浴槽の反復ーー稲垣足穂『白昼見』

 

 昭和23年の「新潮」「思潮」に掲載されている。分割して掲載されたものか、元になったものがあり、それが長くされたのか、現代思潮社版の『稲垣足穂大全』には細かな書誌が付されてはいないので、はっきりとはわからない。細かく確認したわけではないが、この足穂の代表作の一つといっていいものは、新刊で手軽には読めない。


 明石で父親の死をみとると、家業であった衣服店を継いだのだが、どうひいき目に見ても熱心な経営者とはいえず、店も人手に渡ってしまった。すでに『一千一秒物語』などの作品によって一部の作家たちには知られていた。『一千一秒物語』や『チョコレット』などいわゆる「未来派」的な短編を発表、出版したのは、20歳代の前半であり、父親が死んだころには30歳代中盤になっていた。特に作家になることを考えていたわけではないが、それまでに書きためたものを取捨選択し整理して、東京の出版社に送っていた。それをあてにして、上京する。


 ところで、すでに明石にいたころから顕著であったアルコールづけの日々は、東京でいよいよ歯止めがきかぬものとなっていった。食べるものも食べないために、体重は一ヶ月から二ヶ月のあいだに15キロも減ってしまった。借りられるかぎりのところから金を借りてしまったので、同窓生や上京して知り合った石川淳などからも絶縁された。東京での生活を最初から世話してくれた室生犀星からも見放されてしまった。


 ほとんどものを食べない状態で酒をのみ、なにがなんだかわからないうちに部屋にひっくり返っているという生活を繰り返しているうちに、「わたし」は「恐ろしいもの」としかいいようのないものに襲われるようになる。それは少し前から感じていた「世間から見棄てられたような」「空虚の感」あるいは「寄るべのない寂寥の念」に似ていなくもないが、そうしたある種内面的、内発的な感情とはまったく異なり、「有無を云わさず襟首をひっ掴んで振廻すあるもの」であり、泥酔したぐったりしたなかでも、ひやりとした緊張感のなかで生活している。父親や酒飲みであった伯父などの亡霊かとも思ったが、そんな人間的なものではないと感じる。


 銭湯へ行き、、ふらふらした身体をようやく浴槽から引き上げ、力なく全身を拭っていると、「電光のように」それまで思ってもいなかったイデアがひらめいた、SAINT、つまり聖人と。


 「自分がそれでなければならぬなどと、云うのでありません。世にはそんな聖なる種族があって、その中には磔刑になった者さえあるでないか。この不可思議な、世間法とは逆行しているかのような存在とは一体、どんな意味を持つのか?」


 それは恐ろしい鬼のようなもの、あるいは死などといった重要に思えることも、路上の鼠となんら変わらないという価値観の転倒を引き起こす聖人というものが存在するというある種の啓示であり、その人物がなに教に属しているのか、さらにいえば宗教的である必要さえない。


 そして、最後に、物理学者であったフェヒナーが、余技であるかのように書いた哲学的散文詩のことが短く紹介される。


 その思想によれば、人間は三度生まれ変わる。
 一、お母さんのお腹の中
 二、誕生(覚醒と眠りが入りまじった現在の生活)
 三、永久の覚醒生活


 三は通常死と呼ばれているものだが、肉体を脱ぎ捨てて地球、あるいはそれを越えた宇宙の意識との調和に向けて進んでいく真の意味での誕生である。これを神秘主義的、あるいは宗教的にさえとらえる必要はない。むしろ認識的な転回である。死が覚醒だといっても、そこになんら倫理的な要請が結びついているわけではないからである。実際、言葉こそ違うもののこの短編の中盤ですでに同じ意味のことがいわれているからである。


 「地上とは思い出ならずや」ーーこんな言葉を曾てお昼の銭湯に浸りながら思い浮べて、何かしら愉しくなったことがありましたが、今度はそれとはうらはらの惨めさでした。自分には何の拠り縋るものがないのです。


 このときはすでにアルコールづけの日々で、同じことを考えてはいたのだが、そのことによって愉悦を感じることができなくなっていた。そこに再び愉しみを見いだすことができたのが、SAINTというイデアの閃きであり、それによって罪責感とはまったく関係のない無垢の愉悦を再び取り戻し、新たな世界に移行する。反復とは同じことの繰り返しではなく、つねに更新される肯定という活動である。