地平線・乗り物・賭け――蛭子能収論1

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

[以下に掲載するのは、およそ30年以前に書いた原稿です。若書きの若気の至りで、とかく難しげな言い回しを使っていますが、考えていることはさほど変わっていないので、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからなくなりました。たぶんワープロで打った文章で、当時のデータなど当然残っていないので、ご苦労なことに打ち直しました。

 

 書いた当時、蛭子能収はもちろん、バス旅行などしておらず、ある種愛されるキャラクターになることなど想像もできませんでした。タモリがときどき、自分はデビュー時は江頭2:50のようなヌメッとした気味悪さをもった存在であったことを言っていますが、蛭子能収はそれ以上に危険な、近寄ってはいけないモンスター的な存在でした。そのことは、私であれば絶対に敬遠してしまうような奇人、あるいは「因果」を背負った人と言った方がいいでしょうか、そうした人物ばかりと根気強くつきあっている根本敬に特別重んじられた人だということからもわかりましょう。

 

 蛭子能収は、特に暴力的な言動をとるわけではありませんし、他人に迷惑をかけるような行為をすることもない人ですが、いまでも、言葉の端々に我々、というのが誰を指すのかはわかりませんが、ごく平凡な常識を持ち合わせた人間とは違う強烈なリアリティを感じさせることにおいては変わっていません。それでも、現実離れした感じがしないのは、このリアリティが特別我々と異なったものからできているわけではないからです。ただパースペクティヴがまったく異なっているので、我々が遠くにあると思っていたものが思いがけず隣にあるのを見てびっくりするのです。「人間性とは、動物が陥っていない先入観の一つだ。」というニーチェの言葉を思わせもします。

 

 本来なら、各場所で該当するマンガを引用した方がいいのですが、数回の引っ越しで散逸してしまいました。好都合なことに、私が代表作だと思う『地獄に墜ちた教師ども』は復刻版が出ているようですし、キンドルでも代表作をまとめたものを読むことができます。なにより、あの汗の張りついた顔と一本線の地平線というごく一般的な蛭子マンガのイメージを思い浮かべてもらえれば、理解できないところはないと思います。

 

 句読点と段落を増やしたことを除けば、その他の箇所は元々の原稿のままです。題名だけ新たにつけました。少々長いので4回に分けてあげます。今回は前置きの部分。]

 

 

  人はどのようなときに現実を感じるのだろうか。極限に迫るまでに肉体に負荷がかけられる冒険やスポーツにおいてであろうか。あるいは、見神体験や霊的な体験など、多かれ少なかれ神話的な光暈に彩られた啓示的な瞬間においてなのだろうか。いや、冒険や啓示などはむしろ非現実であって、現実は日常的な毎日の生活の繰り返しのなかにこそあるというべきだろうか。


 不条理マンガと呼ばれる蛭子能収のマンガが、その一見したところの「無意味さ」にもかかわらず圧倒的な現実感をもっていることは指摘されてきた。しかし、そこでいわれている現実感が正確なデッサンに由来しているのだとは言いがたい。そのいかにもありそうな筋立て、また実際にありそうとはいえなくともそれを納得させるようなプロットや仕掛け、絵の迫真性、つまりはリアリズムの基準に沿って得られるものでなかったら、現実感はなにから得られるのだろうか。


 この現実感をくくって、たとえば、「夢のなかに迷い込んだかのようにリアルだ」と言うことができるかもしれない。しかし、蛭子作品が夢に似ているといってもその内容が無意識の欲望の満足を表現しているといったような単純なことでは決してない。

 

 夢の本質が欲望の直接的な実現ではなく、検閲とその検閲をかいくぐるための、フロイトが「夢の作業」と呼んだもの(圧縮、移動、置換)との相互干渉にあるように、蛭子マンガはなにか(たとえば抑圧された怒りであるとかやや異なったレベルからいえば蛭子能収自身の見た夢であるとか)を直截的に表現するものではなく、そのなにかが様々に屈折し他の要素と干渉し合う運動の暫定的な定着である。

 

 従って蛭子作品を精神分析医が患者の夢を解釈するように絵解きすることは意味のないことであり、他人から聞かされる夢の話が現実的でもなんでもなく退屈なものであるように、解釈される限りでの夢はなんら不可解なものでも、欲望に満ちたものでもなく、人から聞かされる夢と同じように、あるいはそれ以上に、退屈の上に退屈を重ねるだけである。蛭子作品を一種の夢として記述し、それを解釈することは、蛭子作品にあるとりあえず「現実感」と呼ぶしかないものを矮小化し、蛭子作品と「現実」に対して二重の不実を行うことになる。


 夢と蛭子作品とのあいだに平行関係を見るならば、それゆえ、夢を表現するあるいは解釈する過程において通常は失われてしまうもの、そしてそうでありながらも無数にある可能な形からほかでもない「この」夢が見られたという必然性、もともと生活環境や日常の細部といったきわめて私的で偶然的なものに由来する夢が、ユングのように集合的無意識とはいわないまでも、個人的な文脈を離れたなんらかの象徴的表現をしてしまうという偶然性と必然性との、また普遍性と特殊性との交差に焦点を合わせることが有効であるように思われる。そして、その交差こそが作品の別名である。


 そしてまた、偶然に起きた何気ないことが状況を決め、それが作品とのあいだに一義的な関係をもつものではないことを示しており、後から振り返ってみれば必然としか思えないことや、絶対に確実と思われたことが違った角度から見ると数多くの偶然に頼っているのを発見したとき、誰にでも起こっていることがこの私にだけ特殊な意味をもって迫ってくること、あるいは、逆に私だけの特殊な特権的な経験に思われたことがある時代的な趣向の陳腐なあらわれに過ぎなかったことを悟る瞬間など、現実がこれまでとは異なる視点から再組織化されるときに、これまでとは異なった現実があらわれることは、それ自身一種の現実の後からの再組織化ともとれる創作と、現実の再組織化をも含みながら進行するいまある現実との一義的ではない複雑な関係を示している。


 こうした再組織化を促す、わずかな視点のずれによって世界がその相貌を変ずることは意味と深く関わっている。蛭子作品ではおなじみの、本人は十分根拠があると思って行っていることが突然その無意味さを宣告される瞬間、そして無意味な行動がその無意味さにもかかわらず決定的な結果を生じさせてしまう瞬間は、意味の根源的な転倒を明らかにする。


 夢は現実と対立するものではなく、主体の現実との関わりにおける真実を告げるものであり、「夢幻的なもの」でも「夢物語」でもない「真実」を夢=蛭子作品に認めたとき、我々は現実を垣間見ることになる。それは冒険や啓示とはかけ離れているかもしれないが、日常とも同じ程度遠いものであり、「現実」は日常/非日常という二分法を無効にする。そうした「現実」を蛭子能収の諸作品に沿ってこれから考察してゆきたいと思う。