地平線・乗り物・賭けーー蛭子能収論2

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

 

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 決して短いとはいえない日本のマンガの歴史のなかで、地平線が主題歌されたのは蛭子能収のマンガが初めてであると思われる。視覚表現のなかで地平線の主題がこれまであらわれなかったわけではない。絵画であればロマン派以降の風景画には多くの地平線が登場するし、シュルレアリスムのダリやタンギーにいたっては絵に対応する実際の風景もないままに地平線が自立的な要素となり、ある種の幻想を形成する際の重要な契機とさえなっている。
  しかしながら、蛭子能収の地平線は多くの風景画にあらわれる自然美としての地平線とも、ダリの堅いものと柔らかいものとがせめぎ合う舞台とも、またタンギーのオートマチックな運動が収斂する地平とも異なっている。蛭子能収の地平線はなによりもまず一本の線であり、多様な凸凹が視界の広がりによってその相違をなし崩しにされ差異を無効なものとする絶対的な地平が形成される契機をもつことなく、単にそこに存在するものとして引かれるだけである。地平線に準ずる水平線にしても同様であり、いずれにしてもこれほどロマンチックな感受性を払拭した地平線はなかったのではないだろうか。
 確かにつげ義春の「ねじ式」などには水平線が印象的に使われているが、そこでは泡立つ波や着物姿の女医が前景に置かれることによって、またその沈んだ色調、赤黒い空や飛行機の影、廃墟や草むらのなかを走る機関車などの配置によってノスタルジアが画面を覆っている。それは良かれ悪しかれ「古き良き時代の日本」のイメージを喚起するものであり、自然の風景を基調としている。
 心情をすっかりぬぐい去ったかに思われる蛭子能収の地平線を特徴づけているのは、反対に、それが都市の地平線であるということである。その崇高さにおいて自然美の極致であり、繰り返し描き続けられながらも、描かれるのは常にある観点から切り取られた断面でしかないということによって、最終的には表象不可能なものとして放置されざるを得なかった地平線が一本の線としてあらわれるのには、自然美からも崇高さからも切り離された都市という舞台が必要だったのだといえる。差異を包み込んでゆく拡がり、視線を先へ先へと送り続ける運動は都市を輪郭づけるアスファルトの、自然の微妙なニュアンスを欠いた直線に取って代わられる。
 しかし、都市の地平線ということ自体が一つの逆説である。都市にあって我々は建築物や交通、雑踏などに妨げられて地平線を見ることができない。従って、蛭子能収の地平線には二重の不可能性、裂け目が見いだされる。一つには、無限や永遠といった表象不可能なものへの運動を喚起する地平線が限定をするものへと機能を変え、表象不可能などころか一本の線によってあらわされることであり、二つ目には、地平線があるはずのない場所、あり得るはずのない場所にあることである。
 第一の点についていえば、地平線によって空間はその性質を変える。つまり、地平線は風景の背後にある「自然な」ものでは決してなく、風景を限定し空間を閉じられたものにする機能を有しているといえる。それはしばしば見ることのできる断崖絶壁の突端という場所、またその完成されたというか進化した形での隔絶された孤島という形象に端的に集約されるたぐいのものである。
 『サラリーマン危機一髪』にはその二つの例が見られる。一つは「無宙商事対面接屋」で、「無宙商事」という面接にいって帰ってきたものがないという会社を訪れたものが、採鉱工場のような建物を入り、「地獄道」をくぐり抜けてやっとの思いで脱出したところが宇宙に浮かぶ円盤形の砂漠の真ん中だというものである。もう一つは「地獄の天使」で、疲れ切って帰宅する途中の男が親切な女性に負ぶってもらうが、徐々に絵がロングに引かれると、なにもない空間に浮かんでいるらしい孤島が確認され、再び寄っていく絵では女性が尻尾のある爬虫類かなにかの骸骨にその姿を変じている。
