落語の咀嚼力――立川談志『お血脈』

 

談志百席「お血脈」「釜泥」

談志百席「お血脈」「釜泥」

 

  「噺のなかに出てくる泥棒なんてのは、あんまりたいした泥棒はでませんで、お芝居だの講談の方には偉い泥棒が出てきますな」と泥棒が出てくる噺の枕に桂文楽は言ったが、『お血脈』では、石川五右衛門というもっとも有名な泥棒のひとりがでてくる。そればかりでなく、長屋の連中もひとりもでてこない珍しい落語だが、好きな噺である。


 中国から日本に一寸八部の仏像が伝来した。排仏運動が盛んだったので、打ち壊そうとしたが、傷ひとつつかない。そこで阿弥陀が池に投げ捨ててしまった。ある晩本多善光という侍が、池の畔を歩いていると、善光、善光、と池のなかから呼ぶ声がする。拾い上げてみるとそれが一寸八部の仏像で、信州にまかり越したい(小さいから舌足らずで、ちんちゅうにまかりこちたい、と発音される)というので、背負っていき、建ったお寺が善光寺、つまりよしみつでらである。


 善光寺では血脈の印を額に押しつける儀式があった。血脈の印とは血脈相承のしるし、つまり仏からその血を受け継ぐので、どんな罪障も消えて、極楽にいけるとされた。それが大いにはやったものだから、困ったのは地獄で、来るものもおらずすることがなく、さびれるばかりである。

 

 そこで、閻魔は、地獄には悪人なら数多くいて人材に事欠かないから、泥棒を使わして血脈の印を盗ませることにした。ねずみ小僧や熊坂長範などの名もでたが、貫禄の点からいっても石川五右衛門が選ばれた。ところがこの五右衛門、盗みの腕は確かだが、ちょっと芝居づいている。派手な衣装を着込んで、六方を踏んで現世に出てくるや、善光寺に忍び込んで無事に血脈の印を見つけだした。ところが、芝居づいているものだから、これさえあれば大願成就、かたじけねえ、と見得を切って額に押し頂いたものだから、極楽にいってしまった。


 落語のなかには芝居噺が一ジャンルとしてあるが、大概は芝居に熱中するするあまり本業がおろそかになったものの滑稽さや、素人芝居での失敗談などが多い。この噺は芝居噺にははいらないが、芝居中の人物がそのまま登場している不調和が面白い。

 

 もともとこの噺には閻魔であるとか、鬼であるとか、でてくるのはみな、とりあえずは虚構の産物といっていい存在ばかりなので、少々現実から浮き上がっているのだが、巻き上がった埃を打ち水が鎮めるように、さらに何層も高く浮き上がった五右衛門がそれらをごく当たり前の登場人物としてしまう。

 

 もともと芝居には、ベケットから「静かな演劇」にいたるような系譜は例外として、ギアを入れ替えるような瞬間が必ずあり、歌舞伎ならば見得を切るまでの助走のはじまり、ミュージカルなら、台詞が歌に変わる、動きが踊りに変わるときなのだが、この噺では五右衛門が登場するときがその瞬間だといっていい。市井の人々の人情の機微などにはいっこう関係のない噺だが、芝居を飲み込むことができる落語の咀嚼力の強さを見事に発揮した噺には違いない。