男根消失ともの喰う聖ーー『宇治拾遺物語』

 

宇治拾遺物語 上 全訳注 (講談社学術文庫)

宇治拾遺物語 上 全訳注 (講談社学術文庫)

 

 

 

宇治拾遺物語 下 全訳注 (講談社学術文庫)

宇治拾遺物語 下 全訳注 (講談社学術文庫)

 

 

 鎌倉時代前期の説話集である。権勢を誇った藤原道長の長男、藤原頼道の側近である源隆国(宇治大納言)は、高齢になるに随い、暑さをいとうようになり、夏のあいだは、平等院の南泉坊というところに籠るようになった。平等院が宇治にあることから宇治大納言と呼ばれるようになった。
 
 もとどりを結いわけるおかしな頭をして、むしろを引いて大きな団扇を仰がせながら、行き交う者たちを身分の高い低いにかかわらず、呼び集めては知っている物語を語らせ、自分は室内で横になって、大きな紙に語られていることを書いていった。天竺、唐から日本まで、貴いこともあわれなことも、きたないこと、嘘八百から利口に立ちまわったことまで、様々にあって、『宇治大納言物語』として世の人に面白がられたが、やがて散逸し、『宇治大納言物語』に漏れたもの、書き加えられたもの、その後の話などを集めて『宇治拾遺物語』とされたと前書きには書かれているが、ほとんど根拠のないのちの付けたりだとされている。
 
 『今昔物語』、『古本説話集』、『打聞集』、『古事談』などと重なる話も多く、197話のなかで『今昔物語』と共通するのは80数編に及ぶという。ただ、『今昔物語』では仏教説話と世俗的な話が截然と別たれているのとは異なり、すべてが雑多に並べられていて、仏教に関わる説話にしても、それほど説教集が強くない。たとえのちの人が付け加えたのだとしても、団扇をあおぎながら、あるいはあおがせながら、ねっころがってみちゆくひとのはなしをかきとめているようなざっかけなさがある。
 
 「滝口道則術を習ふ事」は、滝口道則が宣旨を受け、陸奥に下る際、信濃で郡の司のところを宿にした。もてなしを受けた、郡司が郎党を引き連れて出ていったあと、眠れないので起きて周辺を歩いていると、屏風を立てまわして、畳を敷き、香でも焚いているのか、香ばしい香りが立ち上って、女が横たわっている。郡司の心遣いかと、寄り添って横になって、服を脱ぎ、女の懐に入ると、股間にかゆみを覚えたとたん男根がなくなっている。急いで自分の寝所に帰ってみるが、落としたわけでもないのでどこにも見当たらない。なにも言わずに部下たちをやってみるが、喜んでいくものの、すぐ真っ青になって帰ってくる。
 
 次の日、陸奥に向けて出立したとき、後から郡司の部下が追いかけてきて、「急いでいらしたので、お落としになったのでしょう」と白い包みをもってきた。包みを開いてみると、松茸を集めたようなものがあって、ふっと消えた。そして、男根が戻ってきた。
 
 道則はつとめを果たして都に帰ると、再び信濃におもむき、事情を話して術を教えてくれるように頼んだ。できるだけお教えしようと郡司は道則を川の上流に連れて行き、流れてきたものをそれが鬼であろうがなんであろうが、抱けという。ところが恐ろしい大蛇が流れてきて、とてもでないが、見過ごしてしまった。次に流れてきたイノシシは必死になって抱きついたが、大蛇を抱けなかったので、肝心の術は習得できず、つまらぬ術を習って帰ったが、都では評判になった。
 
 仏教がらみでも、「清徳聖きどくの事」などは抹香臭くない。母が死んだので、棺に入れ愛宕山に運び、大きな石を四つ隅に置いてその上に棺を据えて、三年のあいだ、千手観音の呪文を眠ることなく、食べ物も水もとらず過ごした。するとほのかに母の声で、天で仏になったと聞こえてきた。山を下りた聖はとにかく尋常でない量の食物を食べるようになった。一般人には見えないが、餓鬼、畜生、虎狼、犬鳥、など万の鳥獣がつきしたがっていた。
 
 また「東大寺華厳会の事」では、東大寺の御堂建立の昔、鯖を売る老人が来て、経机の上に売るための鯖を置くと、変じて華厳経となり、講説のあいだ梵語をさえずったという説話などは、仏教のありがたさよりは、ユーモラスなところが上まわっている。
 
 源隆国云々の話が当てにならないとしても、集を編んだ人物が往来する人々の話を親しく伝え聞いたということはいかにもありそうなことに思える。