層のない世界――デヴィッド・クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年)

 

 原作、ジョン・ワグナー。ヴィンス・ロック。脚本、ジョシュ・オルソン。撮影、ピーター・サシツキー


 意識や知覚の変容が肉体の変容をももたらすというのがクローネンバーグの初期の作品からのテーマであるが、そんな彼が高倉健の主演でありそうなやくざ映画を撮ったと最初に聞いたときにはちょっと意外な気がした。

 

 トム(ヴィゴ・モーテンセン)は余所者が入ったらすぐわかるような田舎町で小さな料理店を営んでいる。美しい弁護士の妻、高校生の息子、小さな娘がいて地元に溶け込んだ平穏な生活を送っていた。ところがあるとき、強盗に入った二人組から銃を奪って撃ち殺したことから英雄として地元メディアに取り上げられることになる。そして、一目でギャングとわかる不気味な男たち(エド・ハリスと部下の二人)がトムの周辺に出没する。

 

 その男たちの話によると、トムというのは偽名であり、フィラデルフィアの大ボスの弟であり、ほとんど見えなくなったこの片目の傷をつけたのも彼だという。家族は漠とした疑念を抱くが、その疑いは家に来た三人のギャングたちのうちの二人をトムが無腰のまま眼にもとまらぬ早さで倒すことで決定的なものとなる(最後の一人は助けに来た息子がショットガンで倒すのだが)。かくしてトムは、過去を清算するためにフィラデルフィアに向かうことになる。

 

 このように物語だけを取りだすとやくざ映画にありがちな展開なのだが、大いに印象が異なるのについてはいくつかの原因がある。まず、暴力の描き方がある。たとえば、高倉健やくざ映画だと、さんざん嫌がらせを耐えたあげくに、どうにも我慢のならない出来事が起こり続け、平穏な日常を捨てて決起することになる。暴力とはそうした我慢が決壊した結果の決意としてあらわれるものであり、言葉を換えて言えば、物語が蓄積された末に発動されるものなのである。

 

 ところが、この映画の場合、大きな暴力の場面は三箇所あるのだが、そうした物語の蓄積はまったくない。いずれも、その暴力を引き起こすにいたった背景が描かれるわけではない。暴力はほとんど不随意的な反応であり、日常から非日常への跳躍を経たものではなく、日常とシームレスに接続しているのである。

 

 『ヴィデオドローム』においてアングラ・ヴィデオを見ることで否応なく肉体の変容がもたらされるように、暴力もまた決意や我慢の問題ではなく、否応のない肉体の反応なのである。それはいじめっ子に対する高校生の息子の反撃にしても、妻が階段で応えてしまう乱暴なセックスについても同じことで、高校生の息子については日常的ないじめという背景はあるとしても、そこに描かれる暴力そのものはそれ以前の場面との断裂がなく、つまり別の時空と結びつくのではなく、氷に入った亀裂のように同じ平面で現実に接続している。

 

 冒頭、モーテルから中年と若い二人の男が出てくる。実はこの二人はトムの店に押し入り、撃退されることでトムの顔をさらすことになる者たちなのだが、強盗といっていいのかもわからない。宿泊したモーテルも、子供を含めて皆殺しにしてしまえば宿泊料も払わなくていいと、特に善悪の葛藤もなく実行してしまうような連中である。

 

 善悪という規範があるなかでの悪人なのではない、どんな規範をもっているかもわからない人物として実に不気味に描かれている。悪、というよりこの世界とはまったく異なった規範は、ヴィデオや科学実験のような回路を通って日常へと侵入してくるわけではない。シームレスに動きまわり、気心の知れた隣人しかこないような店に堂々と入りこんでくる。そうした世界像を提示したことにこの映画でのクローネンバーグの新しさがある。