人生の日曜日ーージャック・タチ『ぼくの伯父さんの休暇』(1953年、1978年)
脚本、ジャック・タチ、アンリ・マルク。撮影、ジャン・ムーセル、ジャック・メルカントン。
ジャック・タチを本当に久しぶりに見て、おそらくは学生のとき以来で、その当時軽んじていたことやその他映画とは関係のないことまで思いだし、妙に恥ずかしくなった。記憶をたぐり寄せてみると、ジャック・タチはエリック・サティなどと同じく、西部セゾン系に分類されるようなおしゃれなものに属していて、私はそれらを憎悪するほど鬱屈してはいなかったが、どちらかといえば無縁なものだと思っていた。
それに当時は笑いといえば、マルクス兄弟やモンティ・パイソンにのぼせていたので、タチはいかにも微温的なものに思われた。フランス映画の墓掘り人といわれたトリュフォー以下、ゴダールやリヴェット、ロメールが批評家として活躍していた「カイエ・デュ・シネマ」でも、タチはルノワールやブレッソンと同じく、数少ないフランスの「作家」として敬愛されていたと思うが、そもそもヌーヴェルヴァーグの映画も「おしゃれ」の方に入っていたので、さほど影響力をもたなかったし、ゴダールやロメールの映画などは(リヴェットはもちろん)新作ならともかく、過去の作品ともなると名画座などではほとんどかけられていなかったように思う。
フィルム・センターや日仏学院での上映は、あるいはあったかもしれないが、あまりにアカデミックな場所で、こちらは「おしゃれ」なものによりは多少の憎悪が入り交じっていたので、足を向けることはなかった。
ジャック・タチは1907年、ジョン・ウェインやキャサリン・ヘプバーンと同じ年に生まれ、1933年からミュージック・ホールの舞台に立ち、映画俳優としてもルネ・クレマンとの短編『左側に気をつけろ』やクロード・オータン=ララの『肉体の悪魔』などに出演し、1949年に『のんき大将脱線の巻』で長編の監督としてデビューした。
続いて長編監督第3作にあたる『ぼくの伯父さん』が日本では先に公開されたために、また第2作である『ぼくの伯父さんの休暇』によってユロ氏というキャラクターが完成されて、それ以降もこのキャラクターが共通していたため、日本では『ぼくの伯父さんの休暇』という題で公開されたが、特に話につながりがあるわけではなく、また、題名だけ見ると、『ぼくの伯父さん』があって『ぼくの伯父さんの休暇』があるように思えるが、実は順序は逆である。
タチは30年代、ほぼ舞台に立ち始めたころから、映画に興味をもち、友人などといっしょに短編を撮っていた。死んだのが1982年で、30年以上のあいだに晩年にスウェーデンのテレビ局から頼まれて撮ったというテレビ映画を含めても6作というのは、いかにも寡作だが、今回知って驚いたのは、タチがある種の完璧主義者であり、たとえばこの『ぼくの伯父さんの休暇』についても、3種の異なるヴァージョンがあるということだった。
1953年に最初のバージョンが発表されてから、58年には再編集されカットされた場面も多かった。さらに1978年には、海で乗っていたユロ氏のカヌーが真ん中から二つに折れ、ちょうど前の部分と後ろの部分とが重なって、サメのようになり、浜辺の人たちが驚いて逃げ出す場面があるが、この場面はスピルバーグの『ジョーズ』を見て付け足された。
特に物語らしい物語はなく、海辺でヴァカンスを過ごす者たちとユロ氏とのなんということもない日々が描かれる。タチがこんなに大柄だったかというのも改めての再発見で、目見当だが、モンティ・パイソンの馬鹿歩きで有名なジョン・クリースと同じ位の背丈なのではないだろうか。そして、この映画のなかのテニスの場面は、なんでも売っているような観光地特有の店で教えられた通りに、地面と面の部分を水平にしたラケットを一度くいっと前に出し、サーブを打つたまらなくおかしな振りで、馬鹿歩きと同じくらい笑った。
ヴァカンスは、日本の休日とは異なり、観光地をせわしなく巡ることはなく、いつもとは違う場所で、この映画の場合では海辺で、無為な一日を繰り返す。冒頭十分は鉄道のホームでヴァカンスに向かう群衆が右往左往し、車で向かう者たちが行き交い、テーマ曲と自然音だけで会話は一切ない。
ユロ氏がその巨漢には小さすぎる、しかもエンジンの調子が悪く破裂音を始終鳴らして走る車で、海辺のホテルにたどり着き、クロークで、手には荷物、口にはパイプをくわえているもので、名前をいってもなんだかよく聞き取れない。ホテルのものがパイプをとって、ユロと自分の名前を告げるのが初めての台詞である。
それから、ワンダーホーゲル部の若者を助けたり、葬儀の最中に紛れ込んでしまったり、壊れた車が他人の敷地に入ってしまい、犬に追いかけられたり、大量の花火を暴発させてしまったり細々とした出来事は起きるのだが、休暇は無事に終わり、新たに知り合った人々はそれぞれの住所を交換して、それぞれに帰って行く。
無人の浜辺が絵はがきになって映画は終わる一種の枠物語なのだが、こうしたなにも起きない、伸びやかで無為な時間は「人生の日曜日」を思わせる。
これはもともとはヘーゲルの用語で、フランスの小説家、レイモン・クノーは『人生の日曜日』という小説を書いている。クノーは映画では、ルイ・マルの『地下鉄のザジ』の原作者として有名であり、ボリス・ヴィアンをいち早く発見・評価し、数々の小説を書いているのだが、一方で、哲学についても専門家であり、アレクサンドル・コジェーヴがヘーゲルの『精神現象学』について行った講義を編纂してもいる。
「人生の日曜日」という考えは、『エンチクロペディー』の冒頭におかれた「ベルリン大学における哲学教官就任に際しての告示」のなかで説かれている。翻訳では「生活の日曜日」となっている。
哲学との交わりは生活の日曜日とみなされるべきである。普通の市民生活のなかで、人間が有限な現実のなかへ没頭して{いる}外面的生活の平日の仕事、必要に迫られての諸関心事――と、人間がこの仕事をやめて、目を地上から天へ向け、彼の本質の永遠性、神性を意識する日曜日、この両者に時間が分けられて{いる}というのはもっともすばらしい制度の一つである。人間は週を通じて日曜日のためにはたらくのであり、平日の労働のために日曜日をもっているのではない。そういうわけで哲学は意識――目的それ自体――であり、そしてあらゆる目的は哲学のためにあるのである。(真下信一・宮本十蔵訳)
哲学との交わりになっているかはともかく、目的のない無為のための無為は、あるいは誰にでもある時期に存在したものなのかもしれないが、それを映画で「表現」することは最も困難なことのひとつであり、この作品はそれに見事に成功している。