道教、老子、そして萩原朔太郎経由、吉田健一

『萩原朔太郎全集・164作品⇒1冊』【『青猫』『月に吠える』収録】
- 作者: 萩原朔太郎
- 出版社/メーカー: 萩原朔太郎全集・出版委員会
- 発売日: 2014/10/28
- メディア: Kindle版
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「人はしばしば坊主を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎む、だが道士は憎まない。/ この理くつが分れば、中国のことは大半わかる」(「而巳集」増田渉訳)と魯迅は言ったが、道教は実に茫漠としている。厳密には、老荘思想と神仙思想と道教とは区別されるものなのだが、それらをすべて呑みこんだ「一大貯水池」(幸田露伴)となっているのが道教なのである。
そもそも宗教とはいうものの、なにが崇拝されているのかもよくわからない。アンリ・マスペロによれば(『道教』川勝義雄訳)、最上位の天宮である紫微宮は、そこだけで五億五万五千五百五十五万階を有し、各階には事務局があり、そこにはそれぞれ五億五千五百五十五万人の神官がいるのだという。それらの神官とどういう関係をもつのかよくわからないのだが、神は三万六千いると言われているらしい。
八百万神と言われる日本の神も数こそは多いが、祖先や特定の場所に結びついたものであり、各個人の信仰対象としてはわかりやすいものだ。もちろん、道教にも土地神はおり、各地方で独自な祭祀が行なわれている。しかし、そうした結びつきが一般的というわけではないらしい。というのも、この三万六千の神は、天宮からしばしば下界におりてきて、世界各地の山や洞窟を仮の住家とし、道士たちの探求を更に遠くまで導いてくれもするのだが、同時に我々の身体のなかにも存在するからである。
頭は天の穹㝫、足は四角い大地、伝説上の聖山であり天を支えるとされる崑崙山は頭蓋骨、天のまわりを廻る日月は両の眼、静脈は河、膀胱は海、髪と毛は星辰、歯のきしむ音は雷のとどろき、といった具合で、身体のなかに世界が入れ子として組み込まれており、そこにも神々が見いだされるという。こうした世界観が特有の食餌法、呼吸法、練丹術などにつながっていくのだろう。神的なものと卑俗な身体的なものが直接に結びつくのも道教の面白いところである。
後漢の黄巾の乱のころの『老子』のある注釈に至っては、冒頭の言葉「道の道う可きは、常の道に非ず」(小川環樹の訳では「『道』が語りうるものであれば、それは不変の『道』ではない」とされている)が、「道の道う可きは」は朝、おいしいものを食べることであり、「常の道に非ず」は、夜、便所に行くことである、といった玄妙な真理を即物的な身体に直結させるような珍妙な注釈がつけられているという。
とにかく、外界にも、各人の身体のなかにも日・月・河・海・雷などの神々がいるわけであり、氏神や土地神を祀るような具合にはいかないのだ。こうなると同じ神々が人間の数だけいるということになるが、その仕組みも実は判然としない。「この問題は、道教徒が後になってからしかとりあげなかったように思われる。そのときかれらは、自分たちの神々のために、仏陀や菩薩がもっている『分身』という力を仏教から借りた。しかし古い時代の道教徒たちは、この事実を容認するだけにとどまり、それ以上の反省をしていない」とマスペロは書いている。
「仏教から借りた」とあるが、仏教と道教は親和性が高い。もちろん、教理上または方術の成果をめぐって対立・議論の歴史もあるのだが、時代が下がれば下がるほど、両者は渾然となっていくかのようである。
たとえば、清代の小説『紅楼夢』では混在している様子が顕著である。中国神話の創世神である女媧が天の破れを補うときに、大荒山で錬成した石が三万六千五百一個あったが、そのうちの三万六千五百だけ使い、一個だけは棄てられてしまった、というのが小説の発端である。
錬成されて、霊も通い歩くこともできる石は自分だけ棄てられてしまい悲嘆に暮れていた。それに行き会い、「形はまあ霊性をそなえた美玉だがな!ただ実性がどうもそなわっとらん」(飯塚朗訳)と言って、その石を長安の大貴族の家にもたらし、この大家族の盛衰を経験させるのが僧侶と道士の二人連れなのである。この二人連れは狂言回しのように、小説の各所に現われ、未来を見通したものとして登場人物の将来を暗示したり、ちょっとした手助けをすることもある。
