オルダス・ハックリレー「プルースト:十八世紀的方法」(翻訳)
我々がプルースト氏の作品をその質において「十八世紀的」だというとき、それが磁器のような上品さ、ばかげていながら美しい形式をもっている(実際にもっているのだが)ので、おそらくは誤った推論ではあろうが、歴史のうえでもっとも文明化された時期に割り当てたい気持ちがするのである。十八世紀の可憐な形式主義は、ほとんどが我々自身の発明によるものである。我々の心に存在する過去は、おおむね満足を得るための神話で、各世代特有に必要とするプロパガンダや満足のために創造され、また再創造される。ロマン主義者たちは十八世紀を道徳と知的堕落の時代とみた。我々はそれをまったく異なって描いている。貴重ですばらしいFetes Galantesやマラルメの精巧で不首尾に終わったPrincesse a jalouser le destin d'une Hebeが具体化したものだとする者もある。神秘主義、大言壮語、感傷性、熱烈な道徳を打ち据える杖を求め、最良の啓蒙と完全な合理性の時代として提示する者もいる。ロマン主義も含めて、おそらくどの見方にも真理の要素はあるだろう。しかし、我々が関わっているのは過去一般における神話の契機ではなく、「スワン家の方へ」や「花咲く乙女たちの陰に」が質において「十八世紀的」だというときになにが意味されているかという問題である。
プルースト氏は今日我々が当てはめる二つの意味で「十八世紀的」である。彼の風習喜劇は、非常に精巧に、社交的、あるいは「社会」生活の魅惑的な無益さを扱っている。ウェルズ氏はヘンリー・ジェイムズを部屋じゅうをエンドウ豆を追いかけるカバに喩えた。それに比例すればプルースト氏は恐竜のようなもので、『失われた時を求めて』の最初の二巻では、既に単調できっちりした小さな文字で千二百ページを埋めているのだから、アリスならば挿絵や会話がないことに不満を述べただろう。そして、失われたときが最終的に「見いだされる」にはまだ三巻が続くのである。この恐竜は体重が重いだけではなく、知性の重みもあって、サンジェルマン郊外の社交界のなかや上流ブルジョアや花柳界の周辺にほんの小さなエンドウ豆を追い求める。
しかし、主題のこのうえなく洗練された軽薄さ――当時の厳格な芸術界においてこうした主題を本格的な芸術家が本格的に扱うことにどんな喜びがあったろう!――だけがプルースト氏の作品の「十八世紀的」な性質ではない。彼は別の意味でも「十八世紀的」である――自分なりのやり方で啓蒙され、非常に知的である。もし彼の方法を検証してみるなら、我々はそれが非常に発展し、手の込んだものになっているが、十八世紀の方法と根本的には同じであることを見いだすだろう。
フランス小説の歴史の第二巻で、セインツベリー氏は「心理学的リアリズムは心理学的現実と異なることは、明敏な者にもそれを認め、あるいは理解するのに二世代かかった」と言っている。心理学的リアリズムと対立する心理学的現実は、十八世紀が性格描写において目指したものだった。その分析の良質の部分にはなにか並外れて満足させ説得力をもつものがある。アルフィエーリの自己肖像のしっかりした輪郭と正確さ、ベンジャミン・コンスタンの『アドルフ』の繊細でありながら簡潔で無駄のない描写は讃仰の眼で考えられている。彼らは雑多なものからの抽象、混乱した心理学の諸事実よりも一般的にすることで効果を生みだす。「この二世代の明敏な者」は、ごちゃ混ぜの事実をそれらが実際に観察できるかのように正確に記録することに専心していた。彼らにとって、心理学的リアリズムは実在ではあるが粗野な事実の抽象や蒸留よりも真実に近いように思われた。しかし、セインツベリー氏が示唆しているように、芸術的な真実と性格の説得力は、他の方法によっても到達することができた。現代の心理学に関わる発明と発達は、我々の先祖たちがほとんど無視できると思ったような思考、情動、感覚の細かな積み重ねから重要で興味深いものを見いだした。