長いお別れ――ロバート・アルトマン『ロング・グッドバイ』(1973年)
レイモンド・チャンドラーの諸作は一通り読んだはずで、ハワード・ホークスの『三つ数えろ』の原作が『大いなる眠り』であって、脚本にはジョセフ・フォン・スタンバーグと組んで『モロッコ』や『ブロンド・ヴィナス』を担当し、後には『コンドル』や『リオ・ブラボー』でハワード・ホークスと仕事することになるジュールス・ファースマン、そしてこちらも『リオ・ブラボー』三部作といえる『エル・ドラド』『リオ・ロボ』)に加えて『ハタリ!』の脚本も書いているリー・ブラケット、さらには各種の証言によれば、ほとんどなにもしなかったらしいが、ウィリアム・フォークナーまで呼び寄せたのだが、誰一人としてなにが起っているのか把握できず、原作者に連絡はしてみたが、書いた本人からもはかばかしい答えを得ることができなかったことは、有名な話だが、私がいまひとつはっきり思いだせないのは、長さからだけからいうなら、『大いなる眠り』のほぼ二倍弱にもなる『ロング・グッドバイ』(私が読んだのは『長いお別れ』と訳されていた清水俊二訳によるものなのだが)が『大いなる眠り』と比較して果たしてより単純な物語だっただろうか、ということなのである。
『ロング・グッドバイ』の脚本は、『三つ数えろ』にも参加したリー・ブラケットであって、あるいは、『三つ数えろ』のときに経験した底なし沼でもがくような経験を繰り返したくないブラケットが、思い切って筋を単純にしたのかもしれない。もちろん、筋がよくわからないからといってホークスの『三つ数えろ』がつまらないことはないのと同様に、筋がわかるからといって『ロング・グッドバイ』がつまらないわけではない。
しかし、フィリップ・マーロウ像に関していえば、ハンフリー・ボガードにしても、それまで有力であったハリウッドの二枚目の系譜を逸脱し、ハードボイルドのヒーロー像を定着させた功績は大きいものの、ちょうど日本でいうと高倉健のようなもので、容貌こそ美男とはいえないにしても、立居振舞に隙がなさ過ぎで、ぬらりくらりとしたこの映画のエリオット・グールドの方が私の趣味にはあっている。
自宅のベランダは隣のベランダとつながっており、ヨガの実践と哲学を中心に集まっているらしい女性たちのコミュニティーが、常に半裸状態で身体を折り曲げているが、彼は特に立ち入って特別な関係をもとうとはしない。また、マーロウは猫を飼っており、それこそ猫かわいがりはしていないのだが、特定のメーカーのキャットフードしか食べない猫のために、夜中にわざわざ買いものに出かける。この隣人や猫に対する距離感がなにに対しても保たれている。
物語はいたって簡単であり、友人が妻を殺して自殺したと伝えられるのだが、まさに妻を殺し自殺した日、マーロウは頼まれて彼を車に乗せている。腑に落ちないマーロウは詳細を探り始めるが、そこにはマフィアがらみの大金が絡んでいることがわかる。このマフィア像もまた秀逸であって、小柄でいかにもちんけなチンピラのような風貌がかえって不気味さを醸造している。結局、ある裏切りがあることがわかり、マーロウなりの決着をつけて終わることになるのだが、そこにも騙されたという憤りもなければ、復讐心があるわけでもなく、その落とし前のつけ方には、猫が特定のメーカーのキャットフードしか食べないことはわかっているから、夜中であることをいとわずにキャットフードを買いに行くのと同種の、すべきことをする生存の様式がうかがわれる。
この映画はまた、踊りはないのでさすがにミュージカルとはいえないが、ある種の音楽映画でもある。音楽は脂ののりきったジョン・ウィリアムズで、テーマ曲である「ロング・グッドバイ」があらゆる編曲で、男性によって歌われ、女性によって歌われ、マーロウがバーに入ると、バー専属のピアニストがその曲をつま弾いており、メキシコに行けば、音楽葬のために町中を練り歩くブラスバンドの一群が奏でている。冒頭から何回となく繰り返される挽歌的なの色合いをもつ叙情的な調べが、ある種はじめから結末を予示しており、原作の内容がどのように変えられたにせよ、『長いお別れ』という原題にきわめて忠実な映画化であるのは間違いがない。