 地球は球形ではなく、平板である。蛭子能収にとって地平線の向こう側にはなにもないのであって、『家族天国』の「サラリーマン征服」では「地平線を征するものはサラリーマンを征する」とばかりに、文字通りに男が地平線の上に立つが、それは直線ではなく、曲がりくねった一本の線であり、その両側にはなにもない空間が拡がっているだけのようである。
 こうした地平線の働き、そしてまた空間の隔絶が蛭子作品全体のなかで占めている役割は意味深い。多くの蛭子作品において見られる展開、すなわち、ひとがある状況に巻き込まれる、あるいはどうにもならない状態にとらわれてしまっている、そしてその状況に対して暴力による解決が試みられる、しかし暴力が完遂されてもその向こうによりよい状況が待っているわけではない(たとえば『地獄に墜ちた教師ども』でいえば、「地獄に墜ちた教師ども」、「仕事風景」、「疲れる社員たち」、あるいはより漠然とした形ではあるけれども、重大な結果を生み出す契機となっておかしくないはずのことが、視点が引かれることによって町並みが孤島の書き割りと判明するように、より大きな文脈あるいは法則の歯車といったようなものの支配のもとではなにほどのものでもなくなるという展開を含めると、「愛の嵐」、「超能力」、「真夜中のパーティー」、「地獄のサラリーマン」が加えられる)。
  つまり、決定的な出来事が起こっても(絶対的な到達不可能なはずの地平線の上に立っても)、事態が解決されるわけではないのであって(すべてを見渡せる神の視点に立つわけではなく、ある領域の端に立つことができるだけであり、その領域の向こうには空漠たる空間が拡がっているだけかもしれないし、別な領域がつながっているのかもしれない――東京と東京砂漠が無理なく共存しているように)、決定的なのは、むしろ、決定的な出来事が生じても状況に変化はないという認識なのである。事態に変化がないならばそれはそもそも決定的な出来事ではない、とはいえない。決定的な出来事が存在しなければ、決定的な出来事ののちも変わりなく存続し続ける彼にとっての「現実」を認識することはできないからで、そうした認識を否応のないものとして強いることにおいて決定的なのである。
 「地獄に墜ちた野郎ども」においては、生徒による授業の全くの無視、反抗的な態度に対して教師の暴力が振るわれるが、それによって教師と生徒のあいだのあるべきと考えられている関係が得られるわけではなく、生徒たちによる拍手と「先生とうとうやりましたね/僕たちは先生の怒るところを見たかったのです」という言葉が贈られ、教師は決定的な行為が引き起こした決定的な認識のうちにあって空虚な空間を画する地平線を背景にたたずむことができるだけである。
 また、「仕事風景」では、「俺は豚や馬じゃないぞ!/人間だぞ俺はーっ」というある意味でもっともな理由によって上司(というか親方)の首がはね飛ばされるが、そうした感情もそれが引き起こした行為も「我社では新米による経験年数の多い社員への反抗は認めていません」という言葉とともに空虚な空間と完全に武装した機動隊めいたものと一緒に取り残される。
 こうした特徴を夢とのアナロジーで言い換えてみるならば、蛭子作品も夢も「不可避性」を共通の特性として備えているということができるだろう。我々は夢から逃れることはできない、夢のなかでは死ぬこともできない、つまり夢のなかにいながら夢の外に出ることはできないのであって、唯一できるのは目覚めることだけである。しかしながら、目覚めた状態は夢を客観的に観察できる外部ではない。我々は夢を対象として隅々までとらえることはできないし、目覚めた状態においては意識的無意識的な加工を経てしか夢に接することができない。こうした不透明性が蛭子作品を「夢に迷い込んだかのような」ものにしている。
 