彼らはその背後にある現実をみることに主たる興味を抱いていたので、現象についてあれこれ主張することはなかった。彼らは主人公の感覚や思考の束の間の願望についての細かな事実を記録しなかった。彼らは混沌とした心理学的生を合理化し、一般化して性格に統一した。ジェイムズ・ジョイス氏が『アドルフ』と同じ主題の本をいつか書くことは十分考えられる。彼はコンスタントの明確な輪郭をもった主人公の代わりに、多彩な色で感覚、記憶、欲望、思考、感情などを描き、煮え立ったそれらを一貫した性格にすることは我々の想像力に残しておくだろう。『アドルフ』か『ユリシーズ』か――どちらが真実なのだろうか?どちらもそうであり、どちらもそうではないとも想像される。どちらも、それぞれの仕方で、人間の魂の見方を、現実の異なった顔をあらわしている。
プルースト氏は、その方法においてより古い時代に属している。彼はありのままで未消化な心理学を諦めていない。彼は資料を合理化し、蒸留し、消化できるようにし、読者が呑みこみやすいように美しく明瞭なものとする。プルースト氏は、現在の我々なら不安になるぐらいに、生と性格を権威をもって教育的に、一般化して消化の過程まで面倒をみる。ここに、文学的な会話の才をもつド・ノルポア氏の性格について、アフォリズムの標本になるものがある。
私の母は、彼がかくも形式張っていながら忙しなく、多くを要求しながらも友好的であり、そうした人間に通例のように「とはいえ」ということを決して理解しないことに驚いていたが、常に「なぜなら」ということも理解しないのであって、老人そのままに常に自分の年齢に驚き、田舎のいとこが驚いて報告したように、途方もないまでに単純な王である彼は、同じ慣習の体系があるからこそかくも多くの社交的要求にこたえ、手紙には几帳面に返事を出し、どこにでも行き、我々と会えば友好的であった。
尊敬すべき一節だが、プルースト氏の奇妙な機知と知恵に染められた一般化は、ほとんどどのページにも見いだされる。
プルースト氏を読むことは、ほとんど計り知れない量の時間を必要とする――我々のほとんどにとっては、残念ながら!さくことができないほどのものだ。というのも、彼はゆっくり、非常にゆっくりと進み、このうえなく小さなものにまですりつぶすからだ。最初の巻である「スワン家のほうへ」で、我々は子供時代の主人公と彼をとりまく家族を紹介される。そして、驚くほどあでやかで、機知のある社交界の研究の過程で、スワンのことを聞かされる――競馬クラブのスワンは上流社会で成功を収め――知的でなかば世俗的なオデットと結婚する。第二巻で、主人公は青年になる。スワンの若い娘に対する彼の少年らしい情熱は、成長消滅し、後の部分は海辺で出会い、あるいは一瞥した「花咲く娘たち」の一群へと消散してしまう。因習的で小説的なものはなにも生じない。数多くの登場人物が舞台をよぎる。田舎や海の温泉場に連れて行かれる。それがすべてだが、我々はプルースト氏の明瞭で知的な材料の扱い方、分析と機知の鋭さと徹底的なところ、とりわけ美に対する眼識とそれを貴重なしかし真に独創的で美しいスタイルで表現した力に夢中になって読みふける。
プルースト氏は自分自身に確信をもち、偉大な伝統的様式を見事に発展させて精巧さを確保している限り、現代文学のもっとも興味深い現象である。我々は「ゲルマントのほうへ」、「ソドムとゴモラ」の二つの部分、大部の作品を完成させる「見いだされたとき」の出現を楽しみに待っている。我々はそれらをすべて買うだろうが、おそらく出版されたときには読む時間がないだろうから、七十から八十歳の静穏で余暇のある老年までそのままにしておき、暖かな太陽のなかか、心地よい火のそばで坐って読めば、『失われた時を求めて』で幸福な年を過ごせることだろう。
(1919年8月3日 Athenaeum)