酸漿という病――泉鏡花『酸漿』

 澁澤龍彦はかつて疫病小説全集を夢想した。ヨブ記から始まり、ジロラモ・フラカストロの『ジフィリデス』(梅毒)、ポオの『赤死病』『ペスト王』、デフォーの『疫病流行記』、ユイスマンスの『スキュエダムの聖女』、ホフマンスタールの『バソンピエール元帥綺譚』(ペスト)、マルセル・シュオッブの『黄金仮面王』(レプラ)、ルノルマンの『モロッコの春』(天然痘)、ミシェル・レリスの『てんかん』、ジョゼフ・デルテイユの『コレラ』、カミュの『ペスト』があげられる(「私の推薦する悪書10選」『ホモ・エロティクス』所収)。

 

 また、幸田露伴は「筆と病」という随筆のなかで、日本や中国の小説にあらわれる病を列挙している。眼病は真珠の粉という高価な薬が必要とされるため、凡庸作者の合巻類に用いられる。とり目は復讐譚の返り討ちに適当なものとして使われる。内障眼は藤掛道十郎(河竹默阿彌の『勧善懲悪覗機関』)、盲目が復明する話としては雨香園柳浪の『朝顔日記』、『壺坂霊験記』。癩病は『俊徳丸』、『箱根霊験躄仇討』の勝五郎。人面瘡は『神稲水滸伝』。梅毒は悪人淫婦の末路に多い。ヒステリー、難産は怪談に、てんかん、ろくろ首は滑稽に用いられる。病人の姿が二人に見えてくるという影の病も元の『倩女離魂』よりこのかた多く見られる。

 

 そして、「明治に至りて肺病甚だ多く現はるゝに至れり」と書いているが、肺病についていえば泉鏡花の短篇『酸漿』(明治44年)ほど気味の悪いものはない。赤十字病院に肺病で入院している朋輩の見舞いに行って帰ってきた小銀の顔色は悪かった。妹分が尋ねると、病院から帰る電車のなかで、胸の悪くなるような不気味な女が隣に座ったのだという。

 

 よれよれの半襟の下から汚い白の肌襦袢がのぞき、破れた足袋からは真っ黒な爪がでている。赤くただれた目尻の下がったのはやもりの腹を切ったようで、額へ向けて青筋が走っている。爪楊枝で歯茎のあいだをぐいぐいとせせり、べとべと濡れた歯茎からよだれが伝って唐紅でも塗ったように顎は真っ赤になっている。

 

 顎をこすると奥歯がとれかけているらしくかちかちと鳴り、そのかちかち鳴る音と一緒にキュッキュッと酸漿を吹くのだという。脂で黒くなった舌の先に酸漿を出し、ぐしゃりと舐めて、どろどろと歯にはさむ、そして口を開けるたびに唾が顔にかかるというのだ。

 

 どうにも我慢がならなくなって、途中で降り、顔を洗えるような場所をと思って蕎麦屋に入った。盥で幾度も顔を洗って、なにも頼まないわけにいかないから天ぷら蕎麦を頼む。蓋を取ると、蕎麦のあいだから赤いものがむっくりと浮んだ。

 

 そのゴム酸漿を自分は呑みこんだに違いない、と小銀は言い張る。それっきり見えなくなってしまったからだ。いまでも酸漿が喉に引っかかっているという。魚の骨が喉に引っかかったような折には、象牙の箸で喉を撫でると取れるという。

 

 さっそく当ててみると、あっと言うので、あてがった茶碗には鮮やかな血が。嬉しい、半分溶けて、と小銀は言ってそのまま病床についた。それから死ぬまで、血を吐くごとに、嬉しそうに「あゝ嬉しい、酸漿が出るんだねえ」と言った。

 

 本来目に見えるはずもない病原を酸漿として形象化したのが魅力的である。団栗のように硬質でもなく、トマトのようにすぐ崩れてしまうこともない酸漿(酸漿はナス科である)はぐじゅぐじゅした状態のままいつまでも鮮やかな血の色をどくどくとあふれさせるのである。