ポルノグラフィー的想像力――モンテ・ヘルマン『旋風の中に馬を進めろ』(1965年)

 

旋風の中に馬を進めろ [DVD]

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 脚本、ジャック・ニコルソン。撮影、グレゴリー・サンダー。音楽、ロバート・ジャクソン・ドラスニン。


 たまたま強盗団と同じ場所に居合わせた三人のカウボーイが追っ手である自警団との銃撃戦に巻き込まれたあげく、強盗の仲間と見なされ追跡を受ける。銃撃で一人の仲間を失った二人は山へ逃げ込む。逃亡の途中、一人が、街が近くにあったらいいのにな、とつぶやく。

 

 この街の不在ということが『旋風の中に馬を進めろ』(1965年)を特徴づける。男がそう言ったのは、街があればその近くに農家や牧場があり、逃げる手段に事欠かないということなのだが、この言葉には違った意味を読み取ることもできる。

 

 法律であれ、慣習であれ、立場の違う者同士による集団的合意の確立される場が欠けているということである。自警団は確かに街から遣わされたのであるが、既に街とは切り離された集団であり、捕らえた強盗の一味を裁判にかけることもなく縛り首にする。強盗団は銃を構えた一人を撃ち殺しはしたものの、抵抗しない者についてはそのまま解放しており、凶悪な無法者というわけではない。

 

 無実の罪で追われる二人は山のなかの一軒家にしばらく止まり、礼儀正しく振る舞っているが、馬をとって逃げだそうとする際に主人を撃ち殺してしまう。こうしたことは、確かに、絶対的な正義や悪が存在しないことを主張していようし、ひいては、正義の味方が悪漢をやっつけるというかつての幸福な時代の西部劇を無邪気に繰り返すには意識的であり過ぎるモンテ・ヘルマンの姿勢をあらわしてもいるだろうが、より際だっているのはそれぞれの主張や立場がすりあわされるような街やそれに相当する働きが一切欠けていることにある。

 

 自警団に捕らえられた強盗はなにか言い残すことはないかと尋ねられるが、無言のまま縛り首にされる。無実の二人も追っ手に向かって自分たちが強盗とは関係のないことを伝えようとはしない。それゆえ、一見、自警団には、アメリカの南部が舞台になる際にしばしば描かれる、余所者に対する過剰に攻撃的な反応と似たところがあるのだが、そこには解決されるべき「社会的問題」という色合いは薄い。

 

 むしろ、ここにはポルノグラフィー的想像力とでも呼べるものが働いているように思える。なぜか常に最高のセックスと至上の快楽が待ちかまえている幻想で支えられるポルノではなく、サドの再発見によってもたらされた人間同士の断裂を描くポルノグラフィーであり、そこでは異なった幻想が調停されることなく存在している。

 

 サドの主人公は、ジュスティーヌのような特権的存在を除けば、決して犠牲者たちとコミュニケーションを取らない。それゆえ、セックスは人間関係として完遂されることはなく、常につきまとう不満足は延々と続く哲学的論証によって埋められるが、ヘルマンの映画でも、自警団、強盗団、逃亡者は互いにコミュニケートして、従来の西部劇のように敵同士として尋常に決闘することもなく、偶然に集まりばらばらに散っていく。