景清が消え去るまで――桂文楽『景清』

 

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 松山鏡・かんしゃく・景清

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 松山鏡・かんしゃく・景清

 

  景清が盲目と結びつけられるようになったことについて確たる定説はないようである。景清は平家に属する武将であり、壇ノ浦の戦いを生きのびた。そんなことから、中世には『平家物語』の作者のひとりとして景清があげられたこともあったという。『平家物語』は盲人によって語り継がれたので、そのこともあって景清が盲人であるという伝説が定着したのだろう。


 壇ノ浦を生きのびたことと、それ以後の経歴がはっきりしないこともあって、「景清もの」と言われるジャンルまで形成された。たとえば能の『大仏供養』は、すでに源頼朝の世になっており、東大寺の大仏供養に乗じて景清が頼朝を暗殺しようとする話である。同じく能の『景清』は、その後日談ということにもなろうか、日向国(現在の宮崎県)に流された景清を娘が訪ねる。そこで景清は盲目で、乞食同然の姿になっており、最初は自分が景清であることを認めないのだが、最後は正体を明かし壇ノ浦での自分の戦いぶりを語る。


 どちらもまさしく景清が盲目となった瞬間のことは描かれたり語られたりしないのだが、近松門左衛門の『出世景清』となると、盲目となる瞬間が描かれる。

 

 景清は頼朝を討つ前にいつも邪魔になる畠山重忠東大寺再興の行事に際して殺そうとするが失敗する。その後、浄瑠璃特有の景清を中心とした三角関係がはさまり、景清を処刑せよと命令が下されるのだが、処刑したはずの景清の姿は清水の観世音の姿に変じている。それを見た頼朝は、もしも自分が御辺に討たれることがあるなら観世音に討たれたとあきらめようと、景清の罪を許す。景清はこの沙汰に感じ入って、この眼があるために頼朝を敵としてつけ狙ってしまうのだとえぐりだしてしまうのである。


 江戸の小咄では、眼病の者が清水へ日参したもののそのかいなく盲目になってしまう。深く恨んでいると観音も不憫に思い、景清がくりだした目玉があるので、これを与えようとお告げがある。男は喜んで、自分の目玉をえぐり、景清の目玉を入れる。そこまではいいが、祇園禰宜を見るたびに頼朝ではないか、と刀を構える。


 落語の『景清』はこの噺がもとになっており、もとは上方の噺だった。上方のものでは、大名行列に斬りかかり、そちは気でも違うたか、いや、眼が違うた、とサゲる。東京の落語で『景清』といったら桂文楽だが、眼をえぐりだすなどといったえげつないところをけずり、実に端正な噺になっている。


 突然目が見えなくなった木彫師の定次郎は、二十一日間の願掛けをしたが、満願の日、同じく願掛けに通っていた女性にちょっかいをだし、かえって仏罰を受けてしまった。石田の旦那はやけになった定次郎をなぐさめ、景清に縁のある上野の清水の観音に願を掛けることを勧める。百日通い続けた定次郎だったが、満願の日が来ても目が見えるようにならない。観音様に罵声を浴びせる定次郎を心配してみにきた石田の旦那がたしなめ、一緒に帰るところ、黒雲がわき起こって、激しい雷雨、雷に打たれて昏倒した定次郎の両目は開いていた。


 桂文楽では、もはや、景清の名は噺にとって必要不可欠なものではなくなっている。復讐心も眼をえぐりだすといった極端な行為を生みだすような強い感情もすでに調伏されており、それゆえ、能から浄瑠璃や歌舞伎を経めぐった末落語にいたって、文楽が最後に言うように、「目のない方に目ができましたおめでたいお噺」、ということができた。