無限の全体――ボルヘス『アレフ』
(単行本で読んだので、私が読んだのとは訳者が違いますが、こちらの方が手に入りやすいようなので。)
アレフを見るには暗闇と最適な角度が必要である。それゆえ、閉ざされた竪穴のような地下室で、二つの折りたたんだ薄い袋を枕に横たわらねばならない。
アレフの直径は二、三センチで、玉虫色に光り輝いている。そこには宇宙に存在するあらゆるものが包含されている。アレフの魅力は無限の全体性を眼に見られる形であらわにしたことにある。
極小の存在のうちにも無限が見いだされることについては、たとえば、パスカルによっても語られている。ダニをばらばらにすると、その脚には血管があり、血管のなかには血があり、血のなかにはしずくがあり、しずくのなかには粒子があるが、そのなかにも無数の宇宙、天空が含まれており、そこにある地球にはありとあらゆる生物が住まい、当然ながらダニも含まれていて、ダニには脚があり、血管があり、血があり、しずくがあり、粒子があって、そこには無数の宇宙が含まれている、と無限に続く。
このことは、全能の神からすれば、人間の地位など取るに足らないことを示している。無限に続く系列の無限に小さい一点を占めているに過ぎないのであって、無数の宇宙からダニの粒子までのある一断片を取り出してみれば、生殺与奪権をある程度握っているだけ人間はダニに較べて相対的に大きな影響力をもっているが、無限の系列のなかでの人間とダニなど区別するにたるほどの相違ではない。
この無限は、確かにその始まりでダニという形を与えられてはいるのだが、ダニそのものにあるのではなく、最小のものに最大のものを見るという無限の繰り返しの過程において捉えられている。別の言い方をすれば、ここには、明らかに視覚的イメージから観念への飛躍がある。ダニの血液の粒子のなかに無数の宇宙を認めることには、ダニをばらばらにするという経験可能な視覚的イメージと、無数の宇宙というそれを認識する立脚点が不可能な観念との間の断絶がある。
もし、究極的な顕微鏡が発明され、ダニの血液の粒子のなかに宇宙が実際に発見されたとしても、究極的な顕微鏡が眼で見ることのできるこのものを全く異なった宇宙に変換するものである以上その働きは観念と同じであり、事情は変わらない。
アレフはそうした飛躍のない無限の全体を与えてくれる。そこに認められるのは、銀色に光る蜘蛛の巣であり、破壊された迷宮であり、三十年前に見たのと同じ敷石であり、手の華奢な骨の形であり、地面に斜めに落ちる羊歯の影といった具体的な事実であるから、それこそ無限に続けていくことができるのだが(そして、アレフを最初に発見した凡庸な詩人はそうした世界のすべてについての詩を計画している)、実際には、大量の要素によって多様性が均一性に変じてしまう手前で、蜘蛛の巣と迷宮と華奢な手の骨と羊歯の影とが同時の存在する無限の全体という場をつくりだすことにボルヘスの短編の仕掛けがある。
それはともかく、中心的問題は、いぜんとして解決されていない。つまり、たとえ部分的にもせよ、無限の全体を列挙するという問題だ。この巨大な瞬間のなかに、わたしは楽しい行為、または残酷な行為を幾百万となく見た。そのすべてが、重なりあうわけでも、透けて見えるわけでもなく、同じ一点を占めているという事実ほど、わたしを驚かせたものはなかった。わたしの目が見たものは、同時的に存在していたのだ。わたしの記述したものが連続的に存在するかのように見えるのは、もともと言語というものがそういうものだからである。(土岐恒二訳)