地平線・乗り物・賭けーー蛭子能収論4(完結)

 

復活版 地獄に堕ちた教師ども

復活版 地獄に堕ちた教師ども

 

 

 

 身近なものを呼び寄せ、叙述の経済的な進行をショートさせてしまう蛭子マンガの特徴は「文字どおりに展開する世界」の一見無反省な受容という言葉でも言えるだろう。

 

 「私の彼は意味がない」では、「毎日、毎日、意味のない生活ばっかりで/嫌になっちゃうわ」というありがちな不平が、電話を片手に「私の彼は左利き」に合わせて裸で歌われる「私の私のかれはいみがなーい」と麻雀の「意味なしアガリ」に現実化される。

 

 「家族の清算」(『家族天国』所収)では家族関係という本来「清算」されうるはずのないものが文字どおり清算されるために、子供は物として性器から子宮へと押し込まれ、そして精液へ戻った関係がストローで吸い取られて清算される。

 

 また「地獄のサラリーマン」では「ママの言うことが聞けない子は地獄行きだよーっ」という言葉が地獄行きのエレベーターの出現を促していると言えるし、そうした言葉単位のことでいえば、題名がそのまま内容をあらわしていることが非常に多い。

 

 蛭子マンガの題名と本編との関係について考えてみると、題名は本編の思想やテーマを象徴的にあらわしているわけでも、あるいは本編での雰囲気や情緒と同質のものが喚起されるような具合に考えられているのでもない。また、楳図かずおの『私は真悟』や『十四歳』のように本編を読み進めるうちに徐々に明らかになる謎の提示がなされているわけでもない。さらには、内容と無関係なナンセンスが意図されているのでもなく、映画の題名が借りられている場合を除けば、端的に言って、内容の即物的、暴力的なまでに単純化された言明なのである。

 

 もちろん、題名が内容をあらわしているのはなんら不思議なことではなく、むしろ当然のことと言っていいが、短編作家の決して少ないとはいえない作品のほとんどが、その題名においても内容においても、比喩や象徴的な表現を頑強に拒んでいるというのは特筆すべきことだと思える。まさしく内容においてもなのであって、「文字通り」というのは比喩を認めないことである。

 

 意味のないような生活ではなく意味のない生活であり、家族をあたかも清算するごとくではなく家族を清算するのである。サラリーマンは地獄のような状況に追い込まれるのではなく、まさしく地獄行きのエレベーターに乗るのであり、私は何も考えないかのように行動するのではなく、実際に何も考えていないことが時計のような計器で計測される(「私は何も考えない」)。

 

 こうした比喩の忌避は、一面では、形骸化し紋切り型となった表現(あくまでも慣用語における意味のない生活であり、そこでの意味は生き甲斐であるとか、毎日の生活の充実感といった私生活の範囲を出ないものである)を撹乱するものであるが、他面、それが「ナンセンス」あるいは「不条理」といった形を取る場合には急速に風化されるものでもある。

 

 実際、多くの「ナンセンスマンガ」「不条理マンガ」と呼ばれていたもの(現在ではその多くは四コマ漫画に流れ込んでいると思われるが)、あるいは殊更にナンセンスや不条理を前面に出すわけではなくともこれまた大雑把に「幻想的」と呼ばれうるような、日常的な因果律に従わない作品は、「ナンセンス」「不条理」においてはその「ナンセンス」や「不条理」自体が社会的またはマンガ・ジャンル内での文脈のなかに固定されることによって、「幻想」においてはイメージのつながりの許容範囲やそれを許すそれらしい雰囲気を確定する感性の図式が(暗黙のうちにでも)設定されることで瞬くうちに固定的な図式へと堕していくのである。

 

 文脈のなかに捉えられた「ナンセンスマンガ」や「不条理マンガ」は何よりもまず「この漫画はナンセンスだ/不条理だ」というメッセージを発する。そして、それはすでに文脈のなかに位置づけられたものとしてのナンセンスであり、不条理であるから、ナンセンスがいかにナンセンスかが問われることはなくなり、ナンセンスの趣味の良さが競われることになる。つまり、すでにあるナンセンスのストックから選ばれる組み合わせの妙が狙われるだけであって、ナンセンスの産出が行われるのではないのである。

