オルダス・ハックリレー「(ベーコンのシンボリズム)」(翻訳)

 

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

 

 

 すべての事物はそう信じたがっているものには深く象徴的である。人間は尻尾をもっていない。実験材料ももっていない。死人の頭は反語的に笑っているようである。天井の星々は奇妙で曖昧な意味合いをもったパターンで落ちる。大熊座は鋤でもあり、荷車でもあり、ひしゃくでもある。動物寓話では、獅子は巣のなかで三日のあいだ眠りそれから目覚め、息を鋭くまた甘くはき出すと、すべての生物が引き寄せられ、祈りを捧げることからキリストの象徴だとされる。ある動物寓話では、獅子はまた我々の宗教の土台をつくったものに象徴される。別の寓話では獅子と豹は悪を意味する。すべてが象徴学では深遠で神秘的で、数多くの師匠がおり、それぞれが同じ現象を自分なりに解釈するので、寓話とアレゴリーの技術は学びがたい。石はジェイクウィズたちがそれらについて沈思するのと同じくらい多くを説教する。流れる小川はボーディアン図書館すべてが入るほどのものを含んでいる。世界をシンボリズムによってみることは、人間性の長期にわたる弱さの一つである。物事はそれがあるようにあると信じることは多大な洗練であることに違いない——不透明な対象をそれ自体においてまたそれ自体のために興味を持ち、透明な窓から更に遠くのより意味深い現実を凝視しようとはしない。


 もし人間が常に生命のないものに象徴を見いだすならば、文学をどれほ寓話化しようとするだろうか。先頃、私は理解しがたい人間に対する不満を引用する機会があった。新たな流行であるヒューマニストは自分たちが讃仰する古代のテキストに、霊的なもの、寓話的なもの、神秘的解釈、象徴的意味合いをまったく理解していなかった。彼らは目の前にあるものの曖昧な文字通りの意味に満足していた。オウィディウスの『変身物語』は、話の底流にある深遠な神学的な真理を知っていたらどれほど興味深いものになるだろうか。『ソロモンの歌』は注釈者が真の意味を明らかにしたらどれほど教訓的だろうか。中世は象徴学者で満ちていた。解しがたい人間への不満にもかかわらず、象徴化する傾向がなければルネサンスもなかった。宇宙に対する象徴的な見方はまだ行き渡っており、当時の科学者の多くは、人間は宇宙の小模型の象徴でありそれと等しいと主張する過度に複雑でもあり過度に単純化もされているミクロコスモスの理論に喜んだ。ルネサンス人は過去の文学にある象徴やアレゴリーを無視することがなかった。神聖で古典的な書き物はいまだ象徴主義者の密接な探求の対象だった。もっとも啓蒙された人間でさえ、ただひとつの意味しか読み取られていなかったところに二つの意味をつくりだすことに喜んで耽溺していた——イギリスの最も偉大な啓蒙主義使徒のなかにもフランシス・ベーコンがいる。


 ベーコンの『古代の人間について』は私が常に特別に愛着している書物である。私は知恵というものに大いに弱みをもっている。賢者が世界から超越した姿勢で、判断の正当性について述べていると私は深く共感してしまう。ソロモンからアナトール・フランスまで、すべての賢者に私は親愛の感をいだいているが、ベーコン以上に親愛な人物はおらず、その『古代の人間について』の知恵の果実は、たいそう熟していて、桑の実があまりに巨大で木をたわませて、自然にその精神から落ちたもののように思える。ベーコンが自分の本を『古代の知恵』と名づけたのは慎みのなせる技であった。というのも、そのなかにある知恵はすべて彼自身のものだからである。古代人が関わっているのは一連の楽しい神話で、ベーコンがそれを人間に寓話化している。ベーコンがこの本をラテン語で書くことにしたのは不運なことだった。彼は自らのエッセイで言っている、「ラテン語で書かれたものは(普遍的な言語であるので)書物が存在するかぎり存在するだろう。」と。彼の考えは間違っており、今日の普通の読者は『古代の人間について』をスペディングの賞讃すべき翻訳で研究することを好んでいる。