また、主要な一族のひとり、「寧国邸の賈蓉の若奥さま」が死んだときの葬式では、喪を発してから四十九日間、大広間に百八人の僧侶を招いて誦経してもらい、天香楼の壇では九十九人の道僧が十九日間罪業消滅の供養をする。遺体を移し、五十人の仏僧、五十人の道僧が七日ごとに法事を営む。また、三十五日目には、僧たちは地獄菩薩に頼んで三途の川の渡しを開いてもらう、道士たちは天帝に奉る上奏文を読み上げ、禅僧たちが香を焚き祈祷の文句を唱え、十二人の若い尼僧たちは、縁取りした衣をまとい、赤い沓をつっかけて、死者を極楽浄土へ導くための呪文を黙唱するといった具合で、死者が地獄に行くのか極楽に行くのか、はてまた天界に行くのかさえわからない、あるいはどこへ向かうにしても対応できるような準備がなされているのかもしれない。
仙人もなかなか奇妙な存在である。キリスト教の聖人や仏教の聖僧などは信者たちに生活の規範を与えてくれる。それは彼ら自身がキリストや仏陀の教えを仲介しかつ実践する者だからである。聖書や仏陀の言葉が究極的な教えとしてあるから、遅疑逡巡はあるにしても、師の教えに従って向かう方向は見やすいだろう。
ところが、道教の場合、究極的な言葉はないから(老子でさえ後になって神格化されただけの、神々のうちのひとりでしかない)信者全体の共有認識もない。神父や僧侶が説教するとき、たとえそこにいるのは自分の教区のそれ程多くもない人数であるにしても、可能性としてはすべてのキリスト教徒、すべての仏教徒に届くような説教にしようと努めるだろう。
道教には三万六千の神がいると先に述べたが、道士はそれぞれ別個の神をもっており、それらを共有しているわけでもない。降霊術の霊媒が、自分を導き、コントロールする精霊をもっているのに似ている、とマスペロは述べている。それに入門したての道士たちが関係をもてるのは、神々のなかでも位が低く、人間に近い低級な仙人が多いらしく、より高位の神々とは顔を合わせることすらできないのである。つまり道士それぞれが関係をもてるのは、自分より下位や同位か、ちょっと上の先輩に限られているわけである。
そうした先輩の教導によって、どこまで続くかわからない階梯をのぼっていくのが道教の修行というわけだが、最終的にはどんな境地に至るのだろうか。キリスト教の聖人伝では、信仰が奇跡によって報いられて終わるというパターンが多い。
超自然的な神は現世では報いられなかったかもしれない彼の信仰や善行を見ていたのであり、その証しが奇跡となってあらわれる。「主のみむねに従って」生きていたことがあきらかになる。いわば神とのつながりを明示できたものこそが聖人と呼ばれるのだ(あくまでも『黄金伝説』のような中世の聖人伝の話だが)。
神仙伝のたぐいを見ると、仙人の多くに共通しているのは長生と空を飛ぶことであって、たしかに現実の我々の姿を顧みればそれも奇跡には違いないが、あくまでそれは長年にわたる身体的な修行の成果なのであって、超越的な神の啓示ではない。
長生も空を飛ぶことも、それ自体ではなんら倫理的な意味をもたないから、神仙伝を読んでいてもそこに登場する仙人たちが、果して尊敬すべき立派な「聖人」であるかは軽々に判断を下せないのだ。山のなかから引っ張り出され、寄席に出て仙術を披露し、金が儲かるに従いだんだん横着になっていく落語の『鉄拐』ほどではないが、宮廷に迎え入れられて満更ではない様子の仙人も神仙伝のなかには登場する。
長生や空を飛ぶことは倫理的意味をもたないといったが、もちろんそれらは道教徒の唯一の模範である自然をまねぶことであろう。長生は自然が常に変らないことを、空を飛ぶことは自然が流動的に変化し続けていることを習得して得た業であり、自然に学び同一化せよ、という倫理はあることになる。長生や空を飛ぶことを越えて、自然のことを体得しつくした「神人」がどのような存在であるかは、マスペロが「坐忘論」の一節を引用している。
完全な力をもつ道は、身体(形)と精神(神)を変える。身体は道に貫通されて、精神と一つになる。身体と精神が合体して一つになった人は神人とよばれる。そのとき、精神の本性は空虚で、昇華しており、その実質は変形によって破壊されることがない(すなわち死なない)。身体は精神に全く等しいから、もやは生も死もない。目につかなくても実際は、身体が精神に同じく、表面的には精神が身体に同じである。水のなか、火のなかを歩いても、害を受けることがない。太陽に向かって立っても、(身体は)影をつくらない。生きつづけるか、死ぬかは、かれ自身の自由であり、往くと帰ると(すなわち、死ぬのとまた生きかえるのと)のあいだに中断がない。泥にほかならぬ身体も、「すばらしい空虚」(の状態)に到達しているようだ。いわんや、超越的認識が、深さにおいても拡がりにおいても、いよいよ増大してゆくことはいうまでもないのだ!
