気遣いと本心――古今亭志ん生『厩火事』

 

古今亭志ん生 名演集11 お化け長屋/厩火事/穴どろ

古今亭志ん生 名演集11 お化け長屋/厩火事/穴どろ

 

  孔子は、馬小屋で火事があったとき、お気に入りの白馬についてはなんら口にすることはなく、ただ家来の安否を問うたという。一方、さる屋敷の殿様は焼きものに凝っており、あるとき奥方が焼きものをもって階段から落ちたときに、焼きもの心配ばかりして、奥方の身体のことは尋ねもしなかった。

 

 なにもしないで遊んでばかりいる年下の夫の本音がどこにあるかわからない、いつか若い女と一緒になって捨てられてしまうのではないかと、夫婦喧嘩のあげく(志ん生の噺によれば、お崎が芋ばかり食べているという実にくだらない理由だ)相談しにきた髪結いのお崎に仲人が言って聞かせるたとえである。

 

 人間が本当に大事にしているものはなにかという本心はとっさの出来事であらわになるというのが仲人の教えだ。お崎の夫も骨董品、皿や茶碗などに凝っている。ちょうどいいから一番大事にしているものを目の前で割ってみな、ということになる。帰ってなかば強引に大事にしている茶碗を洗うといって、壊してしまう。

 

 夫は茶碗のことは一切触れずに、身体は大丈夫かと聞いてくる。おまえさん、私の身体をそんなに心配してくてくれているのかい、当たり前だよ、おまえに患われてみねえ、遊んでて、酒が飲めねえ。


 仲人が語る孔子のエピソードは考えてみれは奇妙なものである。どこから由来するものなのかわからないが、「聖人」が馬よりも人間の命を大切にするのは当然のことであるし、ぐうたらな亭主が聖人と同じ気の働かせ方をすると期待すること自体、無理な話だといえる。

 

 もっと気のきいたエピソードがいくらでもありそうなのに、あえてこのエピソードをだしたのは、『金瓶梅』にもっとも典型的にあらわれているように、昔の中国の貴族や富裕層では一夫多妻が普通であり、孔子自身「唯女子と小人とは養い難しと為すなり。これを近づくればすなわち不遜、これを遠ざくれば即ち怨む。」(「女子と小人とだけは取り扱いにくいものだ。親しみ近づけると無礼になり、疎遠にすると恨みをいだくから」『論語貝塚茂樹訳)などといった言葉を残しており、藪をつついて蛇を出すようなことを心配したのかもしれない。


 また、二番目のエピソードも、要するに程度の問題であって、馬は入り口さえ開けておけば勝手に逃げてくれるだろうが、焼きものは重力に逆らえず、落ちたらほとんど壊れるしかない。階段の様子を見て取った殿様は寸時に奥方に大事がないことを悟り、あえて焼きもののことを尋ねたのかもしれないのだ。もちろん、家来や奥方に対する気遣いから考えると彼らの安否をまずはじめてに聞くことが「正しい」ことは確かだが、その「正しさ」と本心とが一致するとは限らない。

 

 『厩火事』という噺が楽しいのは、気遣いと本心と「正しさ」が一致し、とっさの場合あらわになると信じているお崎と、晩飯を一緒に食べようと用意してそれなりの気遣いを見せてはいるが、とっさのときにでてくるのは「正しさ」とは無関係の本心である夫との、それこそ料簡の違いにある。