狸御殿という夢ーー鈴木清順『オペレッタ狸御殿』(2005年)

 

 

脚本、浦沢義雄。撮影、前田米造。振付、滝沢充子。音楽、大島ミチル白井良明
 
 公開時に映画館で見て、約25年ぶりに見直した。不覚なことに、公開時に見たときも面白かったのだが、こんなに素晴らしい映画だとは記憶していなかった。もともと『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』によって映画の魔力に本格的にとりつかれることになったので、鈴木清順は私にとっては特別な監督であり、日活時代の作品はいまだに見ることができないものも多いが、この二本以来新作は公開時に欠かすことなく見ていた。
 
 インタビューを見ると、昔の映画界では、忠臣蔵が撮れたら一人前といわれていたらしく、石原裕次郎主演のいわゆるB級映画を撮らされることの多かった鈴木監督は、年に一度の、大スターを集めた忠臣蔵などには当然ながら無関係だった。
 
 しかし、いうほどそのことに拘泥しているようではなく、話のついでに出した程度のことで、本題は要するに、忠臣蔵というのは男性中心の映画であること、その時代の男性スターたちが集まって作り上げるものなのに対し、その女性版にあたるもの、当代の美女が起用されて作られる映画があってよいのではないか、そしてその映画こそ狸御殿ではないかというわけだが、古くは浅草で榎本健一などが演じていたそうだが、映画では1939年から1959年にいたるまで7作のシリーズがつくられている。7本のうちの5本を木村恵吾が監督しており、前半はほぼ宮城千賀子が主演を演じており、後半になると美空ひばりが演じるようになる。
 
 鈴木清順といえば、インタビュアー泣かせの監督であり、意図などを問われても、そんなものはありませんよ、いわれた通りのものをつくっているわけでね、などと答えることを常としており、なかにはつかみ所のない答えにいらだつものもいたようだが、そんなことを考えてものをつくるわけないだろうと私は思っていたが、趣味になると話は別で、鈴木清順はどんな女優が好みなのだろうかというのは長年の謎だった。
 
 『ツィゴイネルワイゼン』ころのなにかのインタビューで、どんな女優が好きなんですかと聞かれて、女優さんは与えられた人を使うだけで、会社の制約とかいろいろあって自由に使えたことがないけれども、といま一緒に仕事をしている大楠道代大谷直子に相当失礼なことをさらっと交えつつ、原節子とか使ってみたかったけどね、という答えにびっくりした。
 
 『肉体の門』や『河内カルメン』で使うような倒錯的な部分や意地悪さはないと思っているからなにか実現し得ない腹案があったのかもしれない。その鈴木清順が『狸御殿』の宮城千賀子に惚れて、20年間企画を温めてきたというのだから、潤沢に使えるお金はなかったにしろ、或ははじめて自分のつくりたいものをつくったのかもしれない。
 
 話はごくたわいのないもので、毎日魔法の鏡を見ながら世界で一番美しいことを確認している城主安土桃山(平幹二朗)が自分の息子である雨千代(オダギリジョー)が自らの美の牙城を脅かしていることを知り、殺してしまおうとする。一方、狸御殿に住む狸姫(チャン・ツィイー)は雨千代と恋に落ちる。安土桃山には妖術師がついており(由紀さおり)、狸姫には信頼する腰元(薬師丸ひろ子)がいて、私は薬師丸ひろ子のファンであったことはないのだが、彼女が登場して、歌がうまいことはわかっていたのでそれはともかく、所作の一つ一つが正確にあるべき軌道に乗り、正しい場所にとまるのを感じて心底びっくりしてしまった。オダギリジョーは『陽炎座』でいうところの松田優作の役回りで、翻弄されながらも決してその場から離れることのないクールな役どころを見事に演じていた。
 
 なにしろ自然のものといっては、満開の桜の花を揺らす風と安土桃山が狸姫と雨千代と果たし合いをする海の波くらいのもので、あとはすべてスタジオ内の映画内舞台、或はそれさえないデジタル処理のためのブルーバックの前で、一挙手一頭足にいたるまで様式化されている。歌舞伎によく似た舞台設計であるにもかかわらず、歌舞伎俳優がまったく起用されていないことは、この様式がいわゆる伝統的様式とは関係がないことを示している。
 
 狸御殿が鈴木清順の若かりしころからの夢であり、映画が願望充足のひとつであるならば、この映画には鈴木清順の最も美しい夢が充溢しており、その夢が狸御殿に、化けて化かされ、夢も現実も見せられ、真実も虚偽もある場所に結晶していることを思い、それが最後の映画になったことに胸がいっぱいになる。