非連続的な音楽

 部屋中のものをひっくり返す事情があって、しばらく目にしてなかった本もあったが、よく聞いていたCDがでてきた方が嬉しかった。というのも、よく聞いていたものが大事なので、専用のケースに入れていたところが、そのケース自体が引越したときに奥まったところに置かれてしまったために、引っ張り出す機会がなかったのだ。デレク・ベイリーセシル・テイラージェリ・アレン、ジェイムス・ニュートン、アンドリュー・ヒルなどといったフリー、あるいはポスト・フリート呼ばれるアヴァンギャルドなジャズがでてきた。

 

 そもそもジャンルでいうとジャズがもっとも好き、というか最も長い時間聴いていられる音楽なのだが、ビック・バンドやビ・バップもたまに聞くといいが、しばらく聴いているとどこかじれったくなってきて、混沌としたフリーにたどりついてほっとする始末なのだが、あえて理屈をつけてみると、フリー、あるいはいつでもフリーへと転化するポスト・フリーでは、テーマこそみられることもあるが、他の音楽では大体においてみられる終わりに向けての勾配がほとんどない。つまりはどこで終わってもいい音楽であり、形容矛盾とも思われるような非連続的な音楽なのである。AACM(Association for the Advancement of Creative Musicians) 出身であるトランペッター、レオ・スミスは次のようにいっている(印象に残ったので書き抜いていたのだが、どこから引用したのかわからなくなってしまった)。

 

 私の作品は多面-即興である――最初の音は展開していくものであるとともに既にしてクライマックスである。私は点から点に移動することはない。なぜなら各点は既に出発することのうちに含まれているからだ。

 

 

 

 ベルグソンは純粋持続の好例として音楽をあげたが、非連続な点としての音楽がここにはある。もちろん、非連続な点だけでいいというなら素人のでたらめと何の変わりもなく、創造的な瞬間の連続というほとんど無謀とも思えることが要求されており、そうはいってもフリー・ジャズの多くが退屈なものにとどまっているのは、いかにこの要求が無謀であるかの傍証でもあるだろうが、それだけにそうした無謀さを成功させる人物には頭が下がる。

 

 

 

 ぼんやりと伊東四朗羽田美智子が主演の『おかしな刑事』をみていたら、落語の『王子の狐』が話を引っぱる大きな要素となっていて、狐信仰や民俗へと拡がっていくのだが、おかしいなあ、何回聴いても筋のよくわからない、落語家が内職をする話で、民俗学的なこととは関係がないはずだがなあ、と思って確認すると、案の定、私は『今戸の狐』と勘違いしていた。