 

 当然のことながら、固定した意味をはぐらかしてゆく「ナンセンス」といえども文脈のなかに捕らえられていくのは逆らえないところで、文脈の外へ立つというのは歴史を超えて無時間的な永遠のなかに立てというようなものであるが、文脈が歴史と異なるのは、文脈はあくまでも連続的であり、共同体内での同意の体系であり、歴史は非連続的であってモードとしての新しさではない理解され得ないものが生まれる場だということである。すなわち、文脈を志向する「ナンセンス」や「不条理」は、その内容以上に形式において膠状にまとわりつき、固まってゆく意味に囚われていくことになるだろう。

 

 「ナンセンス」や「不条理」は本来そうした意味の膠着をはぐらかし脱臼させるものであったはずで、「ナンセンス」がその意味のなかに分け入り意味をフルに作動させることで意味の自壊作用を狙うものだとすれば、「不条理」は意味の偶然性、意味が持っている無意味な部分をあらわにすることにあるだろう。

 

 このことからいえば、「ナンセンスマンガ」と「不条理マンガ」は異なったものであり、「ナンセンスマンガ」は山上たつひこに代表される、マンガ=意味のシステムに熟知しており、その機械がどれだけ作動するか、意味がどこまで持ちこたえうるかについて実験した人であるだろう。それゆえ、「ナンセンス」を操る人は意味=方向感覚が優れている。

 

 ある面から言えば、「ナンセンス」は無意味の発見であるよりは無意味であるはずのところに意味を発見してしまうという徒労と快楽に満ちた繰り返しであり、『がきデカ』の「アフリカ象が好きっ」や「八丈島キョン」にしても、無意味の爆発というよりは意味との無限に反復されるかに思われる出会いによって生じる失調感に対する中和作用であるように思える。そうしたギャグで「一息入れる」ことによって、再び伸縮自在に思える意味のなかに入っていけるのである。

 

 蛭子能収のマンガは上述した意味合いにおいては「不条理マンガ」であると言える。蛭子マンガは意味の伸縮を楽しむわけでもないし、叙述や意味のシステムを縦横に駆使してそれが生み出す歪んだ世界を謳歌するのでもない。

 

 むしろ、すでにある意味、それも全く「詩的」でも「非現実的」でもない紋切り型そのものであるかのような意味、そしてそれが付帯する対象、あるいは意味の集積としての対象における意味の動きを愚直なまでに忠実にたどりながら、そうした紋切り型のなかにある意味の空点を明るみに出すのである。蛭子マンガのなかで忠実に辿られるそうした紋切り型は、もちろん、サラリーマン、家族などである。

 

 サラリーマンは多くの蛭子作品がそうであるように、苛酷な法が支配する場としてある。そこでは、多くの企業を舞台にしたマンガが描いているような組織の強大な力に対する個人の尊厳、個人がそうした組織を手玉にとることのカタルシスなどは見向きもされない。

 

 そういったことは紋切り型としてある「サラリーマン」を語る以前の、組織や資本の論理のなんたるかを心得ないあまりにオポチュニスティックな、ヒロイックな見方だと考えているかのようである(「会社には、どこも理不尽な人の使い方というのがあって大抵の若い平社員は反発を試みるんですが、それは殆どの場合、無駄な抵抗に終ってしまいます」)。

 

 蛭子マンガは「サラリーマン」はあくまでも組織に従属するものだという紋切り型から出発する。「サラリーマン」は資本の一つのコマになることによって「衣、食、住を快適に過ごすために金を得る」。

 

 それゆえ、いかに組織を円滑に作動させるかが「サラリーマン」のあるべき身の処し方であり、上司が何を望んでいるかを正確に見抜かなければならないし、上司と下役の調停にも努めねばならない。なんの意見も持たずに誰の側にもつくことができ、社内での建前が大切だから、好きではない女と結婚することも厭うべきではなく、皆がしていることと違う目立ったことをしてはならない(「蛭子能収のサラリーマン教室」『私は何も考えない』所収)。

