不可侵で空白な空間ーードニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』

 

運命論者ジャックとその主人

運命論者ジャックとその主人

 

  

ジャックとその主人

ジャックとその主人

 

 

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 

ディドロの『運命論者弱とその主人』は、私は筑摩書房世界文学大系に収められた尾場瀬卓三の訳で読んだので、引用文など多少の相違があるかもしれません。)

 

 『運命論者ジャックとその主人』は、1778年から1780年にかけて『文学通信』に連載された。実際に書かれたのはそれよりも前で、はっきりした日付はわからないが、1773年、ディドロが六十歳の頃、ロシアにエカテリーナ二世を表敬訪問していたときに完成したというのが通説になっている。だが、ディドロの生前、この小説が刊行されることはなかった。『運命論者ジャックとその主人』ばかりでなく、ディドロが書いた小説の他の代表的な作品、『修道女』、『ラモーの甥』も生前には刊行されていない。
 
 現在でも小説家ディドロに対する冷遇は変わっていないと言えるかもしれない。『百科全書』編集者としてのディドロ、『盲人書簡』や『ダランベールの夢』の哲学者としてのディドロはともかく、『俳優に関する逆説』の演劇理論家としてのディドロ、展覧界評などにみられる美術批評家のディドロと比較しても、小説家としてのディドロが多く語られているようではないのである。
 
 そして、それらのディドロの小説のなかでも『運命論者ジャックとその主人』は「構成がない」あるいは「散漫」だということで低い評価に甘んじていた。このことは、ディドロが『運命論者ジャックとその主人』を書くにあたって大きな影響を受けたローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』が正統な文学史からは鬼っ子めいた扱いを受けてきたことと即応している。
 
 とはいえ、『トリストラム・シャンディ』のほうは二十世紀後半以降、実験的なメタフィクションが多く産出されるにしたがって、十八世紀と二十世紀をつなぐ重要な作品として文学史的に評価されている。一方、『運命論者ジャックとその主人』はいまだにディドロの全著作からも、文学史からも傍流の作品として扱われているのである。
 
 ところで、ディドロにおいてはなによりも小説家ディドロを、その小説においてはなによりも『運命論者ジャックとその主人』をもっとも実りあるものとして称讃している現代作家がミラン・クンデラである。
 
    劇作家としてのディドロは無視しうる存在であるし、ぎりぎり、この偉大な百科全書派の試論群を知らなくても、哲学史はなんとか把握出来る。しかし、『運命論者ジャック』を無視すれば、小説の歴史は理解不能にして不完全なものになると主張せざるをえない。この小説が、もっぱらディドロの作品の一つとして扱われ、小説の歴史全体のなかで研究されていないのは不運なことだ。この作品の真価は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥールケ』といった著作と比較することによって初めて認識できるものなのだ。
     (一つの変奏曲への序文 『ジャックとその主人』)

 

   
 クンデラにとってディドロの『運命論者ジャックとその主人』は、『トリストラム・シャンディ』とともにいわゆる外部にある「現実」をいかに本当らしく描くかという十九世紀を覆った写実主義的、自然主義的文学、そしてそれこそを正統的な文学だとする通念によって摘みとられた、小説のまったく異なった可能性の一つの方向を示唆するものなのである。
 
 つまり、カフカが「夢と現実との融合」を成功することによって小説に夢の呼びかけを取り戻し、ムジールブロッホが「人間の存在を解明し、小説として最高度の知的綜合たらしめることのできるあらゆる方法」を動員できるようにするために思考の呼びかけを、アラゴンフエンテスプルースト的な個人の記憶から時間を解き放し「小説の空間のなかにさまざまの歴史的時間を導入」することによって時間の呼びかけを発見したように、ディドロとスターンは小説における遊びを発見したのである。
 
  
 <遊びの呼びかけ>--ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とドニ・ディドロの『運命論者ジャック』は、現在のところ私には、十八世紀のもっとも偉大な二つの小説作品、壮大な遊びとして構想された二つの小説のように思われます。この二つの作品は、空前絶後の、軽妙さの二大頂点です。これ以後の小説は、ほんとうらしさの要請やら、写実主義的背景やら、厳密な年代学やらで自分を縛ってしまいました。この二大傑作に含まれていたさまざまの可能性は捨て去られてしまいましたが、この二つの傑作は、今日、私たちが知っているものとは別の小説の展開(そうです、ヨーロッパの小説のもうひとつの歴史を想像してみることもできるのです)を作り出すことができたのです。
         (『小説の精神』)

 

