麒麟について――――シャルル・フーリエ『四運動の原理』

 

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

 

 

 

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

 

  フーリエは18世紀後半から19世紀にかけての思想家。マルクスによって空想的社会主義者と名指され、あたかも空論化のように見なされることもあるが、それはある種のアナクロニズムであり、いまだ時期の熟さぬときに、空想、つまり想像力によって社会主義の先駆者となったことを評価したのだった。

 

 神は何一つ無駄なものを創造しないとフーリエが言うとき、自然の無限の多様性に圧倒され、それを讃仰するのとはやや異なっていて、あらゆるものに神の意思があらわれており、もし人間が宇宙や社会の進化の正しい理解をするならば、その意思のあらわれを正しく読み取ることができることを意味している。

 

 たとえば、孔雀という生き物は、フーリエが人間の集団の基本的な様態と見なす組合のありようを示している。羽根を彩る眼状紋は、組合秩序の壮麗と不平等を象徴している。立派な羽根に較べて耳障りでしかない孔雀の声は、組合の調和を乱す虚偽に満ちた個人の活動をあらわしており、鳩や鷲に較べるとずっと醜いごつごつとした脚は、組合秩序を支える貧乏時代をあらわす。

 

 ところで、孔雀よりもずっと重要なものをあらわす動物があるとするなら、それは麒麟である。麒麟は真理を表現している。なぜなら、真理は誤謬を乗り越えるが、麒麟はどんな動物よりも高く頭を掲げているからだ。また、真実というものは人間の社会ではなかなか受け入れられず、無用のものと見なされることがほとんどである。同様に麒麟は牛や馬のように人間の労働の役に立つことはない。

 

 つまり、麒麟は真実と同じく、何ら行動していないときにもっとも美しく、歩いたり動きだしたりするや不格好なものとして嘲笑される。麒麟の短い角は、真理というものが社会にあらわれるやいなや刈り取られてしまうことを意味している。

 

 麒麟大自然や動物園の檻のなかのように、人間社会にとって完全に無益な場所にいるときにのみその美しさが賞翫されるという意味で、真実とまったくパラレルな存在なのだ。残念ながらこれが現状である。

 

 しかし、ユートピストとしてのフーリエの面目躍如たるのは一朝真理が社会に行き渡ったときには、〈当然のことながら〉それに応じた麒麟が姿を現すだろうと言っていることで、中国で大変革の前に目撃される龍のことなども思い合わせて想像すると胸躍るものがある。

 

われわれがいずれ組合秩序を通じて、現在はのけものにされている真理および美徳の実践に適するようになったとき、一つの新創造が行なわれ、〈反麒麟〉と称する偉大にして壮麗な奉仕者をもたらすであろう。(巖谷國士訳)