街を流す人種――柳家小さん『うどん屋』

 

 

 

 

NHK落語名人選(48) 五代目 柳家小さん うどん屋・化け物使い

NHK落語名人選(48) 五代目 柳家小さん うどん屋・化け物使い

 

 

 関東はそば文化で関西はうどん文化といわれるから(江戸では熱でもあるときにうどんを食べて熱を取ろうという程度のものだったと五代目小さんは言っている)、『うどん屋』が本来上方のネタだというのも宜なるかなと思うが、そばやうどん以前に街を流して歩く屋台というものがほとんど見られなくなってしまった。

 

 祭などの特殊の場合を除けば、私にしても数回見たことがある程度で、それもそばやうどんではなくラーメンだった。街中を移動するにも車道は使えないし、歩道だと邪魔になる。水を補給し、火を使い、食べ残しを処理するなどの方法を考えると、なくなるべくして、さらにいえば、不必要なものとして切り捨てられてしまった文化だと言える。


 うどん屋が流していると、酔っ払いの客が絡んでくる。子供の頃からの知り合いの結婚式の帰りで、同じ話を繰り返すものだから、先回りして言うと、おまえ見てやがったな、水はいくらだ、ただでございます、じゃあもういっぱいくれ、などがあり、うどんは嫌いだからとそのまま帰ってしまう。

 

 そのうち、小声でうどん屋を呼ぶものがある。どうやら大店からの声だ。小声で注文しているのは、試しに出てきた先兵のようなもので、うまいとなると代わる代わる店の者が出てきて食べるわけだな、とうどん屋は独り合点して、腕によりをかけてつくる。最後まで小声の二人、勘定をして客が最後に言ったのは、うどん屋さん、おまえさんも風邪をひいたのか。


 『うどん屋』と言えば、夏目漱石が絶賛した三代目小さんの十八番であった。最晩年、もう寄席を引退していた小さんに観客入りのラジオの最初の放送だというので頼みこんででて貰った。実に堂々たる出だしだったが、次第に話がそれていき『馬の田楽』になってしまっている。目の前にだされた演題の『うどん屋』が見えると再び元に戻るのだが、しばらくするとまた逸れていってしまう。そんなことが数回繰り返され、友人であった講談の貞山が代わりの演目を演じた。それから間もなくして小さんは死んだのだという。


 海賀変哲の『落語の落』によると、三代目小さんが、酔っぱらいが結婚式に出たときのことを話す場面、幼いときから知っている娘が嫁に行く挨拶をするくだりになると、「声を潤ませて、烏渡泣上戸の癖をきかせるあたり真に絶妙である」と書いてあるところをみると、五代目小さんのようにおかしいだけではなく、人情噺的な要素も加わっていたのかもしれない。

 

 だとすると、その客は(実際には食べないでいってしまうので客でもなんでもないのだが)それほど深く酔っ払っているわけではなく、酔いも手伝ってはいるが、とにかくうれしくてひとに話さないではいられない状態であったのかもしれない。街を流すというのは、そのように知りもしない他人の喜怒哀楽を見聞きすることでもあって、酒場の常連が疑似サークルのメンバー的なものだとすると、他者の本物の感情に直に触れることができた最後の人種のひとつだと言えるかもしれない。