   
 クンデラは1968年、ソ連軍侵攻後のプラハで、著作が全面的に発禁となり、収入を得る道を失う。そんななかある演出家の勧めがきっかけで『運命論者ジャックとその主人』の脚色、本人の言葉で言えば、ディドロへのオマージュでありディドロをもとにした変奏曲に着手する(本来その演出家がもちかけた企画はドストエフスキーの『白痴』を脚色することだった!)。周知のように、クンデラは自ら未熟、失敗だと思う文章については「作品」として認めず、出版も許さない。『ジャックとその主人』は戯曲としてはクンデラが唯一自分の「作品」として承認したものなのである。
                
 『運命論者ジャックとその主人』はいくつもの対話から成り立っている。その柱となるのはジャックと主人の対話で、この小説の内容は、ジャックが主人に語り始めた自分の恋の話
 
「主人 それじゃおまえは恋をしたことがあるんだな?
ジャック 恋をしたことがあるかですって!
主人 それも鉄砲の一発でさ。
ジャック 一発で。
主人 そんな話はかつてしたことがなかったぞ。
ジャック しなかったでしょうな。
主人 なぜだ?
ジャック そりゃ、これより早くでも、これよりあとでもありえなかったからでしょう。
主人 その恋の話を承る時機到来ってわけか?
ジャック 分るもんですか?
主人 いつでも、まったくことのはずみで、始まるんだ・・・・・・。」

 

それが、度重なる逸脱、妨害によって遂に語り終えられることがない、ということにつきる。「ことのはずみで」始まった話らしく、逸脱と妨害もまたいかにもことのはずみであって、話しているうちに別の話に入り込んでしまう、別の人間が割り込んで別の話を始める、話を中断せずにおれない事件が起こる、
 
 それに作者の気まぐれ
 
「読者諸君、ごらんのとおり、いま話は佳境に入っているが、ぼくはジャックを主人から引き離して、彼ら両人をそれぞれ、私の気に向いたいろんな偶発事件にめぐり合うことにして、ジャックの恋物語を諸君に一年でも、二年でも、三年でも待たせることができる。」
 
まで加わる。
 
 さまざまな形式の文章も、また、ノンシャランに混在している。三人称の地の文、戯曲風の対話、作者の意見、作者と読者との対話。こうした自由さ、悪く言えば統一感のなさは、「散漫」だなどと批評家に言われるまでもなく、著者自身自覚的であって、作中に登場する読者に「あなたの『ジャック』は、いろんな事実、あるものは本当の、あるものは思いついた事実の無味乾燥な狂想曲で、文章は優雅でなく、事実は何の秩序もなく配列されています」と言わせている。
 
 だが、こうした特徴、つまり、物語の中に物語が入れ子状に入っていたり、起承転結のしっかりした構成をもっていないというようなことは、そうした特徴において際だっているものの、ディドロがこの小説を書いたフランス十八世紀とは場所も時代も異なるところで生まれた別の作品と、単純に似ていると比較することはできない。
 
 例えば、『運命論者ジャックとその主人』では、ジャックの恋の話の間に様々な話が繰り返し挿入されるが、『千夜一夜物語』のようではない。シャーラザードの語る物語の登場人物が物語を語り始め、そこに登場するまた別の人物がまた違う物語を語り始め、更にその登場人物が、という眩暈を引き起こすような重層的な入れ子構造、物語の迷宮に入り込むような感覚はディドロの小説にはない。
 
 また、ディドロの小説では「事実は何の秩序もなく配列」されているとはいっても、それは、間歇的に自分の作品に新たなものを書き加え、しかもその完結が少しも完結らしくない川端康成のようではない。かつて三島由紀夫は、川端康成の作品という一見「美麗な錦」には人間的概念にはまったく通じないような「暗黒の穴」が方々に開いていると言った(「川端康成氏再説」)。ディドロは小説の慣習を大胆に打ち壊し、ときには従来の価値の転倒を行なうかもしれないが、それによって人間的価値には無縁な暗黒がのぞくようなことはないのである。
 
 これら西欧とは異なったところで生み出された作品とディドロの『運命論者ジャックとその主人』が異なるのは、この小説がどれだけ自由な遊びに満ちあふれているにしても、あくまで遊びを宰領している作者の位置が揺るがないところである。
 
 確かに『千夜一夜物語』のシャーラザードは「千一夜」のすべての物語を語る者ではあるが、その作品内の立場においては、物語ることを止めるやいなや殺されてしまう脆弱な存在である。更に、残忍な王が求めているのはシャーラザードその人ではなく、彼女が語る物語であることからも理解されるように、彼女の一人の人間としての固有性は物語のなかに完全に埋没してしまっている。シャーラザードは、千一夜の物語を終え、王の愛を得ると同時に物語から解放される瞬間までは、王と物語とに二重に拘束された存在にとどまるのである。
 
