係留を離れた自己のふわふわーー石川淳『山桜』

 

暗黒のメルヘン (河出文庫)

暗黒のメルヘン (河出文庫)

 

 

 昭和十一年一月号の「文芸汎論」に掲載された。
 
 おそらく澁澤龍彦石川淳の作品のなかで一番愛した短編で、日本文学から自らが好む「幻想文学」を選んだ『暗黒のメルヘン』というアンソロジーでもこの一編を選んでいる。
 
 石川淳は怪異をよく描いたが、本来リアリズムを根底におく作家ではないうえに、情景も情緒も会話もすべてを投げ込んでどこまでも続く古典の文章を独自に進化させて、アレゴリー、論理や形而上学まで含みうるような独特な息の長い文体を「精神の運動」の軌跡として提示した石川淳にとっては、現実といわゆる幻想の相違などたいした問題ではなく、それゆえ却ってこの「エドガー・ポーあるいは泉鏡花風の超現実的メルヘン的怪異譚」(澁澤龍彦)、つまり現実に幻想が侵入するような形の作品は珍しいものになっている。
 
 国分寺という昭和初期にはいまだ武蔵野の面影を残していたであろう場所で、夢幻的な雰囲気が全体にみなぎっているのも珍しい。それは語り手である「わたし」が落着く場所を見いだせないまま宙づりの状態で漂っているからである。
 
 本来「わたし」は売れない絵描きで、神田の片隅にある天井の低い二階の四畳半に棲んでいるのだが、それがどうして郊外に来ているのかといえば、「ヂュラール・ド・ネルヴァルが長身に黒のソフト、黒のマントをひらひらと夜風になびかせ・・・・・・」とかつてどこかの本で読んだ一節が身体にしみこんでしまい、昼夜の区別なくふらふらと街へさまよい出てしまうせいなのだという。
 
 外に出れば、それなりに身だしなみも整えなくてはならない、それには金が必要だということで、青山に住む退職した判事の親戚を訪ねるが、彼にもそれほどの金はない、共通の知り合いであり、判事の娘、京子と結婚した吉波善作は訪ねてみたのか、子供が病気がちで国分寺の別荘に行っていると地図を書いてくれたのだが、あっけないほど簡単な地図で、それが簡単にしか書けないのだとすると、一本の線のなかに林もあれば、流れも人家もあるはずだと迷っていたところ、一本の山桜に突き当たり、すると十二年ほど前、写真を趣味にしていた「わたし」が山桜の下に佇む京子の写真を撮ったことが思いだされ、すると思いがけなくも写真機の亡霊に取り憑かれレンズを眼に押し当てられたかのように視野いっぱいに桜の花が散っていよいよ「ふはふは」状態がとまらない。
 
 そんななか善助の子供である善太郎と行き会ったことで、案内を得てようやく吉波の家にたどり着くことができるのだが、二階に張り出した露台からこちらを見る善作のまなざしは歓迎しているどころか、「呪詛にみちみちた」ようすで、巨大な鉄の熊手をもって誰か、姿こそ見えないが、妻である京子に違いない、京子を打ち据えているはずだが、声ひとつ聞こえてこないのは何故なのか、気圧されてたじろいだ身体に触れたのが案内してくれた善太郎で、その小さな肩にすがりつくように顔を合わせたとたん、「わたし」はそこにまごうことなく自分自身の顔を認めて、全身の震えを押さえることができなくなってしまって、こんな状況で金の無心をすることがいかに愚かしいかも十分承知しているのだが、沈黙したままでいることに堪えかねて、金を貸してくれませんか、と屈辱にまみれた申し出をすると、善作は「洒落や道楽で出すわけぢやない。きみに早く帰つてもらほうと思つってな。」とどこかに金を取りに行ったらしい、残された「わたし」は久しぶりに会う京子の顔を是非とも見なければならないと思っていて、というのも、時折京子の姿を描こうとするのだが、着物姿の身体の方は描かれはしても、肝心の顔が何回試みてももうろうと霞むばかりで、いまこのときもデッサンを数枚試みているのだが、相変わらず首のない女の像ができ上がるばかりなのに変わりはなく、戻ってきた善助が「わたし」の顔に金を投げつけて「かへれ」というからにはもはやここにとどまっている理由もなく、いつの間にか乗馬服に着替えた善作が手に持った鞭で池のおもてを打っていると、水しぶきのなかに緋鯉が跳ね返り、「京子さん、お宅ではいつもああして鯉に運動させるんですか」と突拍子もない愚かな問いを発するよりしかなくなって、振り返ってみると籐椅子に座っていたはずの京子の姿はなく、そのときはっと気がついたのは、そうだ、京子は去年の暮れに肺炎で死んでしまっていたのだ、という事実を前にしては立ちすくむことしかできなくなるというもので、石川淳の作品の主人公が、作業過程の一時的なものに過ぎないとしても、或は一時的なものに過ぎないからこそ、つねに自己を定位し、それを描くことこそが「精神の運動」の軌跡であるにもかかわらず、状況に先回りされ、定位を行う暇さえ与えられないこの『山桜』という短編は、この点でも珍しい一編である。