なんとなく、『ウォッチメン』のDr.マンハッタンを連想させるが、生も死もなく、影も産みださず、水のなかも火のなかも自由に動きまわれる神人が我々の現実の生活に通用するようなどんな倫理的教えをもたらしてくれるか皆目見当がつかない。食餌法呼吸法ならまだしも、具体的な社会関係のなかで自然に従った行動を取るとはどういうことなのか、自前の術で社会との関係なしでもなんとかできる仙人たちではどうも参考にならないのである。そうなると道家的な思想を実際に生きた人びとに目が向くことになる。
『史記』の列伝には老子の伝があり、それによれば、老子は楚の苦県の人で、周の宮廷にある図書館を管理した記録係だったという。孔子が礼について問い、「きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。わたしがきみに教えられることは、それくらいのことだ」(小川環樹訳)と老子が答えたというが、これは事実としては疑わしいという。
周の都に長いあいだいたが、周の国力が衰えると、立ち去って関まできた。関はいまの陜西省にある函谷関、あるいは散関だという。そこの関令尹喜に「あなたはこれから隠者になられるのでしょう。わたしのために無理とは思いますが書物を書いてください」と頼まれて残したのが『老子』だったという。このくだりをブレヒトが「老子遁世の途上における『道徳経』成立の由来」でユーモラスな詩にしている。後半だけ引用する。
10慇懃な頼みである。無下に断るほどには老師は若くはなかったらしい。なぜなら声高に言ったのである。――「問う者には答えるのが当然」童は言った――「寒くなりますし」「よかろう。ほんのしばしの休息なれば」11そこで賢者は牛の背を下りると、七日にわたり二人して書いた。税吏は食事をはこんだ(この間ずっと密輸者をののしるにも声をひそめた)かくして仕事はすすめられた。12かくてある朝、童は税吏の手に、八十一句の箴言をわたしてやった。それから僅かな餞別をおしいただき松のかなたの岩陰に曲がって行った。「またとない饗宴であった」とささやきながら。13僕らはしかし、ただもてはやしはしない。表紙に載ったその名もまばゆい賢者ばかりを。賢者の賢は他人の手でしか発揮されない。ゆえに税吏よ、君にもとくと感謝しよう。君が求めてこれらの文を綴らせたのだもの。」(矢川澄子訳)
小川環樹は次のように訳している。
谷の神は決して死なない。それは神秘的な牝と名づけられる。神秘な牝の入り口、そこが天と地の(動きの)根源である。それはほそぼそとつづいて、いつまでも残り、そこから(好きなだけ)汲み出しても、決して尽きはてることがない。
「谷」と「穀」とは同音であって、「谷神」は「穀神」であり、万物を生成する神だと解釈する説(武内義雄)もあるらしい。だが、小川環樹は、「水は第八章にもみえるように、柔弱で自己を主張しない。しかもあらゆる物をおし流す大きな力のあるものの象徴であり、水のたとえは『老子』のいたるところにあらわれる。水は低いところに集まり、水の集まる場所が谷であるから、谷には水の力が集中しているわけで、その神の巨大なはたらきも理解できる。」とし、「『綿綿として・・・・・・』の句は、谷川を流れる水が、ほそぼそとしていても尽きないありさまを、心に想い浮かべつつ、無力にみえて実はそうでない、ある永遠のはたらきを説こうとするのである。」と解している。
「牝」は雌である。となると、世界を生みだした母神、しかも水のイメージを湛えた水神的性格をあわせもった母神についての神話伝説の名残りを老子の言葉の背後に認めることができるかもしれない。津田左右吉は、儒教にはその痕跡すら見当たらない『老子』の宇宙生成論は、民間説話から取り入れたものではないかと推測している。
