公認せられざる怪物――古今亭志ん生『一眼国』

 

  スイフトの『ガリヴァー旅行記』を読めばわかるように、「他国人」と人間との縮尺の相違は風刺的意図をもった。風刺的とはいえないが、サドの登場人物では、性器のグロテスクな形状が容赦のない残忍性をもつ指標となっている。


 また、ドラキュラや狼男などの古典的怪物から、シュルレアリストの生みだしたデペイズマンによる怪物、ゾンビに到るまで、あらゆる怪物は寓意的な意味合いをもたざるをえない。

 

 欠損から生じたものにせよ、過剰から生じたものにせよ、怪物は人間と認識論的、存在論的に定位づけが異なり、そのあり方を少しでも描こうとするなら、人間との差違は際だち、風刺的寓意的な意図が発生する。

 

 幽霊のようなものにしても同様であり、恨みをたたるというのは、たたられるべきふるまいがあったことを示し、風刺が笑いに近づくのとは方向が逆とはいえ、ひとのあるべきふるまい方を示しているといっていい。志ん生の『一眼国』にそうした意味づけはあるのだろうか。


 ある香具師の男が新しい見世物を探している。顔中口の怪物が鍋だったり、金蛇といって蛇に金の絵の具を塗りつけるような、いんちきが多く、観客にもすぐに飽きられてしまい、新しい出しものを探していたのだ。そんなわけで、諸国を巡礼してまわっている六十六部を泊めて、人間でも動物でもいいので、なにか変わったものはないかと尋ねていた。すると、江戸から東の方に、額の真ん中に眼がついた一つ眼の娘を見たという話を聞く。

 

 さっそく男は旅立ち、森のなかで一つ目の娘を見つけるが、人さらいだといって逆に村人たちに捕らえられてしまう。白州に引き立てられると、まわりは一つ眼ばかり、一つ眼の国にきたのだとわかる。一方、奉行のほうは、面をあげいと声をかけると、捕らわれた人さらいには二つの眼がついているではないか、あまり珍しいものだから、調べは後回しにして、これを見世物にだそう。


 「いかに変化でも相応の理由がなければ出ては来ず」と書いた柳田國男は、『一目小僧その他』で、妖怪は「公認せられざる神」であるとして、「大昔のいつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた」と大胆な仮説を立て、一眼の背後に「小さい神」をすかし見た。


 ところが、志ん生の『一眼国』での一つ眼は、風刺もなければ寓意や恨みもなく、ましてや神聖な意味合いなどきれいさっぱりぬぐい去っている。あるとすれば、観客に飽きられてしまった香具師の珍しいものを得たいという欲求だけなのだ。

 

 怪物は、過剰な人間的意味を生みださずにはおれない、それを扱う者にとっては非常にやっかいな存在なのだが、この噺は、物珍しさという誰にも認められるような軽い動機づけによって、そうした意味づけをもこの上なく軽いものとして、ナンセンス(無方向)に到っている。実際、無方向に順序などあるはずもなく、怪物と人間のあいだにヒエラルキーもないので、より珍しいものが見世物にだされるだけなのだ。