オルダス・ハックリレー「(アルフィエーリ)」(翻訳)

 

アルフィエーリ自伝

アルフィエーリ自伝

 

  ルイス・キャロルの詩の少年のように、「ぼくは詩を書きたい、ぼくは韻を踏んでみたい」というのは可能だが、単に韻を踏んで書くだけでなく、詩人になることは望むだけで可能だろうか。ひとは意志の力だけで芸術家になることが可能なのだろうか。宇宙にほとんど道徳がないのなら、確かに可能かもしれない。というのも、道徳的に、「意志は才能よりも威厳に結びつくことができ、またするもの」だからである。たまたま才能がありまったく自己規律を欠いたものが、本来の素質に欠いているが意志と信念と忍耐と勤勉に富んだものより、ずっと偉大なことができるというのは深く衝撃を受ける。それでは、ほとんど、集中された意志だけでは物事を達成できないことになる。もしある種のスピリチュアリスとを信じるとすると、意志の力だけで家具を動かし、望むだけで宙に浮かせることができるらしい。しかし、意志の力だけで偉大な芸術家となることに成功したものはいまだいない。ベンジャミン・ロバート・ハイドンの燃えあがるような欲望と信念は彼が二流であるという無情な事実に対してなんの利益にもならない。そして、意志だけで十分ならば、ベン・ジョンソンシェイクスピアと同じ位偉大であったろう。しかし、文学的偉大さへの意志を持ち続けた人間としてアルフィエーリほど極端な例は存在せず、このことは彼を悲劇的な詩人に非常に近づけるほどである。


 彼自身によるヴィクトール・アルフィエーリの生涯は世界の偉大な自伝のひとつである。それは非常に興味深く非常にエキセントリックな性格を鋭く、公正に描いている。自分自身を描くにあたって、アルフィエーリは十八世紀の心理学者の冷淡な正確さを示している。彼は自分の強みと弱さを研究し、すべての行動を理性によって分析し説明し、本能と情念とより高次の能力との関係を思慮深く反省することで一般化している。


 アルフィエーリは当時はサルディニア王国の一部であったピエモントのアッチで1746年に生まれた。両親は貴族で富があったが、その当時以前も以後もそうした階級にあった多くのものと同じように、紳士は物知りになる必要はなく、富と高貴さはそれ自体で教育が付け加える優雅さを兼ね備えることができる十分に光輝があるものだという意見を持っていた。しかしながら、彼らは若いヴィクトールをピエモントの主要な教育施設、トリノのアカデミーに送るように勧められた。この施設でアルフィエーリは八年過ごし、十八のときにほとんど楽園失墜前の無知の状態で世界にでた。彼は古代のものであれ現代のものであれ、いかなる言語も正確に話したり書いたりすることはできなかった。もちろん、ラテン語は八年間のあいだ継続的に勉強したが、我々はそれがなにを意味するかを知っている。自国語についてはひとつも持っていなかった。フランス語の名残をとどめた、野蛮な非トスカナ的なイタリア語が彼の表現手段だった。本当のイタリア語や純粋なフランス語については無知だった。トリノの王立アカデミーは、手に負えない若い野蛮人たち――未知の文明に強いあこがれをもつ野蛮人、許容される表現手段が差し止められ、感情を暴力的で落ち着きのない行動でしか表に出すことのできない者たち――を世界に解き放った。彼はまさしくそうした人間だった。


 一八世紀の六十年代、七十年代を通じて、ヨーロッパのあらゆる国の住人たちは、赤い髪をした凶暴な若いイタリア人がまるで悪魔にでも追われているかのように突き進む光景を見て驚いた。早く進めば進む程、彼は喜んだのだった。イギリスでは彼は一日のうち八時間を馬上にいるか、もっともよく調練された馬がひく馬車の軸の間にあった。スウェーデンでは早さばかりではなく、北方の冬の極度の寒さが奇妙なワインのように気分を引き立てたので、そりを楽しんだ。というのも、彼は極端を愛し、なんにせよ中間的なものには我慢できなかったからである。獣のように残忍で寡黙であることを誇っていたので、滅多に仲間と連れ添うこともできず、最終的にしばらくの間立ち止まらざるを得なくなると、気難しげにひとりで座り、憂鬱で麻痺したような状態に落ち込むのだった。心の内では、彼はまったくの無知を恥じており、それが仲間と一緒になることを恐れさせていた。しかし、恥は概して、彼には欠けている知識を持つものに対する憎しみと軽蔑という形を取った。孤独から抜けだすときには、通常女性と連れ立ち、のちにはその欲望の暴力的なまでの力に溺れ、勉強に専念したいときには、価値のない愛を求めて恣になることを恐れて、召使いに自分を椅子に縛りつけることを命じなければならなかった。


 時が過ぎ、次第にこの馬鹿げたせわしなさは止んでいった。アルフィエーリは自分の生において成し遂げたいことを少々明瞭に見始めることになった。彼はどんな対価を払おうと、方法によろうとも偉人になりたかった。彼は二十五歳くらいにプルタークの『対比列伝』を読み、夢中になった。「偉人たちのすばらしい行動を読んで、私は自分が何も偉大なことが行われも言われもされず、せいぜいひとが偉大なことを貧弱に考え、あるいは感じるだけのピエモントのこの政府のこの時代に生まれたことを考えただけでも、怒りと悲しみの涙が流れはじめるだろう。」1770年のイタリアでは英雄的な行動は考えられなかった。文学にしか英雄的なものは存在しなかった。アルフィエーリは悲劇詩人になることに決めた。まずは書くための言語をもつことが必要だった。アルフィエーリはフローレンスに住み、トスカナ語を学ぶことに専心した。ある種の文化をもつことが必要だった。トリノ・アカデミーで学んだはずのラテン語を教わるために教師を雇った。最終的により英雄的な側面の偉大な情念を直に研究する必要があり、その瞬間、先見の明があるかのように、アルバニーの伯爵夫人がアルフィエーリの視野に現れた。彼らが会ったとき、夫は若いふりをしているが、年を取ったむかつく男で、酒を飲むことと妻を虐待する以外にはほとんど何もしなかった。アルフィエーリは自由をもたらすものであり、慰め手でもあった。彼らの愛の物語はよく知られている。


 その間、アルフィエーリは法外な勤勉さと忍耐とで悲劇を書いた。彼は言語を見いだし、詩の芸術を修めた。十四の劇が書かれ、書き直され、叩き直し、研ぎ、繰り返し繰り返し磨いて、偉人であることを決定的なものとして証拠立てようとした。詩の道を出発してからは、彼は振り返らなかった。古い野蛮人は死んだ。しかし、まったく死んだわけではなく、一度だけ、勉強の途中で、もとの生活に戻りたいという抗しがたい熱望にとらわれた。欲望があまりに切迫していたので、十四匹の巨大な馬をイギリスで購入したが——無限の苦痛と代償を払ってすすめていた悲劇のためにイタリアに戻ることになった。馬、女性、悲劇の女神——それらが彼の三つの偉大な情熱であり、馬への情熱は恐らくもっとも強かった。しかし、女神への情熱は合理的で、意志的な情熱であり、アルフィエーリはそれを勝利させるだけの力をもっていた。「ぼくは詩人になりたい、韻を踏んで書いてみたい」しかし、ああ、これら十四の悲劇をいま誰が読もう。私も試みたが、告白しなければならないが、目立つような成功は得られなかった。


     [『マルジナリア』1920年8月]