ブラッドリー『論理学』64

§17.否定や矛盾は、矛盾の肯定と同じではない。しかし、最終的にはそこに落ちついてしまう。矛盾するものは、いかに否定が主張しても、決して明らかにはならない。「AはBではない」で、食い違いは特定されないままである。矛盾の基礎となっているのは、…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈27

烏賊は夷の國の占形 重五 秦王が東方へ旅行したとき、数を数える竹を入れる袋を海に落とし、それが化して魚となる、ゆえに烏賊はその形がその袋のようだということを『西陽雑俎』から引きだして、古解は事々しく解釈したが、ここでは関係がない。曲齋は、白…

トマス・ド・クインシー『スタイル』38

それはなにか。<劇場>と<アゴラ>あるいは<公共広場>である。舞台での公表と演壇での公表である。それらはアテネに起こった並はずれた公表様式だった。一方は、まさしくペリクレスの世代にミネルヴァのように突然に生まれた。他方は、ペリクレスより百…

ブラッドリー『論理学』63

§15.要約すると、論理的否定は常に矛盾するが、矛盾の存在を肯定しているわけでは決してない。「AはBではない」は、「AはBである」の否定、あるいは、「AはBである」は間違いであることを肯定しているかどちらかである。この帰結以上に進むことはで…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈26

しら/\と砕けし人の骨か何 杜國 しら/\は白々である。骨か何かがあると疑って、前句の冬枯れ分けてひとり唐苣の立ったあたりに、何かわからぬが白いものが砕け散っているのを遠くから眺めただけで、別に深い意味があるわけではない。砕けた貝殻、細かな…

トマス・ド・クインシー『スタイル』37

ある種の公表はアテネに存在していたに違いない、それは明らかである。文学が存在するという単なる<事実>がそのことを証明している。というのも、公的な共感がなければどうして文学が生じよう。あるいは、定期的な公表がなければどうして公的な共感があり…

ブラッドリー『論理学』62

§13.論理的否定は、論理的肯定ほど直接に事実に関係することはできない。そうした厳密な性格をもつゆえに、それを「主観的」と言うことができる。それは私の思考の外では効力がない。実在は呈示される変更などは受けつけない。この呈示は事実の運動ではな…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈25

冬枯わけてひとり唐苣 野水 冬枯れは冬になって野のもの田のものが枯れたことをいう。唐苣は、生で食べることも煮て食べることもあるが、葉をとるとすぐにまた生えてきて、四季いつでも新鮮なものを得られるので、不断草という俗称がある。一句の意味は冬枯…

トマス・ド・クインシー『スタイル』36

さて、我々の時代において珍しくもあり、哲学的にいってもまことに奇妙なのは、作家、読者、出版社といった文学に関心をもつ者たちの盲目さで、個々の作品にかかずらうことで出版に些末な細分化を加えている。本の増加そのものが対象を次第に壊していってい…

ブラッドリー『論理学』61

§11.この種の判断において、否定の基礎となっているのは、主語の概念内容でも、概念内容に<加えるに>単純な不在でもない。本当の主語は概念の内容と<それに加えて私の>心の心理学的状態である。表向きは性質づけられていない普遍的抽象は、諸性質に対…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈24

笠脱いで無理にも濡るゝ北時雨 荷兮 前句で清水を訪ねた人の風狂の様子をあらわしている。宗祇の句に「世にふるもさらに時雨のやどり哉」というのがある。「無理にも」は「濡れでも」でも済む。騒がしい客に雅に対応することから、遺跡に古句のい香りを味わ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』35

結果的に言って、我々の原則に従えば、双方ともスタイルの開拓に好都合な状況に自らがあることを見いだしたに違いない。そして確かに彼らは開拓したのである。どちらの場合にも<芸術>として、実践として適切に追求された。学僧による荒削りで禁欲的な哲学…

ブラッドリー『論理学』60

§9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には<我々の>間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈23

しばし宗祇の名をつけし水 杜國 美濃国郡上郡山田庄宮瀬川のほとりに泉があり、東野州常縁、宗祇法師に古今集の伝授を受け終わってここまで来て、和歌を詠じて別れたというところから、宗祇の清水の名がある。また白雲水ともいい、それは宗祇が白雲齋と号し…

トマス・ド・クインシー『スタイル』34

公的生活のよく知られた事例において、精神の主観的働きと客観的働きの相違を探るために逸脱をした。一方から他方へ突然に移ることは弁護士が議員のように振る舞う誤りである。一度でも事実や自らでたのではない証拠の覚え書きや適用に、歩行練習機を使う子…

