もやもやと明晰ーーデイヴィッド・ヒューム『人性論』

 

人性論〈1〉―第1篇 知性に就いて〈上〉 (岩波文庫)

人性論〈1〉―第1篇 知性に就いて〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 アラン・ラムゼイが描いたヒュームの肖像は、どこか軽く靄がかかったようで、肉づきのよい顔の輪郭が周辺に滲みを見せているようなのは、あるいは、ヒュームの哲学が因果関係をばらばらに、つまり、ビリヤード台を転がる玉が別の玉にぶつかりそれを動かしたとしても、ぶつかった玉がぶつけられた玉の運動の原因であるとは言えず、我々が見るのはある玉が別の玉に近づきそれに触れ別の玉が運動するということだけであり、例えば、その他無数に考えられる仮定、ぶつかった途端に玉が消え去るとか天高く跳ね上がるといった仮定より学校で習うような物理法則が確からしく思えるのはただそうした物理法則に従っている物体の動きをより多く経験しているからであって、しかし、たとえどれほど繰り返し飽きるほどその法則を経験しようと、いまだかつて経験したことのないことがかつて経験したことに類似するという命題が決して証明されない以上、因果関係にはただ接近・継起以外の関係はなく、更にその上、事物は我々が知覚する印象の集まりで実体などなく、人間は思いもよらぬ速さで次々に継起する知覚の束なのだとすれば、揺るぎがないものと思われた世界は解像度の低い写真に見て取れるような孤立した点の集合で、ただより凝集度の高い人間や事物がより凝集度の低い空間にいることとなって、積まれた本に左ひじをついたヒュームの姿に軽く靄がかかり輪郭のたがを外れ細かな砂となって四辺に散っていくのも異とするに足りないが、それでもヒュームがヒュームの姿を維持しているのは、だだっぴろくて、平べったくて、おまけに口が大きくて、どう見ても低能児の顔としか思えない、とその友人に書かれた顔が、哲学的理知的に言えばばらばらである世界を関連づけ点を糸にし織り上げていく途轍もない力を人間の情念に認め、人間同士を結びつける力を共感に認めて、理知は情緒の奴隷であり、かつただ奴隷であるべきである、と書いたレースの袖口からのぞく柔らかそうな子供のような手とともに、砂の点を糸にし織り上げ織り重ねてヒュームを形づくっていったためで、そのヒュームは既に二十代にして完成している哲学上の代表作『人性論』にこそ自らを社会に合一することができずにあらゆる人間的交際から追い立てられて独り全く棄てられ侘しく暮らす怪物と空想しているものの、生涯を通じてその人柄温厚であり快活であって、死を目前にしてもそれは変わらず、死が近づいてくるのがわかりますが不安や後悔はありません、では心からの愛情と敬意を込めてさようなら、と友人に手紙で別れを告げた。

 

哲学者たちが心的活動を説明するため使用してきた在来の体系に共通な短所は、彼等が極めて細微精緻な思惟を、即ち、単なる動物の能力を凌駕するのみならず我が人類の幼児や普通人の能力を凌駕するほど細微精緻な思惟を、仮定することである。しかし、かような仮定にも拘らず、動物・幼児・普通人は、最も完熟した天稟と知性とを持つ人と同じ情感及び感情を感じることができるのである。