 

 こうした一見通俗的な処世術は、それでは「サラリーマン」とは一体なんであるのか、という問いに答えが出されたときに、エアポットに落ち込むかのような失調感とともにその様相を変える。蛭子能収が出す答えは「サラリーマン」とは「死人」だということである。

 

 「それである日、私は自分の取るべき態度をこういう風に決定しました。サラリーマを続けている間はその会社の勤務時間中、自分は死んでいるんだと。その時間中なら上司に何を言われようが、死人だから文句は言えない。

   (「私のサラリーマン時代」『サラリーマン危機一髪』所収)



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 「サラリーマン」は「サラリーマン」でありながらそれとは異質なものに姿を変える。これは、集団で行動するときにはその成員の一人一人が自分の特性によって集団のために役立たねばならないという単なる処世術、あるいは緩やかな道徳といっていいものが、「私には何の特技もありません/私みたいな者はどうせサラリーマン失格ですよね」と言葉を残してダムに飛び込む「近藤」の姿によって、サラリーマンであることが実は生死が賭けられた法の支配のもとにあることがあらわになる過程に対応している(「サラリーマン危機一髪」)。

 

 出世のためには根性と忍耐が必要なだということが自ら馬になって上司を背に乗せて歩くことになり、忍耐が足りないものには死と豚の餌になることが待ち受けている(「分からなくっても大丈夫」『私はなにも考えない』所収)。

 

 家族についても同様である。家族の幸せは何と言ってもご飯を一緒に食べることであり、それゆえに、家族団欒を守るためには、もし貧乏であれば一人くらい人数を減らさねばならないし(「貧乏家族に幸せはやってこない!!」、団欒には触れてはならない禁句が張り巡らされている(「第三の親」)。

 

 こうした法はほとんどの場合、死と暴力とに背中合わせになっており、死の衝動に支配されたものであると言っていい。紋切り型であったものが一巡し、「文字どおりに」「サラリーマン」は組織の一コマであり、厳然とした自然法則のもとにあるかのように物と化す。

 

 この死の衝動が最も端的にあらわされているのが、「地獄のサラリーマン」、「狂気こうもり人間」(『私の彼は意味がない』所収)、「最後の異常者」(『私は何も考えない』所収)などに出てくるこうもりや蜘蛛、えび、ムカデの異様に肥大した姿なのであり、法はこの上なくグロテスクでありながら逃れることのできないものとしてある。

 

 それでは蛭子能収の世界は、その隅々に至るまで方に支配された決定論的な世界なのだろうか。確かに、蛭子マンガの地平線、汗、バストショットなどなどは認識のデッドエンドを、物の不気味なまでの近さを示唆している。

 

 しかしながら、蛭子マンガにはときには法に従いながら、そして必ずしも法から逃れることができるとは限らないながらも、法から脱出するための跳躍台となりうる要素がばらまかれており、それこそが乗り物、しかも常に軌道を離れ、目的地がないかのような乗り物なのである。

 

 ある時はそれは線路を直交し、畳敷きの車両の上でサンバが踊られ、「全く意味のない事を自由気ままにおこなってはたして何を得ることができるかという実験」の行われる電車であろうし、ある時は目的地も意図もないままに背景に浮かぶ「三種の神器」の一つである空飛ぶ円盤であり、とりわけアスファルトを蹴立てて疾走するボートであるだろう。

 

 蛭子世界を浮遊し、目的もなく横切っていく乗り物は、デッドエンドである地平線の規制を受けないものであり、ときには法をかいくぐっていく。乗り物と結びつくのは賭けであり、法によって課された死が死を厭わない賭けによって(「意味のない実験には死ぬ覚悟だって必要って事よ」『実験電車』)乗り越えられるかに思われる。

 

 「賭け」に参与することによって、「偶然」が「必然」ではない保証はどこにもないにしても、法の支配の及ばない偶然を垣間見る。実際、「実験電車」では、男はちぎれた男根をものともせず、崖を車両ごと這い上がり、電車はデットエンドとしての一本の直線とは異なる、地平の彼方へと去っていくのである。