全体に「老子」、従つて又た一般の道家、の言説には民間的色彩が可なり濃厚であるので、「老子」に往々、母子とか、雌雄とか、牝牡とかいふ語が用ゐられ、又は腹、骨、目などの肢体、もしくは谿、谷といふやうな地相の名が取つてあり、「谷神不死、是謂之玄牝、玄牝之門、是謂天地根、」(六章)といふ有名な句も作られてゐる如く、一種特殊の表現法のあるのも、亦た或は俚諺俗話などに何かの由来があるのかも知れぬ。単なる譬喩の言としては頗る調子外れであり、又た他の典籍に類例も無いから、これは別に本づくところがあらうと思はれるからである。俚諺の興味は世相の裏面を穿ち、処世の道を示すところにあり、世故に長けたものの体験から出たものであることを思ふと、「老子」が俚諺から取つたところは、単に其のいひかたばかりでは無かつたことをも参考するがよい。(『道家の思想と其の展開』)
富士川英郎は「谷神不死」(『萩原朔太郎雑志』所収)というエッセイのなかで、『老子』の言葉の裏に原始母神への信仰を見てとった文章に石田英一郎の「桃太郎の母」があり、その説がドイツの中国学者エルヴィン・ルッセールの「龍と牝馬」という論文によるものであることを指摘したうえで、そのルッセールが訳した『老子』第六章を紹介している。
泉のわく谷の神は死なないそれは神秘な獣の女神である神秘な獣の女神の胎は天と地の根元である絶えることのない絲のようにそれはいつまでも尽きずなんの苦もなく作用いている。
「神秘な獣の女神」となると、ぐっと具体的なイメージになるが、獣と限定されることによって、女性原理そのものをぎりぎりのところで「玄牝」とした表現を甘くしてしまっている印象をもつのも確かである。
ところで、「谷神不死」というエッセイは、同名の萩原朔太郎のエッセイを紹介する文章である。このエッセイは雑誌「文章倶楽部」の昭和二年五月号に載ったもので、現在は筑摩書房版の『萩原朔太郎全集』第八巻に収められているが、それ以前はどんな単行本にも収録されなかったものらしい。実際、私がもっている新潮社版の『萩原朔太郎全集』(全五巻)には収録されていない。
萩原朔太郎にとって、老子は重要な名前のひとつであり、『絶望の逃走』(昭和十年)というアフォリズム集の「偉大なる教師たち」という項目では、ドストエフスキー、ニーチェ、ポー、ボードレール、ゲーテ、ショーペンハウエルと並んで老子があげられており、「老子は大自然の山嶽であり、支那の国土が生んだ玄牝である。彼の居る思想の谷には、永遠不死の谷神が住み、宇宙と共に夢を見て居る。」と書かれている。また、昭和三年に刊行された第一書房の『萩原朔太郎詩集』の「『青描』以後」には、老子をテーマにした詩がある。
桃李の道――老子の幻想から聖人よ あなたの道を教へてくれ繁華な村落はまだ遠く鶏や犢の声さへも霞の中にきこえる。聖人よ あなたの真理をきかせてくれ。杏の花のどんよりとした季節のころにああ 私は家を出で なにの学問を学んできたかむなしく青春はうしなはれて恋も 名誉も 空想も みんな楊柳の牆に涸れてしまつた。聖人よ日は田舎の野路にまだ高く村村の娘が唱ふ機歌の声も遠くきこえる。聖人よ どうして道を語らないかあなたは黙し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の郷でことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。ああ この道徳の人を知らない昼頃になつて村に行きあなたは農家の庖廚に坐るでせう。さびしい路上の聖人よわたしは別れ もはや遠くあなたの沓音を聴かないだらう。悲しみしのびがたい時でさへもああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。
『史記』列伝の李将軍の賛にある、徳のある人間のもとには自然に人が集まることを例えた「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」という表現も念頭に置いているのだろうが、慕わしくまた懐かしい人物として老子が描かれているのは興味深い。
或は「世界の謎」赭土の多い丘陵地方のさびしい洞窟の中に眠つてゐるひとよ君は貝でもない 骨でもない 物でもない。さうして礒草の枯れた砂地に古く錆びついた時計のやうでもないではないか。ああ 君は「真理」の影か 幽霊かいくとせもいくとせもそこに坐つてゐるふしぎの魚のやうに生きてゐる木乃伊よ。このたへがたくさびしい荒野の涯で海はかうかうと空に鳴り大海嘯の遠く押しよせてくるひびきがきこえる。君の耳はそれを聴くか?久遠のひと 仏陀よ!