ブラッドリー『論理学』59

§7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればそ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈22

ぬす人のかたみの松は吹折て 芭蕉 賊去って弓を張る、とは禅での決まり文句である。曲齋は、恨みのある賊を尋ねていったが、賊は既に去り、その住いのあたりの松でさえ風によって吹き折れており、いまは恨みのもっていきようがないので、せめてそばの松へと…

トマス・ド・クインシー『スタイル』33

第一に、ペリクレスのギリシャに働いた影響をより生き生きと例示するために同じような原因が働き、似たような状況にある別の事例を持ち出した。1.知性が革命的な刺激のもとにあること。2.本が欠乏していること。3.女性的な愛がないために生じる冷え冷…

ブラッドリー『論理学』58

§5.このことからそれに対応した間違いに移ることができる。肯定判断が否定において前提とされているというのが間違いなら、述語だけが影響を受けるのだから、否定そのものは一種の肯定であるとするのも同じように間違いであろう。後でこの教義にある真理を…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈21

今ぞ恨みの矢をはなつ聲 荷兮 矢をはなつ声は矢声というものである。引き絞って放つとき、わが国では「や」や「えいッ」といい、中国では「著」といって、力を込めあたることを期する、これを矢声という。「や」という名称もこの声からでたのだろうと古人も…

トマス・ド・クインシー『スタイル』32

まず、このことは不可能だと思われる。だが、現実には、より大きな関心事が学者たちには生じていた。より大きなというのは、より限定しがたいものだからであり、より限定しがたいというのはより精神的なことだからである。それはこういうことだった。西洋の…

ブラッドリー『論理学』57

§3.それぞれの判断の根源に帰り、その初期の発達を考えてみれば、両者の違いは明らかになる。肯定の初歩的な基礎となるのは観念と知覚との合体である。しかし、否定は単に観念と知覚との非合体というのではない。単に実在を指し示すことのない観念や観察さ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈20

のりものに簾透く顔おぼろなる 重五 一句の情は解釈をまつまでもなく明らかである。簾は乗り物の簾である。前句は野草に蝶が遊ぶことが人を愁いに誘ったが、この句は他から見るその人のありさまをあらわしているだけだが、言葉のあり方、切り取り方に佳趣が…

トマス・ド・クインシー『スタイル』31

最初の二つの動因が変化を促すことによって知性を刺激する次第は十分に明らかである。もっとも、奴隷制度のため、商売に対する偏狭な蔑視のため異教ギリシャやローマがどれだけ怠惰にむしばまれていたから気づく者はほとんどいないだろう。だがこの点は棚上…

ブラッドリー『論理学』56

第三章 否定判断 §1.前章の長い議論の後なので、我々になじみのある一般的性格をもつ判断のなかで手早く扱うことのできるものを取り上げよう。他の様々な判断と同様に、否定判断は知覚にあらわれる実在に依存している。結局、それはある観念内容を受け入れ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈19

蝶は葎(むぐら)にとはかり涕かむ 芭蕉 『源氏物語』の末摘花の君が、世に見捨てられ、宮仕えの人もなくなり、住んでいるところも葎に荒れはてたのを、昔をなつかしく思って訪れてきた人に、前句の尼が語ろうとして悲しむ様子だという古解はよくない。前々…

トマス・ド・クインシー『スタイル』30

さて、修辞という語の最後の区分、「実用的な技術としての修辞rhetorica utens──現在の用法ではもっぱらこの意味だけになってしまっているが──はアリストテレスの修辞学ではまったく扱われていないものである。道徳的説得、虚偽にもっともらしさを与え、疑わ…

ブラッドリー『論理学』55

§80.しかし、我々がより低次の見方にとどまるなら、判断の真理を精査することに同意しないなら、個的な事実に関する主張をそのまま受け入れるつもりなら、その場合我々の結論は違ってくるだろう。抽象的判断はすべて仮言的となるだろうが、知覚に与えられ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈18

二の尼に近衛の花の盛りきく 野水 二の尼は二位の尼君などではなく、尼となった官女のなかの第二の人物である。二というのは次というのと同じで、二の宮、二の町などという言葉の二の用法に照らして見るべきである。近衛は高貴な人間を打ちかすめていったも…

トマス・ド・クインシー『スタイル』29

第四部 「<これだけのことがあって、ではその実際の帰結はどうだったろうか。>」この言葉で前の部は終わった。ギリシャ知性のあらわれ、顕現は二つの異なった形で現われる。最初のものは紀元前四四四年ペリクレスの周囲に集まり、第二のものは紀元前三三三…