消えゆく媒介者――古今亭志ん生『鮑のし』

 

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

 

  能や歌舞伎の場合、言葉や古典の教養の無さが障害になることがある。下手をするとどういう物語かわからぬまま芝居が終わってしまうこともある。さすがに落語では、そこまで言葉や古典的教養の有無が理解を妨げることはない。吉原や長屋がなくなったといっても、性風俗や隣近所とのつきあいのことを考えれば、実感こそ伴わないとしても、想像はできる。


 あるいは、もっともわかりにくいのは祝儀不祝儀ではないだろうか。セックスや生活は否が応でもついて回るが、祝儀不祝儀は晴れ着や喪服と同じように日常的に経験するものではないからだ。もちろん、まったく経験しないことは考えにくいが、いまでは古くからの儀式や形式ぬきで生涯を終えることも十分に考えられる。正直いって、熨斗と水引の相違さえはっきりしなかった私は、はじめてこの噺を聞いたときぴんとこなかった。


 仕事にあぶれ、金がなく喰うものにさえ事欠く甚兵衛に女房が知恵を授けた。まず山田の旦那から五十銭借りてくる。貸してくれないよ、と甚兵衛は言うのだが、私の名前を言えば大丈夫だからと送りだされる。確かに金を貸してくれといってもないというだけだったのが、女房の名前を出すとすぐに貸してくれる。女房のほうは、町内でもしっかり者で通っており、信頼度が抜群に高いのだ。

 

 その金で魚屋へ行き、一番安い尾頭つきの魚を買うよう言われる。ところが魚はみな売れてしまっており、鯛だけが残っているが、もちろんそんな高価な魚は買えない。仕方がないので、鮑を買って帰る。ちょうど大家の息子が嫁を取るので、お祝いをもっていけば、お返しに一円はくれるだろう。半分の五十銭は山田の旦那に返し、残りの金で飯を食べようというわけである。

 

 口上まで教わって甚兵衛は大家の家に行くが、「磯の鮑の片思い」ということを知らないのかい、と問われ、ついこれまでの事情を洗いざらいしゃべってしまう。ここでは女房の信頼度の高さが逆に働き、礼儀に通じているはずのおかみさんが知ってるならこれは受け取れない、と突き返される。

 

 とぼとぼと帰る途中であったのが鳶の頭、もう一回大家のところに行って、お宅では熨斗で包んだお祝いものを縁起が悪いからといって熨斗だけとって返すのか仲のよい夫婦がつくる熨斗のどこが縁起が悪い、と言ってやれ。大家にその通りにいうと、さすがの大家も返す言葉がないが、熨斗ののの字は乃とも書くが、あれはどういうわけだと聞いてきた。あれは鮑のおじいさんです。


 ぴんとこなかったのも当然で、鮑でつくった熨斗など、無論使ったことがないし、現物を眼に見たことさえない。芝居とは異なり、落語は言葉だけで成り立つ部分が多いので、物を見せるわけにも行かない。落語を理解するには、落語の外に出なければならないのである。そうした部分が、ある種落語のわかりにくさともなるが、風通しのよさともなる。

 

 立川談志は「伝統を現在に」とも、「落語国のリアリティ」ともよく言ったが、自分の才能に対する自負もあっただろうが、落語のもつ風通しのよさに敏感に反応したものとも思える。


 この噺で奇妙な点は、町内でもしっかり者で有名な女房が途中からすっかり姿を消してしまうことにある。あえて鳶の頭をだすまでもなく、見事な算段をした女房が機転をきかせてもよかったはずだ。しかしまた、女房が姿を消すというのは、ドメスティックな空間が社会的な、落語国(鳶の頭は女房には欠けていた知恵と啖呵の切り方という行動の作法まで教えてくれる)へと変じることでもあり、そうするとこの噺は二重の意味で落語の風通しのよさを伝えていることになる。