鏡地獄ーージョセフ・ロージー『召使』(1963年)

 

召使 [DVD]

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原作、ロビン・モーム。脚本、ハロルド・ピンター。撮影、ダグラス・スローカム.音楽、ジョン・タンクワース。
 
 ロバート・アルトマンの『ゴスフォード・パーク』(2001年)、また同映画の脚本家であるジュリアン・フェロウズがそこから独自に発展させたドラマ『ダウントン・アビー』(2010~15年)ではイギリス貴族、特にその地元における屋敷での階級社会を十分に描きだしていた。
 
 SF映画で無数に見られるように、上流のものは地上の階に住み、自由に外出する一方、働く者たちがいるのは地下であり、外出にも許しを得なければならない。私生活を出すことは許されないし、言葉遣いは制限され、身なりや振るまい方も制限されている。
 
 奉公人のなかにも、長年勤め上げて、奉公人を束ねる長となる人物がおり、さらに、食事、掃除、馬の世話、経理、家族の各人について世話をするものなどがあって、それぞれが小集団をなしているから、ある種小さな会社のようなものである。
 
 もちろん、雇っているものの顔がはっきりしていることは誰のものともわからない会社のために働いているよりも、やりがいのある場合もあり、もし仕えるものが名君であるなら、誇りが生じ、距離感を保った相互の敬愛の念が生まれることもあるだろう。
 
 羽目を外すこともできず、主人一家のプライベートな空間、主人家族だけが集まる食堂や居間などの準プライベートな空間、客を招くための部屋など、細かく生活圏が区切られていても、地所が広く、仕える人間の数が多ければ主人の生活のリズムに奉公人が合わせることは、仕事も分業化され、特化されている分、仕事と割り切ることが容易であるかもしれない。
 
 ところが、この映画の場合、一時的になのかどうか、ある貴族の男(ジェームズ・フォックス)が街中に居を構え、執事を応募し、雇うことにする。雇った執事(ダーク・ボガード)は料理の腕は確かだし、身の回りの世話も文句の付け所がない。ただジェームズ・フォックスの婚約者(サラ・マイルズ)は二人の生活に割り込んでくる闖入者としてなにか嫌悪感を抱いているようである。
 
 田舎の屋敷とは異なり、気配で相手のいるところがわかってしまうような都会の狭い居住空間のなかで、本来保っていなければならない主人と奉公人の距離感が徐々に失われていく。しまいに、妹が出てくるので、泊めてもいいでしょうか、と執事は申し出る。しかし、主人に隠れた電話の応対を聞くと、彼女は明らかに妹ではなく、執事の恋人、或は共謀者であるらしい。
 
 ところが、共謀者とはいっても、そして、実際彼女は貴族の男を誘惑し、籠絡するのだが、それによってなにが目的とされているのかははっきりしない。醜聞を種にしてゆすろうというわけでもないし、さして階級社会に対するルサンチマンが原動力になっているとも思われない。
 
 この妹だと偽った女とのある種の三角関係のために一度は執事の職を辞するのだったが、おそらくは偶然であった振りを装って、再会し、心を入れ替えるから、と再び執事に収まる。そこからは主人と使用人という垣根はがらがらと崩れ、二人は子供のように玉ぶつけやかくれんぼに興じる。召使は街のいかがわしい女たちを引き入れてパーティをし、主人は薬づけになる。最後まで敵対感をあらわにしていた主人の婚約者も、なすところなく召使に唇を奪われる。
 
 このほぼ密室劇のなかで、鏡が非常に象徴的に使われている。鏡は反映し、人や物を増殖させもするが、反映するものを凝縮し閉じ込めもする。結局最後まで明らかにならない召使のダーク・ボガードとともに、貴族であるジェームズ・フォックスの視線も意識も鏡のなかで乱反射するだけなのである。