たとえば、同じ「『青猫』以後」で、数篇後に置かれている「仏陀」は老子にくらべるとだいぶんよそよそしいものになっている。「むなしく青春はうしなはれて/恋も 名誉も 空想も みんな楊柳の牆に涸れてしまつた。」と自分の胸中を語ることもないし、「聖人よ」と呼びかけることもなく、桃や李の花が咲き、娘の機歌が遠く聞えてくるような牧歌的かつ夢幻的な風景が拡がっているわけでもない。
関の関所の監督官である尹喜に頼まれて書いたという『史記』の記述が歴史的事実であるかどうかはともかく、『老子』という書物がひととの偶然の出会いによって成立していることがパーソナルな慕わしさを老子に感じさせることになっているのだろう。彼は、宗教的確信をもって、自らの教えを無数の群衆に向けて語ったわけではなかった。
ちなみに、郭沫若は『歴史小品』のなかの一篇、「老子 函谷関に帰る」で老子と尹喜の後日談を小説にしている。尹喜は老子の薫陶よろしく、人を避けて隠遁生活を送っている。そこに老子が戻ってくる。手には牛の尻尾を握っている。老子が絵画に描かれるときには牛にのった姿であることが多いが、その尻尾はまさしく老子が旅立っていったときの牛のものだ。
老子は水も草もない砂漠で牛が倒れてしまったこと、与える食べものもなく、なすすべもなく見守ることしかできなかったこと、しまいには自分も空腹に耐えられなくなり、牛の太腿を切りつけると、その血を飲んで命をつないだことを語る。そして、「わしは完全に利己主義の小人なのだ。わしのこの書物は、完全に偽善の経典なのだ。わしは、自分が天下唯一の直なる人間であることを見せたいばかりに、ことさらに西の方に道をとったのだ。砂漠に行って特異さを目立たせてやろうと考えたのである。やれやれ、わしは大きなそろばん違いをした。門を出ずにいては、結局、天下を知ることはできないものだ。かなしいことに、わしが想像していた砂漠と、現実の砂漠とは、完全に別のものであった。」(平岡武夫訳)と自分の思想を完全に否定し、「人間界に帰って行って、まじめに、ひとつ、人間の生活をしようと思う」と言うや、人を誤らせるものだといって自分の書いた『道徳経』を持ち去ってしまうのだ。
残された尹喜は、「歴史あって以来の大賊(哲?)老子め、きさまはその『偽善経』を抱えて行ったが、また本屋に行って、麦餅をいくつかかたりとるのだろう。フン、・・・・・・」と毒づく。思いきって老子を俗物にしたのが工夫だが、理論と現実との相違というごく平凡なテーマに落着いてしまっているとも言える。
他方において、キリスト教の楽園観念には山が存在しない、ということをモース・ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』で読んで、ちょっと不意を突かれたように感じた。完璧な形態とは球であって、山はその完璧さを乱すものでしかない。人間の身体との比較で類推すると、山は地球の皺と考えられる。皺は衰えであり、老化であり、衰え老化するものは死すべきものであるから、完璧である楽園には存在しないというわけである。
それゆえ、山は醜く、人間の罪のしるしでもある。山が宗教的な畏怖をもって、崇高な美しさをもつものと受け取られるようになったのは、ようやく十七世紀の終りころのことだという。このことから思いおこされるのは、『荘子』の第七、応帝王篇の最後にある次のようなエピソードである。
南海の帝を儵といい、北海の帝を忽といい、中央の帝を混沌という。あるとき儵と忽とが、混沌のすむ土地で出会ったことがある。主人役の混沌は、このふたりをたいへん手厚くもてなした。感激した儵と忽とは、混沌の厚意に報いようとして相談した。「人間の身体にはみな七つの穴があって、これで、見たり、聞いたり、食ったり、息をしたりしている。ところが、混沌だけにはこれがない。ひとつ、穴をあけてあげてはどうだろうか」そこでふたりは、毎日一つずつ、混沌の身体に穴をあけていったが、七日目になると混沌は死んでしまった。(森三樹三郎訳)
儵と忽は、ともにすばやい、たちまちの意味で、「機敏で利口なもの、または早合点をするものの意が寓されているのであろう」と注釈されている。森三樹三郎の解説にある通り、混沌とは自然の象徴であろう。穴を開けるという行為は自然の文明化であり、儒教を暗に揶揄しているとも考えられる。もちろん、西王母が住んでいるとされる崑崙などに見られるように、中国では山は神的なものだったが、平滑な表面に傷があることが過ちや罪の結果であることは共通している。
