記憶の三幅対1~デヴィッド・リンチ『ツイン・ピークスThe Return』、Last Exit/Low Life、パウル・ツェラン「マリアンネ」

 

 

 

Low Life Last Exit [12 inch Analog]

Low Life Last Exit [12 inch Analog]

 

 

 

パウル・ツェラン詩文集

パウル・ツェラン詩文集

 

 

 わたくしが3という数字に特別な思い入れをもっているのは、あるいは幼いときに、例の有名ななぞなぞを聞いたせいかもしれません。
 朝には四つ足、昼には二本足、夜には三本足で歩くものは何か、というスフィンクスオイディプスに出した謎々です。
 父親を殺し、母親と同衾する『オイディプス王』の話を幼い子供にするとは考えにくいので(学校で聞いたような記憶があるので)、オイディプスがまだ自分の運命を自覚する前、旅の途中で倒したスフィンクスが出した謎の部分だけを話してもらったのだと思います(謎が解けぬ旅人たちは殺されてしまう)。
 ところで、わたくしは、答えとその謎解きを聞いても、どうもピンとこなくて、もちろん三本目の足とは杖のことで、答えは「人間」なわけですが、杖をついている人間の姿を現実に見たことがなかったせいもあるでしょうが(『水戸黄門』では見ていましたが)、朝昼夜という循環するものを幼児、青年―壮年、老年という一方向的なものに限定することに割り切れない思いもあったように思われます。
 そもそも四足歩行から二足歩行に進化したことに動物と人間との最も大きな相違があり、二足歩行によって自由になった手を用いて、道具を作ることができるようになった、そこから人間と動物を決定的に差異化する、「道具を作る動物」あるいはそのヴァリエーションである「言語を操る」「社会を形成する」「対面で性交する」などなどの人間の定義があらわれてきたわけですが、二足歩行になることはこの上なく不安定になることでもあり、有機的全体から脱落し、不安や神経症に悩むことでもあるわけです。
 道具、言語、社会などは安定を得るための三本目の足、つまりは杖に代わるものであり、有機的全体から滑り落ちてしまった人間が生きていくのに必要なものだとすると、つまり、朝は四本足、昼には二本足、夜には三本足で歩くというのは、人間の老年への衰弱をあらわしたものではなく、まさしく人間の欠如と過剰さをあらわしたものになるのではないでしょうか。
 
 さらに、二項関係は必然的に比較という行為を誘いだしますが、三項になるとそこに働いている比率、組み合わせの妙が問題となって、ある意味連句に近いものになって、たとえば、ご承知かどうか、連句は任意の人数が集まって座を作り、575,77,575と句をつなげていき(花(古典で花といえば桜のこと)や月を出す場所も決まっているのですが、細かな規則はここでは面倒ですし、それほど詳しいわけでもないので避けておきましょう)、面白いのは、そのようにして36句を何人かが交代して詠んでいくのですが、それがある物語を形作るのに奉仕してもならないし、もっといえば、ある特定の句を物語として、あるいは情景として回収することも忌み嫌われることで、といって、もちろんまったく関係のない句を出しても意味がないので、つかず離れず、絶妙な距離感が必要とされることにあります。
 
 と理屈にもならない理屈を述べてきましたが、要するに、映像、文字、音を媒体とする作品をコーディネイトしてみようということです。もともとそうした作業が好きなのだけど、うまくできるかはそのとき次第。
 
 まず取り上げるのがデヴィッド・リンチのテレビ・シリーズ『ツイン・ピークスThe Return』全18話。
 
 物語は単純で、前シリーズ『ツイン・ピークス』の謎を解くといえば、もちろん簡単ですが、リンチによる最新の映画『インランド・エンパイア』以上に好き勝手なことをしているので(まるまるリンチ的幻想というエピソードもあります)、リンチが好きな人は舌なめずりもしましょうが、本気で「合理的な」謎解きを期待している人は(まさかリンチにそんな期待はしないと思いますが)茶碗のひとつも投げつけたくなるかもしれません。
 
 ちなみにこれまでのリンチ作品のなかで、最もテイストが近いのは、『イレイザーヘッド』でしょうか。あの映画のように、どこといって特定されない場所で、アルカイックでありながら人知を超えた錬金術的な実験が行われているかのように感じられます。別世界への入り口ともなる重要な役割を電気が負わされており、スチーム・バンクならぬエレクトリック・パンクの趣があります。
 
 長髪で悪を体現したかのようなクーパーと、前シリーズ通りの好人物のクーパーが登場しますが、このドッペルゲンガー現象は別に大した問題ではなく、大したことではないというのは、例えば二人が善と悪を代表して戦い合うというようなことはなく、また二人の言動が物語の中心を占めるわけでもなく、二つのノイズでしかありません。
 
 結末については触れないほうがいいでしょうが、実に絶妙なもので、わたくしには見事な解決になっていると思えました。
 
 音楽は『Low Life  Last Exit』、「Low Life」と「Last Exit」は本来別の作品になる予定だったらしい。Last Exitはのちにジャズのバンドとして知られることになるので、Last ExitのLow Lifeだと勘違いされる可能性がありますが、「Law Life」はバス・サキソフォンピーター・ブロッツマンとエレクトリック・ベースのビル・ラズウェル、「Last Exit」ではブロッツマンがバスをテナー・サックスに持ち替え、さらにギターのソニー・シャーロックとドラムのシャノン・ジャクソンが加わっています。
 
 録音は1986年だったが、レコード会社ともめごとがあって、発売されたのは1990年、わたくしがもっているのは2007年にCD化されたものです。電化された楽器も使われていますが、同じ時期のひょろひょろしたフュージョンなどとは比較を絶する触れなば切れんハードコア。
 
 リンチの今回のシリーズではほぼ毎回クラブで歌が歌われるところで終わっていて、その歌のほとんどが前回のシリーズのアンジェロ・バジェラメンディと同じように、甘美な歌で、それがまたリンチ的世界の重要な構成要素をなしていますが、もしリンチが映像でしたことを音楽でするとなると、こんな音楽にもなろうかというもの。それだけビザールで不安感を喚起します。
 
 言葉としては、パウル・ツェランの詩集に収められた『罌粟と記憶』の「マリアンネ」をあげたいと思います。2ページを満たすことのない短い詩です。
 
 きみのまなざしは「鏡ガラス」、「目から目へ雲が流れる」、きみの軀は「無比の葡萄酒」、きみの心臓は「穀物のなかに浮かぶ舟」と恋人であるマリアンネを愛おしむ言葉が続きますが、二行からなる最後の一連、その一行目でその恋人が死んでいることがわかり、最後の一行が続きます。
 
「世界の床にいま、夢のターレル硬貨の落ちる音がする。」
 
ターレル硬貨とは、ターラーとも呼ばれる銀貨のことで、16世紀から数百年ヨーロッパで使用されていたということです。
 
 マリアンネを運ぶのはテントの前に進み出た小部隊で、「世界の床」に落ちるターレル硬貨が担うものとともに、一挙に、まさに堰を切ったごとく、歴史と時間が押し寄せ、世界が顕現するのです。
 
 それはまさしく、『ツイン・ピークス』の最初のシリーズでは冒頭で死に、今回のシリーズでは最後の場面を担うことになるローラ・パーマーの叫び声が二つのシリーズを越えて広がる世界を顕現しているのに等しい効果をあげているのではないでしょうか。
 
 もちろん、顕現とは別の世界のそのときの姿が瞬間的にあらわれでるに過ぎないわけですから、わたくしがあげた三つの作品は、繰り返し様々な姿をあらわしてくれるでしょう。