇」という詩句も名高いので、前句を酉水一斗盛り尽くすと取って、月を賞しつつ飲み明かすさまを付けたという古解には従いがたい。うがち過ぎの解釈というべきである。日東の李白…

トマス・ド・クインシー『スタイル』41

こうした追求は近いところでは、はかなさはあったが、デモステネスによってなされたが、偏見のない性質のものである。そして、彼はそれをその死において、生涯において、ミルトンの言葉を用いれば「不快な真理」を幾度となく発言することで示し、その高貴な…

ブラッドリー『論理学』66

第四章 選言的判断 §1.選言的判断は、ほとんどの論理学者によって、扱いにくい問題だともっともな不平をもたれている。しばしば仮言的判断の適用だととられ、その付属物の扱いを受けている。数多くの尊敬に値する考察が「もし」と「~かあるいは」の意味を…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈29

秋水一斗漏れ盡す夜ぞ 芭蕉 秋水という語の用例によれば、秋のときに出る水をいう。『荘子』秋水篇の秋水のようなものである。秋水揚波、秋水帆漲、みな同じことである。また秋は水の清むものなので、透徹した水も秋水という。劉禹錫の詩の句に、「秋水清く…

トマス・ド・クインシー『スタイル』40

紀元前四四四年から三三三年までの奔流のようなアテネ文学の流れは真っ逆さまに、劇詩あるいは演壇における雄弁の方向に向かったのだろうか。アテネ市民にとって、民衆の賞賛や共感を得ようとするならどちらかの道しかなかった。芸術家や軍隊の指揮官になる…

ブラッドリー『論理学』65

§19.かくして、矛盾は「主観的な」過程であり、名もなく食い違った性質に依拠している。それは「客観的な」実在を主張することはできない。その基礎が限定されていないので、救いがたい曖昧さのなかにある。「AはBではない」というとき、なにを否定して…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈28

あはれさの謎にも解し(とけし)時鳥 野水 解しは解けしか解きしかはっきりしないし、句意もいささか朦朧としている。強いて解すれば、この句こそ場外夷にある者のことをいうもので、時鳥を聞くものには別離の悲しみがあると『西陽雑俎』、『華陽風俗記』な…

トマス・ド・クインシー『スタイル』39

貧しいギリシャ人は夜なにか思いついたときに最良の覚え書き帳として白い漆喰塗りの壁を好都合なものとして使用した。真鍮あるいは大理石だけが考えを永続的に保存できるものだった。アテネの劇場で役者の台詞はなにに書かれたのか、テキストの入念な校訂は…