ところで、混沌と道はどんな関係にあるのだろうか。「ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである。庸とは用の意味であり、自然の作用ということである。自然の作用とは、すべてを通じて一である道のはたらきである。すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得することにほかならない。この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである」(第二 斉物論篇)などといった文章を読むと、道と自然とはほぼ同じものであり、それゆえ混沌とも同じものであるとも考えられる。だが、すべての根源である道が南北の帝にはさまれた三人目の帝であるに過ぎず、七つの穴を開けられたくらいで死んでしまうのも奇妙な話である。
混沌は第十二 天地篇にも登場する。孔子の弟子の子貢が、旅先の南方の楚の国から帰る途次、畑仕事をしているひとりの老人に出会う。老人は井戸のなかに入って瓶に水を汲み、畑に注ぐことを繰りかえしている。子貢は水を汲むのに機械を用いることを勧める。老人は、機械に頼ると、機械に頼る心が生じ、自然なままの純白の美しさが失われると反駁し、子貢が孔子の弟子であることを知ると、つまらない教えを棄て去らねば道に近づくことはできぬ、と一喝する。
茫然自失となった子貢は魯の国に帰ると、老人のことを孔子に話した。孔子は、その老人が少しばかり混沌氏の術を生かじりした程度の人間だと見破る。そして、「もし真に混沌氏の術を学びとって、一点のくもりもない澄みきった心のままに素の境地にはいり、いっさいの人為をすてて朴の状態にかえり、自然のままの性や心を自分の身にいだいたまま、世俗の世界に遊ぶものがあったとしたら、お前はもっとびっくりしたにちがいない」と語る。
道を世界の根本原理だとすると、中央の帝であり、叡智の持ち主であるらしい混沌とは、道を体現した人物を寓したものだと言えるかもしれない。そのため死ぬこともありうるわけである。しかしながら、儵と忽が開けた七つの穴が目、耳、鼻、口を、つまりは人間性や文明をあらわしており、それらが混沌を死に至らしめたとしても、道家の思想は人間性や文明を排除し、始原的なカオスに立ち戻ろうとするわけではない、と『初期タオイズムの神話と意味』のN・J・ジラルドーは述べている。
道が永遠に「死滅して」は「生成する」連続的創造の観点からすると、タオイストの目標とは最終的な結末として原初の状態に立ち帰ること、世界の創造以前にあった無時間的な無のなかで消滅してしまうことにあるのではない。むしろ、道のあり方に共感するタオイストたちは、カオスやコスモスどちらかに結末があることを拒否しなければならない。真の生を生きるには、物事の自然なあり方、絶え間なく循環するカオスと世界の再創造との相互作用に従わねばならない。カオスは世界の根源であり、根底でもある。しかし、より重要なのは、人間の生の充実とは、カオスとコスモス、無と存在を同時に奉じ、原初と回帰との永続的な円環を生きることにしかない。文化的英雄である忽と儵の失敗とは、堯や舜と同じく、カオス、自然、あるいは原始的文化が文明によって永遠に取って代りうると信じたこと、あるいは、コスモスが周期的に戻ってくるカオスに常に依存しているわけではないと信じたことにある。別の言い方をすれば、タオイストの見地から見た儒教の罪とは、生を永遠の回帰ととらえる神話的ヴィジョンをより歴史的な、漸進的な文化の発達という概念に取って代えたところにある。
だが、カオスとコスモスの永劫回帰というこの考え方は、神話的祖型や神聖なものへの周期的な回帰と近代になって顕著なものとなった歴史主義とを対峙させるエリアーデ的な考え方が色濃くあらわれているのと、カオスとコスモスとが共存する調和的な生を理想とするところなど、やや優等生的だと思われなくもない。