 だが、『運命論者ジャックとその主人』に登場する作者は、他のどんな登場人物によっても、語られる物語によっても傷つけられることはない。作者はすべての登場人物を自由に操る力をもっている(「ジャックをあっちこっちの島に出帆させてもよい。主人をそこへ連れて行ってもいい。両人を同じ船に乗せてフランスに連れ帰ることに、何の差障りがあろう?根も葉もない話を作るのは、なんてやさしいんだ!しかし両人ともありがたがらぬ一夜を過ごしただけで無事に事はすみ、諸君もまたこの一夜だけで無罪放免だ。」)。
 
 また、同じような理由によって、ジャックが抱懐する運命論を裏切るように、前後の脈絡のはっきりしない不意の出来事が主従二人を見舞うのだが、その出来事の繋ぎ目からのぞくのは人間の価値や概念の届かない暗黒の穴であるよりは、ある人間の軽やかな精神の戯れなのである。ここには同じ十八世紀の作家であるサドのような、世界をすべて説明しつくしてしまおうとする理性の凶暴なまでの行使はないが、遊びに特有の、規則(たとえそれが自分でつくったものであるにしても)とその遵守に必要な理性の監視が常に働いているのである。
                                   
 フロイトが指摘する機知とユーモアの類似点は、どちらの快感も節約に由来することにある。機知は、言葉遊びや冗談のなかに社会的配慮から抑制している事柄を滑り込ませる。つまり、抑制が節約される。
 
 一方、ユーモアは感情が節約される。月曜日に絞首台に引かれていく罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言う。我々は罪人がなんらかの感情、怒りや悲しみや絶望をあらわにすることを予想する。だが、罪人はどんな感情をあらわすこともなく平然とうそぶく。つまり、感情が節約される。これらのことは、より古典的な言葉で、緊張と緩和といってもいいだろう。抑制や感情によって緊張の高まるべきときにそれがはぐらかされ、緩和される。
 
 しかしながら、異なるところも大きい。なにより、機知は社会的なものであり、第三者や観客を必要とする。機知は社会的な慣習によって形成される抑制を相手にするからである。社会的慣習による抑制があるために直接的には口に出せないことを機知に託すのであるから、社会的に、それを聞く第三者に認められなければ機知の勝利はあり得ない。それゆえ、機知は、言っていいことと言ってはいけないことが厳密に定まってはいるものの、言ってはいけないことの言い方とその巧拙の基準も複雑に規定されているようなサロンや社交界、あるいは芸能の分野などで発達し洗練される。
 
 だが、ユーモアの方は、それを認める第三者が不可欠なわけではない。死刑囚のユーモアに勝利があるとすれば、それは彼の言うことを第三者が笑うことではなく、深刻な状況を前にして「今週も幸先がいいらしいぞ」と言うことそのことのうちにある。ここにユーモア特有の「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」があり、「自我は現実の側からの誘因によって傷つけられること、苦悩を押しつけられることをこばみ、外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示する」(「ユーモア」高橋義孝池田紘一訳)のである。
 
 フロイトは、機知、滑稽、ユーモアは、いずれも我々の失われた幼児期を取り戻そうとする試みのあらわれだとしている。
 
その三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示しているという点で一致する。というのは、われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならないのである。
  (『機知-その無意識との関係-』)
 

 

 だが、ユーモアと機知や滑稽と子供との関係は異なる。機知と滑稽は子供にも認められるが、ユーモアはどうだろうか。親などの身近な人物がいれば、つまり最小限の社会的なものがあれば、機知や滑稽は働き出す。確かに、子供に社交界での機知を求めることはできないが、どういうことを言えば周囲の大人が喜ぶかについては子供は十分に意識的である。
 
 子供の機知と大人の機知の相違は、そしてその幸福感の違いは、子供の機知は、彼、あるいは彼女が言ったからこそ笑い、賞賛するのだという無条件の肯定に支えられているのに対し、大人の機知はその内容やその人物の社会的地位や人格によって判断を経た上で受け入れられることにある。
 
 他方、ユーモラスな子供というのはやや違和感がある。言い換えれば、ユーモアというものが、あまりに子供の存在と密着しているので、ユーモアとして際立つことがない。ユーモア特有の「自我の不可侵性」とは子供のもつ全能感のことに他ならない。ユーモアというのは、存在に密着したものなので、機知のように、その時々の精神の閃きというよりは、生存の様式として捉えられるものなのである。
 
 機知が価値をずらすことによって世界をゲリラ的に攪乱していくとすれば、ユーモアはいま棲むこの世界の侵入を許さない独自のもう一つの、生存の様式、世界をつくろうとしている、と言ってもいいかもしれない。
 
