悪魔の酒とドッペルゲンガー――ホフマン『悪魔の美酒』

 

 

 『悪魔の美酒』には聖アントニウスの伝説が重要なきっかけをなすものとしてあらわれるが、その聖アントニウスとは、フローベルが小説に書き、数多くの絵画の主題ともなったエジプトの聖人アントニウス(251?-356)ではなく、パドバのアントニウス(1195-1231)であり、彼についての伝説として伝えられているものらしい。

 

 もっともホフマンはそれを小説では聖アントニウス大王(500-560)のこととして語っているのだが。それはともかく、この聖アントニウスもエジプトの聖人がそうであったように、世俗的なことから遠ざかり、全身全霊を神に捧げるために荒野に引きこもった。

 

 神への祈りを邪魔しにでてくるのがここでもまた悪魔なのは申すまでもない。悪魔はマントをまとっているのだが、ぼろぼろのマントの穴からはいくつもの酒瓶の首が突きでているのである。ひとつ試してみないか、と悪魔は勧めるのだが、もちろん、聖アントニウスはそんな誘惑に屈するほど脆弱な精神を持ちあわせてはいない。きっぱりと誘いを斥けるのだが、悪魔が立ち去ったあとには酒瓶が二、三本残されていたという。

 

 聖アントニウスは、道に迷ったものや自分の弟子たちがよもやこの酒に手をつけて、永遠の破滅に陥らないようにと、それを持ち帰り隠した。この小説の主人公であるメダルドゥスが入ることになるカプチン会修道院の遺物庫のなかには、キリストの十字架のかけらや聖人の遺骨や衣服の切れ端といった聖遺物とともに、聖アントニウスが持ち帰った悪魔の酒のうちの一本が、小函に入れて保管されているのである。

 

 メダルドゥスは遺物庫の管理を任され、誘惑に抗しきれずにこの酒を飲んでしまう。その後、メダルドゥスは姦淫の罪を犯し、二人の人間を殺し、二人の人間を殺しそこねる。もっとも、異母兄弟であるヴィクトリンが崖の下に落ちたのは殺意のない偶然であり、最愛の人であるアウレーリエを刺し殺してしまったと思い込むのは、自分の傷の血を彼女のものだと勘違いしたのだ。

 

 もっとも、こうした悪行が本当に悪魔の美酒のせいなのか、実はそれほどはっきりしているわけではない。そもそも彼にその酒を飲むようにそそのかしたのは、旅行中の伯爵で、遺物庫を案内された伯爵とその執事は、聖アントニウスの伝説を聞くと、メダルドゥスが止めるのも聞かずに、勝手に瓶の蓋をあけ、すばらしいシラクサ葡萄酒だ、と舌鼓をうち陽気に騒ぐのである。

 

 この二人はここで登場するだけなのだが、彼らにとってこの酒はなんら魔的なものではなく、単にできのよい葡萄酒に過ぎない。しかも、酒を飲む以前でもメダルドゥスは傲慢さと淫欲とを隠しおおせないような激情的な人物だったのだ。こうしたある種の保留や曖昧さがこの小説を趣き深いものにしている。

 

 メダルドゥスはドッペルゲンガーにずっとつきまとわれる。最後には、そっくりの異母兄弟のヴィクトリンが姿を変えてあらわれたのだといわば現実的な謎解きがされるのだが、どうもそれだけでは駒が足りないように思われる。どうも数多くの登場人物のなかにまだ幾人かのドッペルゲンガーが紛れこんでいるように感じられるのである。