ある婚約の風景
医療ドラマが好きで、ちょっと自慢なのは初期メンバーがすべていなくなり、ぐずぐずになってしまった『ER』をすべて見たことで、もうちょっと自慢なのは、ハウス(ヒュー・ローリー)という難病にしか興味をもたない狷介な医師のキャラクターにしか牽引力がなく、最後にはバディものとして終わっていく怪作『Dr.HOUSE』も全8シーズンすべて見たことであるが、あいにく誰に向かって自慢したらいいのかわからない。
ということで、『グレイス・アナトミー』の評判を聞いていて、大いに期待していた。題名は、ウィキペディアによれば、19世紀にロンドンで刊行された『グレイの解剖学』のもじりだということだが、もちろんそれ以前には17世紀のロバート・バートンの『憂鬱の解剖学』があり、ついでにいえば20世紀のノースラップ・フライの『批評の解剖学』もあるわけだから、人間の本性を容赦なく解体することによって、生物としての特殊性と普遍性とを腑分けしていくようなシリーズかと思っていた。
ところが、あにはからんや、『ER』のようにメンバーが頻繁に入れかわることもなく、同じメンバーが組み合わせを変えてくっついたり別れたりするばかりで、なにより医療ドラマの一番の魅力は、病院では誰でも地位も身分もはぎ取られ、平場のなかにおかれることにあり、患者は物のように修理され、医者はロボットのように働き続ける。ところが、医師や研修生の恋愛模様のなかでは、病院は医師中心のシステムに過ぎず、時々思いだしたかのように挟まれるヒューマニズムが鼻につく。
ついでに、主人公のメレディスが性格的にも外見的にも個人的にまったく魅力を感じないタイプだったことがあり、それでも第3シリーズ位まではいらいらしながら見て、その後のシリーズの要約を読むと、そのまま延々と同じことが続くらしいことを知って挫折した。
もともと恋愛ものは苦手で、とはいっても、ハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』のような、仕事の上で競っていくうちに惹かれ合うようになり、最終的に一緒になるタイプの映画は大好きで、そもそもホークスは『リオ・ブラボー』にしろ、『ハタリ!』にしろ、そうした恋愛ばかりを描いていた。
同じく好みなのは、言いかたは悪いが生ぬるい恋愛もので、たとえば、BBCで放送され、アマゾン・プライムでも見ることができる『私立探偵ストライク』などは、探偵と女性の助手というある意味定型通りの二人が、しかし助手にはすでに婚約者がおり、気遣いと好意と遠慮の駆け引きというよりは慎みがどちらにもあって、最後の着地点も今時珍しい粋なものだった。
恋愛ものが苦手なのは、ラクロの『危険な関係』やスタンダールの『赤と黒』のような心理的な駆け引きが主になるならばともかく、とかく心情によって状況が停滞することにあって、さらには結婚(必ずしもそうした法的な形をとることがなくとも)が到達点としてあるからである。実際には、結婚は愛や恋などとは必ずしも一致しない他人が共に生活をするという異なった問題系に入ることになるのだが、そうした結節点を明瞭に描いたものは案外少ない。
いまどきそんなことをするものがいるのかどうか、少なくとも私がこれまで知り合ったなかで、した人間を見たことがないのだが、婚約というのは妙な位置づけにあって楽しいのかどうかはさっぱりわからないが、幻想を喚起する。
少なくともある時代の人間にとって、巨大なタービンの役割を果たし、大きえなエネルギーを生みだしたことはカフカのフェリーツェに当てた膨大な手紙やキルケゴールがレギーネとの婚約とその解消を念頭に置いて書いたこれまた膨大な著作からも容易に見て取れる。
- 作者: セーレン・キルケゴール,中里巧,飯島宗享
- 出版社/メーカー: 未知谷
- 発売日: 2000/08/01
- メディア: 単行本
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(新刊で手に入るということで、この本をあげましたが、私が読み、参照しているのは、白水社刊の浅井真男訳のものです。)
キルケゴールは1813年に生まれたが、1840年頃、つまり27歳のとき、10歳年下のレギーネに熱烈な恋をした。『あれか、これか』を訳した浅井真男の解説によれば、婚約が交わされたあとも紆余曲折があったようで、レギーネはキルケゴールの態度に不満を抱き、婚約を承諾したのは同情によるものだと反発するときもあったが、その後は打って変わって献身的になり、その代わりにキルケゴールのほうが婚約を破棄しなければならないと決心、レギーネの家族揃ってその決心を翻そうとしても、決意は変わらず、挙げ句の果てには外見上だけは婚約を破棄したことにしようとまで主張したそうである。ここまでくると、結局、外見上の破棄というのがどういうことなのか、私には皆目見当がつかない。
キルケゴールが結婚できないと考えていた背景には、父親が過去に犯した過ちがあるとされている。はっきりとはしていないのだが、女性に性的暴行を加えた、あるいは神を呪ったということが原因で、父親自身が大きな罪の意識を背負っており、その罪に対する罰により自分の子供たちはすべて若くして死ぬと考えていたらしい。
そのことを書いた手記がキルケゴールに大きな影響を与えたというのだが、その手記を読んだのはレギーネに婚約を申し込む2年ほど前のことであり、いささか反応が遅すぎるように思うが、そんなことを忘れさせるほどレギーネが美しかったのかもしれないし、自ら「地震」と名づけたその出来事を反省するのにある程度の時間が必要であったのかもしれない。
結局、ほぼ一年後に婚約は破棄されることになったのだが、その2年後、1843年には婚約破棄の弁明書ともいえる二巻本の大著『あれか、これか』(白水社の著作集だと4冊にわたる)を刊行する。匿名で出版されたが、作者がキルケゴールであることはほとんど公然の事実だったようである。
書物自体の構成は複雑で、それぞれの巻の著者は別人で、異なった立場を有しており、第一部の著者がエロス的、美学的段階に立つ一方、第二部の著者は倫理的段階を擁護する。美学的段階を具体的に示すのが、ドン・ジュアンであり、誘惑者であるなら、倫理的段階を示すのが結婚である。後のキルケゴールにはこの二つの段階に加えて、宗教的段階が加わることになる。
一筋縄ではいかないのは、段階といっても、一方が他方の上にあると方向づけられているわけではないことである。エッシャーの階段のように、倫理的段階をのぼっているつもりが美学的段階をのぼり、その逆もまたある。そもそも『死に至る病』や『不安の概念』をもって、キルケゴールを憂愁の哲学者ととらえるのは私は断然反対であり、同じキリスト教作家を引き合いに出すなら、最も近いのはチェスタトンあたりだと思う。
「誘惑者の日記」の一節(ちなみにこれは『あれか、これか』でエロス的、美学的段階に立つ人物の日記という体裁になっている)。
ある若い娘が婚約を破棄したが、その理由は、彼女と相手が互いにぴったりしないということだった。相手の男は彼女に分別を取り戻させようとして、自分がいかに彼女を愛しているかを断言した。そこで娘は答えた、私たちがお互いにぴったりしていて、ほんとうに同感というものが存在するとしたら、あなたは、私たちがお互いにぴったりしていないことを悟ることでしょう。それとも私たちがお互いにぴったりしていないのならば、あなたは、私たちがお互いにぴったりしていないことを悟るでしょう、と。
まさにこうした部分などは、愛の表明が冗談のなかの真実にはかなわないことを示している。