ケネス・バーク『恒久性と変化』を読む2(安部公房『砂漠の思想』、パヴロフ『大脳半球の働きについて』)

 

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

 

大脳半球の働きについて〈上〉―条件反射学 (岩波文庫)

大脳半球の働きについて〈上〉―条件反射学 (岩波文庫)

 

 

 

大脳半球の働きについて 下―条件反射学 (岩波文庫 青 927-2)

大脳半球の働きについて 下―条件反射学 (岩波文庫 青 927-2)

 

 

                                          第一部 解釈について

 

 

 

 

                  第一章 定位

 

あらゆる生物は批評家である

 

 すべての有機体は自らについての数多くのしるしを解釈しているという事実を認めることから我々は始められる。鱒は、針に引っかかることもあれば、顎が裂けて幸運にも逃れ去ることもあるが、その賢さを自分の批評的評価を修正することで示すことができる。彼の経験は新たな判断を下すことを促し、それは食物と疑似餌とのより賢明な区別と言葉にすることができよう。別種の疑似餌は、「顎を裂いた食物」として区別されるような外見がなければ、鱒の裏をかくことになるかもしれない。経験によって学んだ疑似餌にたまたま似たものであるために、数多くの本当の餌を見過ごしてしまっただろう。むっつりした魚がこうしたことすべてを考えているというのではない。針に引っかかってから長かれ短かれある期間は対応を変え、新たな意味合いをもつ変更された行動を取り、より学習されたやり方でしるしを読むと言いたいだけである。この批評的段階を意識的なものと想像しようが無意識的なものと想像しようが問題ではない――必要なのは、修正された判断が外面的にあらわれていることを認めることだけである。

 

 この垢抜けした鱒に対する我々の大きな利点は、我々が批評的過程の範囲を大幅に拡大できることにあると思われる。人間は疑似餌と餌との相違がなんであるかを決定するのに方法的であることができる。不運なことに、ソーンスタイン・ヴェブレンが指摘したように、発明は必要の母である。批評の力は、人間をして文化的構造を打ち立てることを可能にするが、それは非常に複雑なものであるので、文化的錯綜の下に隠れた食物処理と疑似餌処理とを区別するためには、より大きな批評的力が必要とされる。批評的能力は、解決の範囲だけでなく、問題の範囲に応じて増加する。定位は間違った方向に向くこともあり得る。例えば、抽象や一般化の力を通じて行われる征服のことを考えてみよう。次に、そうした抽象化が現実と食い違っているために生じる愚かな国家間の、或は人種間の戦争を考えてみよう。数千マイル離れたところにいる人間を最悪の敵として憎むのになんの批評的能力も必要とされない。批評が我々にとって大いに役立つときには、より優れた批評が必要とされる地点に我々はいるのかもしれない。あらゆる有機体が、自分に関わるしるしを解釈するという意味で批評家であるにしても、言葉によって利用可能になる実験的、思弁的な技術は人間に限られたもので、人間だけが経験の批評を越えて、批評の批評へと進む資質を持っている。我々は出来事の性格を解釈するだけではない(我々の反応にあらわれる恐れ、危惧、疑い、期待、確信という段階は、大雑把に言えば動物においては行動の形を取る)――自分の解釈を解釈することができるのである。

 

 パヴロフの犬はベルの音に唾液を出すよう条件づけられたときに、ある意味を獲得する。別の実験が示すところによれば、こうした意味はより正確なものにすることができる。ニワトリには特定の高さの音だけが食物のしるしだと教えることができ、他の音は無視される。しかし、人間においては、こうした解釈がどれ程浅薄なものであるか、どれ程心配してもしすぎることはない。次のベルが餌を与えるためのものではなく、集めて首をはねるためのものであっても、ベルが彼らにとってもつ性質に従いニワトリは忠実に走り寄ってくるだろう。それほど教育されていないニワトリの方がより賢明に行動することになろう。かくして、我々が正確な定位に達するときの工夫が不正確な定位にある工夫とまったく同じであることもあり得るだろう。我々に言えるのは、ある客観的な出来事は、似たような或は関連した過去の出来事の経験から意味を引きだすということだけである。ベルが鳴ること自体は、我々が呼吸する空気と同じように選ばれているわけでもなければ意味もない。我々がそれを経験する文脈に応じて性格、意味、意義(夕食のベルか玄関のベルか)が生じる。そうした性格の多くは言葉によって伝えられ、ある壜には「毒薬」とラベルが貼られ、マルクス主義者はある人間の失業を資本主義に特有の財政危機のせいにする。語それ自体もその意味を過去の文脈から引きだしてくるだろう。

 

 

 パヴロフの代表作である『大脳半球の働きについて』は1927年の刊行されており、すでに前世紀の遺物とみなされ、あまり言及されるのを見ることもないが、現代作家のなかで盛んに持ちだした人物に安部公房がいる。たとえば、「文体と顔」というエッセイでは、「パヴロフによれば、言語と認識は条件反射第ニ系という一つのものの異なった側面にすぎない。すなわち文体とは、性格が主に第一条件反射のタイプであるように、主に第ニ条件反射のタイプであり、認識のタイプである。この考え方には物質的基礎がある。」と書いてある。

 

 それはある意味、歌が中心であるオペラからダンスが中心であるミュージカルを「前庭器性空間知覚」(「ミュージカルス」)の働きによるものだと、独特の用語で特徴づけてみせる、SF好みで、現実をいわゆる日常に基礎づけることなく、砂丘や箱のなかに再構成してみせる作風にも通じている。

 

 また、いわゆる日本の伝統や五人組的な共同体のあり方に嫌悪感を抱いた安部公房が、あえて人間を生理的なものに還元することによって、個々の伝統に捕らわれない人間の共通の地盤を見いだそうとしたこともある。

 

 パヴロフの射程は存外に長いものであって、たとえば、ある利口そうな犬を条件付けの実験に使おうとし、その犬と研究員たちはすぐに仲良くなった。そこで、柔らかな縄で足をくくって、動きを制限した。ところが、犬はその後興奮状態に陥り、床をひっかいたり、柱にかみつくようになった。原因を確かめるために相当の時間を費やすことになったが、最後に犬には自由を求める反射があるのだという原因にたどり着いた。人間の崇高な理念のひとつとして数えられる自由についても、実は反射の一つに過ぎないことになる。

 

 さらに、皮肉で不気味なのは、パヴロフは科学者として、ごく平静に書いているに過ぎないのだが、毎日餌を十分に与え続けたところ、犬は最初はおそらくはストレスが強く、少ししか食べなかったが、次第に沢山食べるようになり、興奮状態に陥ることもなくなった。

 

 人間を動物へと還元し、様々な条件反射の束とみなしたパヴロフと同じく、バークも動物と人間を同一平面におくが、パヴロフがいわば動物の地の上に人間を置いたのに対し、バークは人間の地の上に動物を置くという反転を試みた。後にもつながる問題だが、名づけは認識論的布置を決定する行為である。