満開の桜の下の秘密ーー坂口安吾『桜の森の満開の下』

 

 

昭和二十二年六月十五日発行の「肉体」に発表された。
 
 古典文学に通暁していた若いころの三島由紀夫が、現実の桜の花を知らなかったというのは、さすがに都市伝説のたぐいだと思うが、私も桜は好きなのだが、現実の桜となるとどうか、そもそも花見に行ったことがない。花見の名所といわれるような所に一度行ってみれば、考えが変わるかもしれないが、上野や千鳥ヶ淵の桜は見たような気がするし、そもそも近くにある桜並木を通っても、ああ咲いてると思って、やや歩くペースが遅くなる位のものである。それ以上なにをしたらいいのかわからないのである。結果的に一番好きな桜は、鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』のなかの桜である。
 
 確かに、この小説の冒頭にあるように、桜の花の咲き方には常軌を逸したばかばかしさがあり、意味を拒否するようなところがある。
 
 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります・・・
 
 梶井基次郎の『桜の樹の下には』では「屍体が埋つてゐる」とあって、これはこれで、丸善の本の上にレモンを置いて出て、爆弾を仕掛けたように思うのと同じく、見事は発見だとは思うが、腐敗物を栄養にして美しく咲くもの、労働を搾取することによって栄華を極める支配層、不気味で混沌とした下層部の上に成り立つ理性的なもの、などと容易に言いかえられて、わかりやすいところがある。梶井の短編は昭和初頭に書かれたもので遙かに先行しており、梶井がおぼえた妙な感じを安吾は別の角度から切り取ってみせた。
 
 江戸時代よりもずっと昔のころ、鈴鹿峠に山賊が住み着いた。むごたらしい男で、街道に出ては着物を剥ぎ、命を奪った。女は連れ帰って女房にした。ところが、八人目の女房となる女が、非常に美しい女であったが、さらうときからどこか「変てこ」なところがあった。女はもといた女房を、ビッコの女を女中として、残りをすべて殺させた。女は大変わがままで、装飾品だけを大事にして、都に帰りたがった。
 
 男も腕に自信があったので、都に出て住むようになった。夜になると女が命じる屋敷に忍び込み、装飾品と屋敷に住む者たちの首を持ち帰った。女は毎日、首で遊んだ。肉が崩れ原形をとどめなくなるのを女は喜んでいた。男は都が嫌いで、退屈で仕方がなかった。
 
 男が山へ帰ると告げると、驚いたことに女もついてくるという。喜んだ男は女を背負って、山に戻っていく。折しも桜の花が満開のころで、満開の桜の下を通ると女は鬼に変じている。必死に振り落として、首を絞め殺すとそれは女房であった女で、男ははじめて涙を流す。
 
 桜の森の満開の下の秘密は、あるいは「孤独」であるのかもしれない、と安吾はいう。しかし、この孤独は意識したとたんに消え失せてしまう。対象となった孤独は、共有される観念となり、癒やされうるものとなって本来性を失ってしまう。
 
 むしろ、秘密の本当の答えは、最後の段落にある。男が女の顔に触れようとしたときにはすでに、そこには桜の花びらばかりが降り積もっており、その花びらをかき分けようとした男の手も桜のなかに消え、「冷めたい虚空がはりつめているばかり」で、ここには人間と物とを仲介する桜の美しさと気が変なばかばかしさがあらわされている。