子供の時間――アダム・フィリップス『キス、くすぐり、退屈』

 

 

On Kissing, Tickling, and Being Bored: Psychoanalytic Essays on the Unexamined Life

On Kissing, Tickling, and Being Bored: Psychoanalytic Essays on the Unexamined Life

 

 

 イギリスのサイコセラピストであるアダム・フィリップスは、「退屈することについて」というエッセイの冒頭に近い部分で、こう言っている、「大人のだれもがとりわけ記憶しているのは、子供時代の大いなる倦怠であり、あらゆる子供の生活は退屈の呪縛によって間々中断される」と。

 

 これを読んで、いつのまにそんな世間的合意ができたのかと驚かざるを得なかった。というのも、記憶にある限り、子供時代と退屈ほどそぐわぬ取り合わせはないように思えたからである。

 

 時間は有り余るほどあったに違いないが、そもそも使うという意識がなかったせいか、持てあますこともなく、蚕が桑の葉を黙々と食べ進むように、時間を惜しみなく消費していた。

 

 つまらない時間があったとしても、それはただ単につまらない時間として流れていき、あり得べきより楽しい時間と比較して退屈だと感じられるわけではなかった。その後、やや成長し、しなければならないことと、しなくとも済む状況の可能性が等しく勘案されるようになって退屈の主張が始まるのであり、そうした意味において退屈とは、実行が許されるかどうかはともかく、常に逃れる手段が与えられている。

 

 ところが、フィリップスの言う退屈とは、どうやら、単純に避ける方途が見いだされるような退屈とは異なったものらしい。例えば、彼がカウンセリングをした一人の子供は、退屈したことはないのかと尋ねられて驚き、これまでにない沈んだ様子で「退屈することなど許されていない」と答えたそうである。

 

 人は常になにかに関心をもち、活発に行動すべきであると親も子供も信じている。つまり、この子供は、正確に言えば、退屈を知らないのではなく、退屈を知らない状態を知らないのである。しかしながら、だからといって、フィリップスはいかにも現実的なセラピストらしく、幼児期という黄金時代を信じているわけではない。

 

 彼の言う子供時代の退屈とは、幾分詩的な、永遠に夏休みが続くかのような無責任で放恣な満ち足りた時間のことではなく、発達の一段階にあり、いまだはっきりとした形をとるにはいたらない欲望を予感しながら、欲望の対象さえ定かでないという曖昧な宙づりの状態に直面したときのある種の防衛作用であり、うまく退屈することができないと心的なバランスを崩すことになる。

 

 だが、子供から成人に成長することによって明らかになる欲望とはせいぜいが性器を中心にした性的欲望くらいのもので、いささか詩的な私としては、その程度の問題に子供時代の時間を譲り渡したくはない。実際、次のような言葉は子供ではなく、大人にこそより当てはまるように思われるのである、即ち、

 

 退屈とは、それがなにでありうるのか知ることなく何ものかを待つという不可能な経験から個人を守り、堪えられるようにする。退屈のなかで待機することの逆説は、それを見いだすまでなにを待っているのか知らないこと、また、しばしば待っていることさえ知らないことにある。