道家思想をある意味エコロジカルな平衡を目指すものと見なすよりは、道とは表象も言語化も不可能な不気味でリアルな実質であり、石川淳が書いているように「仙人にもいろいろあつて、張道陵は邪法の魔を降し、東方朔は漢王の宮に遊び、許宣平は南山の奥に隠れ、林霊素は宋朝の政を扶け、左元放は梟雄曹操を翻弄し、彭祖は女房を四十九人取りかへるなど、地上に於ける出没ぶりは多様」(「張柏端」)であり、その多様な人間のなかにはこうしたリアルな実質に触れる者がいるのだと、また多様な自然のなかには「玄牝の門」のようにそんな実質が剥きだしになった裂け目があるのだと考えた方が世界はより驚異に満ちたものとなるように思える。
ところで、ペッカムの『悲劇的ヴィジョンを越えて』は、「十九世紀におけるアイデンティティの探求」と副題がついている。十八世紀は啓蒙主義の、理性の時代であり、極端に言えば、神なしでも理性があればやっていける、より穏やかには、理性の対象となるものの拡がりは、神の創造の広がりと最終的には一致するのだとも考えられるようになった。
しかし、道徳の問題については困難な諸問題が噴出したと言っていい。教会の権威に頼らない以上、自ら道徳的行為ばかりでなくその根拠をも示さねばならない。たとえば、自然が神の創造したものであり、それに倣うのが正しい道なら、天変地異が人間の営みなど吹き飛ばしてしまうように、力をもった人間が弱者をなぎ倒して構わないというようなサドの登場人物の論理も生まれてくる。
いくつかの解決策が提示された、とペッカムは言う。第一に、宇宙的保守主義とでもいうべき立場がある。社会は自然の産物であり、社会が定め制定する慣習もまた自然なものである。であから、殺人を犯すのは悪いことであり、殺人者を絞首刑にするのは正しい。道徳の仕事とは、現にある通りの慣習に我々を順応させることにある。この立場の弱さは、慣習や法の首尾一貫した構造を具えているような社会などなく、多様な社会が多様な慣習をもっていることにある。
第二の解決策は、もっとも頻繁にあらわれるものを平常だとし、平常なものが自然であり、自然なものが善なのだとする。もっとも共通の慣習、合意が善である。しかし、ここにも弱点がある。ある時代、ある社会において統計的にもっとも頻繁にあらわれるものが、別の時代や地域では異常なものであるかもしれない。泥棒の村では正直者こそ異常となる。
第三の解決策は、支配的なものではあるが、もっとも危険なものでもあって、自然に等級をつけようとする。悪そのものは存在しない。だが、よりよい行動というものはある。知性や知識を用いれば、自然の法則によりよく適合した行動が理解される。
人間は社会的な動物なので、殺人よりはひとを大切にすることの方が自然である。人間の無知につけ込み、無知のままにとどめておこうとする専制的な支配よりは、社会的な調和のなかで生きる方が自然である。教育が人の悪い部分をすべて解決する。つまり、人間は完璧になりうる。
しかし、完璧になるには、その妨げとなるものを破壊しなければならない。目的が善であり自然なら、その目的に達するための手段ももちろん善である。フランス貴族が完璧な社会をつくりあげるのに邪魔なら、皆殺しにすればいい。こうした解決策に従うなら、どれだけの厳格さをも振るえるし、揺らぐこのない正当性という幻想にいつまでもとらえられている。
どの解決策も満足するに足りない。また、理性によって世界を解釈していこうとするより限定された哲学的な合理主義にしても、世界の事象に合理的な根拠などななく、根拠と思っているのはこれまでもそうだったから次もそうであろうと思う信念でしかないことをあらわしたヒュームの懐疑主義にまで至ってしまった。その結果、人間は神にも理性にも頼り切れない混迷のなかに入りこんでいく。
吉田健一などの史観によれば、十八世紀は理性の偉大な世紀であり、十九世紀はヨーロッパが自分の姿を見失い、衰弱に陥っていた。十九世紀末にいたって、ニーチェやワイルドの登場によってようやく西欧はおよそ一世紀にわたる衰弱から立ち直るというのだが、当然のことながら、衰弱になるにもそれなりの理由はあったのである。
モース・ペッカムは、十九世紀の哲学者や文学者たちが投げだされた、あらゆる権威が破綻してしまった状況を地獄よりもたちの悪い荒野にいることに例えている。
