トポロジー的身体――『あたま山』

 

  実はこの噺を落語として聞いてことがあるかどうかはっきりしない。談志百席は半分以上は聞いているのだが、このCDは聞いていない。先日古今亭志ん生の『庚申侍』を聞いていたら、まくらで、もちろん手早くではあるが、そっくりそのままこの噺を語っていた。私がもっている志ん生のCDは録音時日や場所の記述がまったくなく、いまCDで販売されている『庚申侍』が同じ音源かどうかわからないので、談志のものをあげておく。

 

 しかし、落語の噺としては相当古くから私にはなじみのある噺なので、なんらかの形で聞いたことはあるのだろう。あるいは、絵本や昔話などのなかで読んだのかもしれない。

 

 武藤禎夫編『江戸小咄事典』によれば、『あたま山』のもとになっているのは安永二年の『口拍子』にある小咄だという。

 

 先に『あたま山』の筋をいうと、けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男、世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。


 小咄の方はこうである。神田にお玉が池があるが、実はあたまの池である。昔、この辺りに棲んでいた男のあたまに池ができて、鮒や金魚が棲むようになる。珍しいといって遠近から群衆が集るようになった。息子は外聞も悪いし、見物の来ないようにしたいから、山の手からあたまの池を拝見に参りました、という人に向かい、せっかくですが、父は世上の沙汰がいやになり、夜前、あたまの池へ身を投げました。


 お玉が池は、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。


 つまり、この小咄は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。また、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。

 

 良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話である。


 より落語に近い類話もある。安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。

 

 自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答える。自分の頭の池に身を投げる方法が説かれているのがいちばん大きい相違である。

 

 煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。


 川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である『あたま山』を一席の落語として演じたのは、八代目林家正蔵だけだったそうだ。正蔵はサゲの自分の頭に身を投げる方法について、紐を縫うとき、最初は針目を上にして、それから物差しをあてがってひっくり返す、それと同じで、頭の池にめくり込めばみんな入っちゃう、と説明したという。


 アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことがあたま池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。

 

 しかし、この解釈は私には疑問だった。『あたま山』の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。