 第二に、地平線が本来は見ることができない都市のなかに存在すること。形式的な面で、地平線が一本の線であることによって、しかもそれが繰り返し使われることにより奇妙な結果が生まれる。地平線の影響力が同じく一本の線によって描かれる部屋(というか屋内)にまで波及するのである。それでたとえば「地獄のサラリーマン」では壁と床との境目であるはずの直線が即座にビルが建ち円盤が飛ぶ地平線になる。また会社では麻雀の卓を囲む背後が地平線となり、エレベーターの前に立つ親子の背後が地平線になる(その他多数)。このことは蛭子的空間をその閉鎖性とともに、それを突き崩す方向に働く空間の互換性、伸張性とでもいえるもので特徴づける。一本の直線を起点として空間は伸張し、室内は一瞬にして地平線を背景にする一種抽象的な空間に変貌する。
 
 こうした空間のすり替わりは決定的な認識に呼応し、それが決定的であるがゆえにそれ以上の認識を阻む「認識のデッドエンド」である地平線を常に身近に感じることを余儀なくさせる。家族の会話などに代表される蛭子マンガの室内の場面の不安感というか緊張感はいつ現れるともしれない地平線によって喚起されたものであるともいえるだろう。
 
 このいつ現れるともしれない地平線が喚起する緊張感こそが、蛭子作品の登場人物に常に汗をかかせているとさえいえるかもしれない。決定的な瞬間があらゆる場所、あらゆるときに可能的なものとして潜んでいるならば、あらゆるときと場所を制御することが不可能な以上、ただ決定的な瞬間を待つことしかできない。
 
 蛭子マンガのなかでは行動に伴う汗、汗ということでもっとも普通に連想されるスポーツにおける汗であり、労働に伴う汗、身体を動かすことで自然に出る汗はほとんどない。また、蛭子マンガの汗が怒りや焦りなどの登場人物の感情、あるいはもっと単純に暑さなど周囲の状態を「表している」のではないことは明らかである。つまり蛭子的汗とは動かないときににじみ出てくる汗、待機状態における汗なのである。
 
 最初の単行本である『地獄に墜ちた教師ども』ではおおむね汗はある状況に対する内的葛藤のあらわれと解釈できる程度にとどまっているが、その後そうした文脈を離れほとんど無制限なまでに増殖を続けることになる。しかしいずれにしてもそこに(流れるというよりは)にじみ出す汗は、脂汗なのである。
 
 「豚男ジャパニーズ」(『私の彼には意味がない』所収)の物干しにつるされたとんかつからしたたる油のように、蛭子的汗は水よりは油に近い。それは蛭子的作品において汗が決して流れ「落ちない」ことからも明らかであろう。
 
 顔の上を筋を引いて流れながらも落ちることのない汗は、その上、その行跡を明瞭な輪郭線として残すことでも特異である。本来透明である顔の輪郭が黒く描かれるように、マンガの約束事の一つとしてはっきりした輪郭をもつものとして描かれる汗は、それにしてもリアリズム的基準からすれば決して自己主張するべきではないものであって、目立たぬようにそれでいながら同時にさりげなく汗が出るような状況なのだということを指し示すものとして働く。
 
 ところが、蛭子マンガの汗は、ほとんど目や口や鼻(少なくとも皺程度には)と同じ太さ、明瞭さをもった線で描かれており、油というよりももっと積極的に膠着的なものだといった方がいいかもしれない。
 
 このように、人間の付帯物としての汗というよりそれ自身で自立性を備えてしまった汗は、その存在を主張することで待機状態の脂汗、つまり、なんらかの対象(ここでの仮定に従えば、決定的な出来事であり、「認識のデッドエンド」としての地平線への予感)に対する反応としての汗でありながら、地平線と同じような機能を果たす物としてその相貌をあらわし始める。ここでいう物は、認識の、言葉の網の目から常に逃れでるが、認識やそれを組織しようとする言葉に常につきまとい、それらを支配するものであり、蛭子作品の「現実」を生み出しているものである。
 
 蛭子能収のマンガに顕著なのはこうした物の「近さ」である。空の枠である一本の線がその背後になにも従えない地平線を招き寄せるように、自然な代謝機能の結果であるはずの汗はその自然さを失って物として顔に張り付く。
 
 フロイトは不気味なものが親しいもの、身近なものと裏腹な関係があることを示したが、蛭子作品がそれを読むものに呼び起こす不気味な感じ、不安感はまさに、我々が身近に感じているものが突如として見覚えのない、異質なものに変ずることから来るといえる。地平線は確かに絵の全体の構図からいうならば、地平線であるはずだが、我々が自然のうちに見、地平線として認識しているものではない、顔の上に凝固する汗は確かに汗であるはずだが、我々が日常親しんでいる汗ではないのである。
 無軌道に増殖する群衆も同様である。都市において我々は群衆を日常的に見ているが、それは地平線と同じく個々人の人格や身体的な特徴といった差異が、数の増殖と場所の拡がりによって徐々に均質化される運動としてなのであって、唐突に一本の線として地平線が引かれるように、同じ顔、同じ身体つき、同じ服装の群衆と対峙することはないのである。
 こうした、有機的な、自然の運動を切断する要素が蛭子能収のマンガには満ちていて、それが蛭子マンガにおける運動を特徴づけている。