というのも、「地獄には少なくとも秩序と意味があるからである。価値が欠けていることは、神とともにある価値の存在があることを意味している。地獄は非価値の場所ではない。そこにあることは苦痛でしかないかもしれないが、居場所があるには違いない。罪は美徳の存在を意味しているが、荒地には美徳も罪も存在しないのである。」(『悲劇的ヴィジョンを越えて』)
荒野にいる者たちは、そこから脱出する道を求めてさまよい歩く。美徳も罪もない荒野で向かう方角を決め、歩きつづけることは、一方ではその動機づけを維持するための、ある意味病的とも言えるかもしれない観念の固着を生みだし(こちらの方向で正しいはずだ)、他方ではさまよい歩かざるを得ない状況に対する悲しみや絶望感が吐露されることにもなろう。しかし、美徳も罪もない場所での悲しみや絶望感は、いかにそれが真正なものであろうとすぐに風化してしまうことになる。そこには対抗して提示されるような新たな価値がないからである。
吉田健一がヨーロッパの十九世紀を衰弱の世紀とし、この世紀の精神をもっとも典型的に象徴するロマン主義を批判するのは、こうした風化した観念が生の実質を蝕み、取って代ってしまったからだった。悲しみや絶望感とはいっても、それを克服することによって生の実質を取り戻すためのリアルな障碍なのではなく、単なる符丁に過ぎない。したがって、言葉つきこそ深刻だが、上っ調子の抵抗感のないものとしてロマン主義は特徴づけられる。
併し観念だけを観念的に用ゐて他の言葉に力を持たせることは出来ない。或る言葉の権威に寄り掛かるのは言葉といふもの全体に対して鈍感になることで、もし例へば絶望といふ言葉はどこにどう使つてもそれだけの働きをするものといふ態度を取るならばそれと他の種類の言葉を区別する必要を認める理由も失はれて、それならば花が咲いても家の窓から明りが差してもそれもたださう言つた景物に過ぎなくなる。又さういふ言葉の使ひ方をすれば詩では調べがいいといふやうなことでそれを読むものが運んでいけて散文でも一般に或る風に受け入れられてゐる観念を別なもの、或はもつと正確には言葉として扱つて生かすことを避けさへすれば読者に背かれる心配がない。かうして反逆の文学などといふものではなくて浪漫主義の文学の特徴は抵抗がないといふことにあり、科学と政治で一種の画一主義に走つた十九世紀のヨオロツパは文学の面でも別に神経を苛立たせるものを見出さなかつた。(『ヨオロツパの世紀末』)
こうしたロマン主義の軽薄さを鮮やかに反転させたのがポオやボードレールということになる。ロマン主義中心の文学観によれば、彼らはロマン主義的なテーマを集大成し、形式的な完成にまで導いたということになろうが、吉田健一(あるいはこの点では彼に決定的な影響を与えたと言えるヴァレリー)にとっては、ポオやボードレールはロマン主義の延長線上にあるのではなく、まったく異なった定位を示したのである。
彼らは、荒野を固定観念をもってさまよい歩くこともなければ、悲しみや絶望を歌い上げることもしない。はじめて荒野で生きることを選択したのである。悲しみや絶望の代用品として集められていたロマン主義テーマは、実際にそれを生きることでまったく異なった意味合いをもつことになる。
もしボオドレエルの詩に苦悶や絶望があるならば我々は正常な人間として辟易する筈であり、それがあるとも見られるのはボオドレエルが自分の周囲に、或はこれは全く同じことであるが、自分の精神のうちにさうしたものがあつたので丁度花の下に立つた西行のやうにそれを材料に使つて言葉を探したに過ぎない。彼は馬の腐り掛けた死骸まで自分の愛人に宛てた詩に織り込むことが出来て、それを読んで我々の精神も彼のに支へられてたじろがない。(同前)
馬の腐りかけた死骸は、悲しみや絶望感の比喩でもなければ言い換えでもなく、なにはさておき馬の腐りかけた死骸であり、そうした正確な目を働かせることがとりも直さず生の実質を保証する。荒野で生活することを決意した人間たちが生の実質、吉田健一の著作の題名でいうなら『時間』や『変化』を、観念に惑わされることなく正確に認識しはじめたのが十九世紀末だということになる。吉田健一の文章ではおなじみの酒を飲むことや食べることもまた生の実質の枢要な部分を形づくるものだと言えよう。