 科学的歴史や人類学の発明以前の世界ではどこでも同じようなものだが、ベーコンは偉大な根源的文明は前史以前に存在したと信じていた――その文明の蓄積された知恵はギリシャとローマに伝わったが、アレゴリカルな寓話のヴェールに包まれていた。こうした神話の解釈者として、彼はただ古代の知恵を取り戻しただけである。しかし、彼は自分の理論の熱狂的なパルチザンではなかった。「全体として」と彼は言っている、「私はこう結論する。歴史初期の知恵は偉大でもあり幸運でもあった。彼らが自分のしていることを心得ており、意味を覆うすべを発明したのなら偉大であるし、とくに意味するつもりも意図することもなくそうした価値ある熟考をたまたましたのなら幸運だった。」アレゴリーによる解釈の危険についても彼は気づいていないわけではなかった。

 

寓話は好きなように描けるし、ほんのわずかの器用さと機知にあふれた語り口があるなら、決して意味していないようなことをもっともらしく当てはめることができることは私も十分承知している。実際古くから誤用された例があることを私は忘れたわけではない。古代に関する自分の教義と発明の承認と尊敬を得ようとして、詩の寓意の意味をねじ曲げて使用した例は数多い。それは現代の虚栄心でも希少なものでもなく、古くから目立ち頻繁に使われていたもので、クリッシパスの昔、夢の解釈の方法でもっとも古い詩を解釈し、それをストア派のために用いたのだった。

 

もし彼が今日生きていたら、ベーコンは文学の解釈者たちのひねくれた巧妙さでさらなる例を付け加えるだろう――そのなかにはシェイクスピアをベーコンだと解釈するものもいる。


 ベーコンの古典神話の解釈はときに道徳的政治的であり、ときに科学的である。科学的な解釈は興味深いというよりは奇妙なものである。「キューピッド、あるいは原子」や「プロテウス、あるいは物質」は時間の経過とともに奇想天外なものになっている。しかし、道徳的、政治的解釈はいまだ敬すべき賢明さを示している。より短い解釈のいくつかは、オーバーバリーからフレックノウにいたる十七世紀の作者たちが数多く生みだした「人様々」の原形になっている。たとえば、自己愛の象徴であるナルキソスの性格である。

 

この寓話では、自らの努力によってではなく、生来の恩寵によって美しさやその他の恩恵を受けた幸運をもった人間のいわば自分自身と恋に落ちる性向があらわされている。この種の精神状態は通常、公の場や仕事に携わっているときにはあらわれにくく、というのも仕事では多くの無視や軽蔑にさらされ、彼らの精神をくじき、混乱に陥れるからである。それゆえ、それらはひとりでの、私的な影の生活を送る。いったことを木霊のように繰り返す献身的な賞讃者だけの小さな選ばれた仲間内で、口にされるのは讃仰ばかりのところだと楽しめる。そうした習慣が次第に悪化し、自己讃仰に溺れきってしまうと、怠惰でぼんやりとし、まったく愚かになり、活力と敏活さを失ってしまう。こうした性格の標章として春の花が選ばれたのは美しい考えである。経歴の最初に咲き誇り、語られはするが、その若さが約束していた成熟において失望させるのである。

 

より洗練され巧妙な解釈として「ディオニソス、あるいは欲望」にも言及するべきだろう。ディオニソスは常にサチュルスを連れ立ってあらわれる。なぜか。


 これらの奇妙な悪魔たちが馬車のまわりで踊るのにはユーモアがある。あらゆる情念は目のなかに、そして実際のところ、顔つきや身振りに動きを生みだし、それは不作法で、取り乱し、跳ねわるようで、不格好である。怒り、軽蔑、愛その他の情念の影響下にある人間は、自分の目には偉大で堂々としているようでも、傍目には見苦しいおかしなものである。


[『マルジナリア』1920年11月19日]