 ディドロは新しい空間を創造したのだ、とクンデラが言うとき、その空間はユーモアのつくり出す「不可侵」な世界に近く、『運命論者ジャックとその主人』はユーモラスな人物や事件が描かれているためではなく、ユーモアをもって書かれた作品という意味でユーモア小説と言うことができるだろう。
 
ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。
     (『ジャックとその主人』)

 

 
 クンデラディドロの作品を劇化するにあたって、舞台装置の全くない空白の空間で劇が進行するようにしたが、この何もない空間は、なんでも受け入れられる、しかし何によっても壊されることのない空間である。この空間、あるいはディドロの世界にとって「不可侵」であるべきものとは、空間そのものではない。空間に関しては、通りすがりの誰かが入ろうが、読者が参加しようが、作者が姿を見せようが一向に差し支えない。また、どんな意想外の事件が起きようとも、この空間にはその意想外の出来事に背反するような背景がないから、それによって空間が壊れるようなことはない。
 
 ただ一つ、この空間が譲ることのできない「不可侵」なものとは、誰でも入ることができ、どんなことでも起きることが可能だという空間の空白そのものである。なには入ってもいいがなには入ってはいけないというような排除と選別の原理を導入すること、空白を色づけするような行為だけは避けなければならないだろう。そして、この空間の性質は、ジャックが抱懐する運命論と正確に照応している。すべてを前世の因縁で説明するジャックに対して主人は言う。
 
 主人 しかし、お前の論法でゆくと、罪なんてものはなくなっちまい、罪を犯しても悔悟しないことになる。
 ジャック いま旦那さまのおっしゃってることは、一度ならずあっしの頭をくちゃくちゃにしました。しかしそうしたことがあったにもかかわらず、われにもあらず、たえずあっしの念頭にうかぶのは、隊長の「この世でわれわれの身に起こることは、いいことにしろ、わるいことにしろ、すべて前世の因縁だ」という言葉でした。旦那さま、あなたはこの因縁を消す何らかの手をご存じですか?あっしが自分でないことができますか?自分であって、自分とはちがったふうに振舞うことができますか?自分であって他人であることができますか?それに、あっしがこの世に生まれて以来、いま申しあげたことが真実でない瞬間が、いっときだってありましたか?すきなだけごたくをお並べなさいまし。旦那さまの理屈は、たぶん結構なものでしょう。しかしあっしのなかにか、あるいは前世にか、あっしが旦那さまの理屈はなってない理屈だと思うということが書きこまれてるんでさ。しようがないじゃありませんか?
 主人 おれはあることを考えているんだ。それは、お前の恩人は前世の因縁で決められていたからコキュになったのか、それとも、お前が恩人をコキュにするから、前世の因縁がそうなっていたのか、ということだ。
 ジャック その両方が並んで書いてあったんでしょうね。全部いっときに書かれたんです。それは少しずつひろげてみる大きな巻物みたいなものでして・・・・・・。

 

 
 ジャックの運命論とは、いいことであれ悪いことであれ無差別に受け入れることのできる空間の枠組みであり巻物でしかないのである。実際、この運命論によってジャックの行動や感情が変化するわけではない。なにごとも運命で決まっていると考えるから、喜びも悲しみもないかといえばそんなことはない。なにをするにしても結果は決まっているのだから、行動が投げやりになるかといえば、そういうこともない。「彼は不幸を予防しようと努めた。彼は慎重さにたいして最大の軽侮の念を抱いていたが、慎重だった。(・・・)要するに、善人で、率直で、誠実で、勇敢で、主人思いで、忠実で、きわめて頑固で、さらにそれに輪をかけたおしゃべり」であるジャックの性格を運命論が変えることはない。
 
 ジャックの運命論が受け入れることのできない唯一のことは、「そうあらざるをえなかったんだ、だって前世からそうきまってるんだから」と上機嫌にすべてを受け入れることのできる自身の運命論の枠組み自体を否定されること、その一点につきる。
 
 しかしながら、このことは、逆に言えば、その一点においてディドロの小説やジャックの運命論が支えられていることを意味する。そして、十八世紀のフランスに生きたディドロの「幸福な無為」(クンデラ)、空白な空間をただ一点で支えることのできる力、現実世界が侵入することのできない自己というものはいつの間にか失われているようなのである。
 
 そのことは、同じようにほとんど背景のない空白の空間を舞台にするベケットの戯曲やブランショの小説がディドロのように揺るぎない空間を保持しえていないことにも見て取れる。彼らの戯曲や小説ではその空間が常に崩壊の予感にさらされているかのように思える。
 
 「ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つということは、それが、強迫的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編みだしたあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境などをも含んでいるあの系列に属するものであるということを意味する」(「ユーモア」)とフロイトは言うが、ユーモアは既に空白の空間を支えきることができず、他の「諸方法」の影響が空間全体に瀰漫しているかのようなのである。