落語が落語であることの浄福感――古今亭志ん生『火焔太鼓』

 

古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄

古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄

 

  鎮西為朝が小野小町に送った手紙、清盛の尿瓶、岩見重太郎のわらじなどから、この世に二つとない名器である火焔太鼓まで揃っている古道具屋は落語の世界に似ている。事実と虚構、歴史と伝説、がらくたと宝物が角突きあわせることもなく仲よく共存している。

 

 『火焔太鼓』は純粋落語と言える。落語を落語から脇に逸らせるようなものがなにもない。『文七元結』のような人情もなければ、『黄金餅』のような狂気すれすれの凄みもなく、『粗忽長屋』の不条理も、夫婦の噺ではあるが『芝浜』のような情感があるわけではない。


 もちろん、どの噺も落語を代表する噺なわけだが、突出する要素があることによって落語以外の場所に開かれている。たとえば、『文七元結』や『芝浜』は芝居で演じられることもあるし、『黄金餅』によって欲望を、『粗忽長屋』によって自己同一性を論じることができよう。だが、『火焔太鼓』は落語そのものであり、道具屋の甚兵衛が仕入れてきた埃をはたくと埃とともになくなってしまう汚い太鼓のように、落語の部分をけずるとすべてなくなってしまうようなものなのだ。


 またろくでもないものを買ってきたと女房は文句たらたらである。とにかくその太鼓の埃を小僧にはたかせていたところ、はたくとともに太鼓が鳴り、その音を聞きつけたお殿さまの使いが店にあらわれ、屋敷までもってこいとのことである。女房は価値などまったくないと思っているから、もうけのことなど考えず、元値で売るよう、そうしないとなにをされるかわからないよ、と忠告する。

 

 ところが、屋敷にもっていくと、あにはからんや、お買い上げになるとのこと、しかも三百両という思ってもみなかった大金である。大いばりで持ち帰ると、女房も腰を抜かさんばかりである。儲かるねえ、なんでも音のするものに限るよ、今度は半鐘をもってきて叩くよ、半鐘はいけないよ、おじゃんになるから。


 先々代の中村勘三郎(この間亡くなった勘三郎の父親である)は、亡くなる前入院していたとき、毎日毎日志ん生の『火焔太鼓』ばかり聞き、同じところでいつも笑っていたそうである(川戸貞吉『落語大百科』による)。それほど、落語が落語であることの浄福感に満ちあふれている噺なのである。しかも、この噺に関しては、それぞれに解釈や味の違いがあって、などといった留保を一切受けつけることなく、古今亭志ん生のものが圧倒的にすぐれていると思える。


 川戸貞吉によれば、この噺をしたのは志ん生とその息子の金原亭馬生志ん朝くらいだったというが、私が聞いたことがあるのは、志ん生以外では春風亭柳朝桂歌丸志ん朝である。いずれも志ん生の透明感がなく、ある濁りが感じられるのは、女房の造型にあるように思う。

 

 というのも、女房は口うるさく、亭主は恐妻家という設定になっているのだ。それゆえ、散々馬鹿にされた自分が仕入れてきた太鼓が高値で買われたことは女房を見返す機会でもあり、いらぬ屈折が入りこんでいる。一方、志ん生の夫婦の関係は同じく志ん生のものが圧倒的にすぐれている『替わり目』と同じであり、威張っている亭主も口うるさい女房も互いに腹のなかになにもないことがわかっているので、女房も亭主と同じように驚き喜んで、その歓びにはなんの澱みもない。