不釣り合いな友人――ロバート・ルイス・スティーブンソン『ジキル博士とハイド氏』

 

 

 

ジーキル博士とハイド氏 (岩波文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (岩波文庫)

 

 (手元に本が見当たらなくて、もしかしたら違う訳で読んだのかもしれません。)

 

 ジキルとハイド、善と悪とを体現する二つの人格がひとりの人間のなかで戦うのだが、この戦いはナポレオンとウェリントンが戦ったワーテルローのように、原則としてどちらの陣営に荷担することもない中立な土地において行われたわけではなかった。

 

 ジキルの身体こそが主戦場であり、ジキルは最初からハンデを負っていたわけである。そもそも、ジキル自ら述懐しているような善と悪との戦いが行われたかどうか、非常に疑わしい。

 

 通りすがりの老人を殴り殺したり、様々な秘密の悪徳に耽っているらしいハイドはとりあえず悪としておいてもいい。しかし、ジキルの方はと言えば、善というよりはヴィクトリア朝の偽善的小心さの目立つ良心をもっているに過ぎない。

 

 善と悪とが拮抗しているなら、ジキルは、二つの人格を分離し、ハイドのもとで良心の咎めなく快楽をむさぼることを可能にする実験にかくも容易に飛びつくことはなかっただろう。ジキルは分離を「白昼夢として耽溺」し、実現した暁には「人生は一切の苦悩から解放されるだろう」と思っていたのである。

 

 ジキルはハイドのすることに関心をもち、ときにはハイドの快楽の計画や手助けをし、「共に享楽にふけった」りもするのだが、ハイドはジキルにまったく無関心だったと述べられている。つまり、善と悪という抽象的な原理の衝突というよりは、ジキルと彼が理性ではわかっていてもどうしても離れることのできない人物、カリスマ的な魅力を放ち、自分の暗い欲望を肯定してくれる不釣り合いな友人であるハイドとの諍いであり、そうであればこそ一つの身体に具体的に二つの人格があることの現実性が際だってくる。

 

 およそ二百年前のジョン・ロックは、当時の哲学者たちが言うように肉体と霊魂とが別々のものなら、カストルが眠っていて意識のないときにその霊魂がポルクス宿り、ポルクスが寝ているときにはカストルに宿ることも可能だろう、と夢想した。

 

 つまり、二つの身体に一つの霊魂があるわけである。だが、この霊魂はカストルのときの幸不幸とポルクスのときの幸不幸とどう折り合いをつけるのだろうか。結局、身体のない霊魂は何でも映しだすことができるが、蓄えておくことのできない鏡のようなものだとロックは言って、半端な(あるいは過剰な)霊魂をこの上なく物質的なもので喩えてみせた。一方、一つの身体に二つの霊魂で、ロックを裏返す形になったスティーブンソンは、半端な(あるいは過剰な)身体をむしろ霊魂に似た移ろいやすい幻影に喩えたのである。

 

我々の霊魂を包んでいる肉体は、一見頑丈そうに見えるが、じつは震えおののく幻影、霧のようにうつろいやすい存在にすぎないことを、これまでの誰よりも深く見抜いたのである。薬品の作用には、あたかも風が天幕を吹きまくるように、肉体というこの外被をふるい落とす力があることを私は知った。